一日目 案内役
わたしは、花畑の部屋へと戻ってくる。『服なんてあったっけ』と探してみると、カーテンレースに絡まったツルと、ところどころに咲く青い薔薇に混じって、ハンガーがぶら下がっているのを見つけた。藍色のブレザー、チェック柄のスカート、角張ったカッターシャツ、桃色のブラ。水色のパンツにはリボンの飾りがついている。肌に貼りついた花弁を一枚一枚、剥がす。
きりがないので、シャワーでまとめて洗い流し、見慣れた制服に袖を通す。そして壁に掛かった丸鏡を覗く。鏡に映るのは華奢で、気高く、瀟洒なテッポウユリ。それがわたしの姿だった。完璧に見える彼女に、もし一つ欠点があるとすれば、根と葉っぱが伸び放題になっていることだろう。身だしなみを整えたいが、人を待たせている身だ。彼女が人なのかは分からないけど、待たせている身だ。側茎の変なところから生えた葉を一枚もいで千切ると、部屋を後にした。
せっかく急いで来たのにホールに理容鋏の姿はなく、代わりに旧式のブラウン管テレビが、ソファーに寝転がり携帯ゲーム機で遊んでいた。音ゲーというやつだろう。
彼の頭、20インチほどの正方形の画面にカラフルな棒がゲリラ豪雨のように降り注ぐ。棒が爆ぜて消えると、『Good』、『Perfect』、『Excellent』の文字が現れ、画面端のスコアとコンボ数が増えてく。後ろからゲーム機の小さなディスプレイを覗くと、やはりこちらも音ゲー。テレビ画面と同じ映像をうつしている。ボタンを押す指捌きがスゴ過ぎて、ちょっと気持ち悪い。
「あの、すみません……」呼びかけてみるが、反応なし。自分の世界に没頭していて聞こえないのか、意図的に無視されているのか。シミの滲んだパーカーに触れたくはなかったが、埒が明かないので彼の肩をつついてみる。梅雨時の洗濯物みたいに、湿っていた。
「今、いいとこだから……。一曲終わるまで待って」
「はい……」テーブルを囲う三脚のソファー。一台は三人掛けだが、占有されているので小さな一人掛けソファーに座る。ソファーはわたしの体重を非難するように軋む。柔らかなクッションがどこまでも沈み、磨き込まれた肘掛けは手に馴染む。
暇なので玄関ホールを観察してみる。柱時計の振子を眺めたり、シェードランプの白い布を眺めたり、降りしきる雨を眺めてみたりする。たまにブラウン管テレビにさりげない視線をやって、天井に描かれた空の絵を鑑賞して、柱時計に視線を戻す。五回ほど首を回すと、テレビの指の動きを止め、チカチカ光っていた画面が切り替わる。表示されるのはスコア数やコンボ数。その数字がいいものなのか、わたしには分からない。ブラウン管テレビは、ゲーム機とテレビを繋ぐコードを取り外す。
「お前のせいで気が散って、ミスったんだけど」初対面の相手に対して『お前』って何だよ、と思う。でも、ここで怒るほどわたしは幼くない。いら立ちを胸の中に押しとどめる。
「すみません」そして謝る。負けた気分になる。
「チッ……。ハイスコア、出そうだったのに」と文句を垂らし、立ち上がる彼の背丈は意外と高い。猫背さえ直せば理容鋏といい勝負かもしれないが、その体は痩せすぎていた。女子高生でも憧れない、病的な細さだ。ブラウン管テレビはジーパンのポケットに、携帯ゲーム機を収める。そして、わたしの視線を遮るように、パーカーのフードを被った。
「ブラウン管テレビ」彼は唐突に呟く。声が小さく、脈略もなかったので、独り言かと思った。しかし彼は、何らかのリアクションを期待するように、もう一度「ブラウン管テレビ」と繰り返した。それが自己紹介だと気づくのに、しばらく時間が掛かる。
「初めまして、テッポウユリです」彼は『ふーん』時とも、『へえー』とも返事をしない。緑に灯る電源ランプと、トンボの複眼みたいに膨れた赤外線センサーが、私をじっと見据える。時計の秒針がが淡々と進む。
「あの……、鋏みたいな方はどうしたんですか?」
「娯楽室で麻雀やってる。俺に案内役を押しつけて」去り際に帽子が、ギャンブルがどうとか言っていたことを思い出す。
「なんだか、すみません」
「別にいい……」すごく面倒くさそうに言う。案内してもらう身でなんだが、理容鋏にガイドをして欲しかった。間が持てないし。
「理容鋏がメンツに入ると、ギスギスしだすから抜けることにしてる。気にしなくていい」ブラウン管テレビは学校の体育館で使うようなドラム式の延長コードを持ち上げ、のそのそ歩き出す。四つあるプラグの差し込み口の一つは彼のフードの中に繋がっていて、根元の方はわたしが出てき扉の隣。コードが挟まって半開きになった扉の奥へと続く。リールハンドルを回し、コードを巻き取りながら、テレビは扉に向かう。置いて行かれないように、ついて歩く。
