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四日目 潔白

 淡い色の『夢』を見た。館で平穏に暮らす夢。理容鋏が帽子を追い回し、泥酔したスペードの3が馬マスクに説教する。躁状態のヌイグルミがブラウン管テレビにダル絡みして、鳩時計は騒ぐ彼らに文句を垂らす。そして、シャンデリアとティーポットは楽しそうに、会話に花を咲かせる。


 そんな彼らを『わたし』は紅茶を飲みながら、微笑ましく眺める。夢にしてはリアリティーはあるが、この世界が紛い物の世界だと『わたし』は知っている。住人達の半分は壊れてしまったから。もう、どこにも存在しないから。


 窓の空色が剥がれ、不吉な闇があらわになると、血の雨が降り出した。笑い声が断末魔の悲鳴に変わる。賑やかなパーティーが狂乱の舞踏会に変わる。みんな苦しそうに滑稽なダンスを踊っている。住人達の姿が崩れて、グロテスクな中身がこぼれ落ちた。


 そして、わたしも壊れる。根が千切れ、葉は腐り、花弁が破れた。この悪夢からは誰も逃れることはできない。ほら、新しい悲鳴があがった。また、モノが壊れたのだ。魂を引き裂くような悲痛な叫びが、この悪夢を切り裂いた。



 夢から覚めると、わたしの体は濡れていた。湿ったカッターシャツが肌に纏わりついている。悪夢は終わったはずなのに、断末魔の残響がいつまでも消えない。まだ、夢の続きをみているのだろうか。いや、違う。これは本物の悲鳴だ。


「待ちなさいって言ってるでじゃないっ!」悲鳴は扉のむこうから聞こえた。わたしは扉に駆けよると、鍵穴から廊下を覗く。


「冤罪よ……、これは冤罪なの!」


 視野は狭かったが、外でなにが起きているかは、はっきりと見える。馬マスクの逞しい腕が、興奮した理容鋏を羽交い締めにしていた。そこに、ドライバー握ったティーポットが歩み寄る。その歩みは、これから斧を振り下ろそうと覚悟を決めた処刑人のように厳粛だ。


 ティーポットは両手で握りしめたプラスドライバーの先端を、許しを乞う理容鋏のネジ穴に抉るように挿し込んだ。


 この世のすべてを呪うみたいな凄まじい絶叫が、わたしの胸を握りつぶす。そこに込められた怨みの深さは、これから一つの魂が壊れるのだという確かな実感を与えた。顔を逸らしたくなるが、わたしの視線は死に物狂いで足掻く彼女に釘づけになって離れない。なぜ、わたしには目蓋がないのだろう。目蓋さえあれば、この凄惨な光景を見なくて済むというのに。


 理容鋏は固く握った拳を、馬マスクに打ちつけて抵抗する。しかし、彼女を拘束する腕は緩まない。その代わりに理容鋏の頭のネジが緩んでいく。ティーポットがドライバーを回す度、短い悲鳴が上がる。それは、すかさず新しい悲鳴に上書きされる。


 さらに緩むと、ネジ側面の溝が見えるようになった。藻掻く手足の動きが小さくなり、悲鳴も哀れなほど弱々しくなる。いつかわたしが憧れた艶麗さも、不謹慎なほどたっぷりあった不敵さも失われ、ただ『生』への執着だけが残っている。やがて、叫びからあらゆる感情が消え失せ、彼女の手足も糸の切れた操り人形みたいに動かなくなった。


「……助けて……」


 そのか細い声が、理容鋏がすべての力を込めて絞り出した最期の言葉だと分かるのに、時間が掛かった。読者のように事件を愉しんでいた彼女が、こんな情けない声を出すとは信じられなかったのだ。


 わたしは彼女の言葉を黙殺した。わたしを壊物鬼扱いした彼女に何かしてやる道理はないし、囚われのわたしにできることなど、そもそも何もない。糸のような悲鳴は、無意味に空気を揺らし、雨音に溶けていった。


 ネジが外れると、彼女はバラバラになって、壊れた。彼女の破片は、鍵穴の形に切り取られた視界から消え、金属が床にぶつかる甲高い音が響いた。


 間を置かずに、部屋の扉がノックされる。返事をする前にが錠の外れる音がして、扉が開いた。間接照明のぼんやりした光も、久しぶりとなると眩しく感じる。馬マスクの不快な臭いにも懐かしさを……、感じないな。


「すまなかった。本当にすまなかった!」


 わたしの顔を見るなり、馬マスクは床に自らの頭を擦りつけた。令和の世ではお目に掛かることは難しい、すがすがしい土下座だ。どう反応するのが正しいのだろう。踏みつければいいのだろうか。分からないので、放っておく。


 丸まった馬マスクの後ろの壁には、ティーポットが放心したように『だらん』ともたれ掛かってかていた。蓋の隙間から荒い息をあげ、手に握ったドライバーを呆然と眺めている。 


「何があったの?」


 彼女の足下には解体されて、ガラクタと化した理容鋏が転がっている。鋭く輝いていた刃は光を失い、美しい円形だった要ネジも歪にゆがんで、実に無残だ。いまいち、状況が飲み込めないので、さっき目撃した光景を頭の中に再現させる。


 えっと、まずは……、ティーポットが理容鋏を壊した。そして馬マスクも彼女の共犯。つまり……、つまり……、次は『わたし』の番?全身の毛が逆立つ。腰を抜かして、その場にへたり込む。そして祈るように両手を組んだ。


『お願いだから、許してください。お命だけは見逃してください』そう言ったつもりだったが、震えて声が出なかった。けれど、わたしの考えていることは伝わったようで、ティーポットはコーヒーで満ちた頭を横に振った。


「帽子が壊されたの、理容鋏に……。だから、ワタシは彼女を……、理容鋏を壊した」ティーポットは震える指先を、理容鋏の残骸に向けた。


 あぁ……、そういうことか。ようやく理解できた。『わたしは壊されずに済むらしい』と知って、『ほっ』と胸をなで下ろす。


「ワタシが、理容鋏さんを……、ワタシが」ティーポットは悪夢にうなされるように繰り返す。


「でも、これで終わったの。全部、全部、終わったの……」ティーポットの小さな手からドライバーが滑り落ちる。そして彼女は、糸を引かれたマリオネットのように、ぎこちなく立ち上がった。

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