「まず、馬マスクのところに挨拶しに行く」振り返りもせずに言う。
「その方が、館の主なんですか?」
「違う。アイツの話は長いし性格も面倒くさいから、一番最後でいい」
ブラウン管テレビは、大げさに踏ん張って扉を押す。扉の奥には廊下が隠されていた。カーペットの赤さも、柱の途中から生えたシェードランプも、縁取られた天井も、さっき通った廊下とそっくりで、五枚の扉と五枚のキャンバスが等間隔に並ぶのも同じだった。ただ、壁に掛けられている絵と、その題名だけが違う。一番手前のキャンバスには崩れた『ぎゃらりー』の文字が入っていて、その隣のキャンバスには何も入っていない。さらに隣、廊下の真ん中には、赤いゼッケンを着た逞しい競走馬の絵が飾られている。馬は胸の筋肉も、脚の筋肉も、尻の筋肉も、よく引き締まっていてたが、引き締まりすぎていて逆に気持ち悪い。
ブラウン管テレビは、馬の絵と対になった扉のドアノブに手を掛ける。施錠はされていないようで、ノブはすんなり回る。扉が開かれると同時に、酸っぱい悪臭が私を襲った。鼻を摘まもうとしたが、花の『わたし』にそんなものないことを思い出し、この苦痛を遮断する手段がないことに絶望する。
臭いの発生源は、絶対にアレ。マンホールみたいに巨大で黒い鼻、老人の入れ歯みたいな桃色の歯茎、向くな少女みたいに濁りない瞳、そしてファーにして売れば結構稼げそうな毛並みを持った、顔面が馬、首から下は筋肉鎧のクリーチャー。それがバーベルを担いでスクワットをしている。わたしも、館の住人も大概だけど、他の誰よりもインパクトが抜きん出ている。発達し過ぎた筋肉は、ジャージの上からでも厚さが分かる。曲げた膝が伸びるたび、荒々しい鼻息が吐き出され、部屋の温度と湿度と不快指数を上げる。
「今日も汗臭いな」テレビの言葉で、クリーチャーがいつも汗臭いのだと知る。テレビのボーリュームは、わたしと話をしているときより少しだけ大きい。
「努力のにおいだ。最高だろ?」馬はバーベルをスタンドに降ろす。そして、湧き出る汗をタオルで拭う。吸い取りきれなかった汗が、ヨガマットに落ち、深い青のシミができた。
「最低だし、近寄んな。汗で水没する」ブラウン管テレビは後ずさる。
「隣は新入りの子か?」テレビは返事をせず、首だけで頷く。パーカーの紐と電源コードが揺れる。
「そうかっ!」クリーチャーは歓喜をあげる。
「オレは馬マスクだ。よろしくな」そして、握れとばかりに太い手を差し出した。汗で湿ったくさい手を。
「初めまして、テッポウユリです」わたしは馬マスクの手を握らなかったが、彼は勝手にわたしの手を取った。ぐっしょりしていた。後で手を洗うと決心する。
「……」
「……。何ですか」馬マスクはわたしの手を離さない。絡まった指を解こうと力を込めるが、鍛えているだけあって微動だにしない。『わたし』がささやかに抵抗していることすら、気づいていなさそうだ。
「君は細いな」彼は心配そうに呟くと、わたしの腕を、大きな瞳の前に運ぶ。
「ありがとうございます」そして、血圧でも測るかのように腕を凝視する。
「しっかり、栄養はとらなきゃだめだぞ。どうだろう、皆で筋トレをしないか?一緒にいい汗を流そう!」馬はようやく腕を離すと、歯茎を剥き出しにして笑う。そして返事も待たずにロール状に丸まったヨガマットを床に敷きだす。三枚も。
「ブラウン管テレビ、これを再生してくれ。最大音量で」ケースから取り出されるVHS。パッケージには厳つい黒人男性とビリーズブートキャンプの文字。彼はブラウン管テレビのビデオ挿入口に無理矢理、テープを差し込む。
「ヤダ」がちゃんと音が鳴り、ビデオテープが強制返却される。『⏏』の取り出しマークがテレビの画面に現わる。
「そう言うなよ」それにめ負けじと、馬マスクはビデオテープをねじ込もうとする。
「断る。あまりしつこいと、そのテープ上書きすんぞ」
「わたしも遠慮しておきます」
「筋トレ仲間がいなくてさみしいんだ。ちょっとだけ……な。いいだろ」馬マスクは両手を合せ、潤んだ瞳を向けてくる。しかし、わたし達は非情だった。
「諦めろ」
「またの機会に……」
「そんなぁ……。また、格ゲー付き合うから……」
「今、音ゲーに嵌まってるから別にいい」馬マスクはヒヒーンと悲しそうに鳴くと、力なくうなだれた。なんだか悪いことをした気分になる。
「じゃあ、またな。臭いから、風呂入れよ」マットの上で一人寂しく体育座りする大男を残して、わたし達は青春の臭いが立ちこめる部屋から脱出した。そして、扉を思いっきり閉めた。




