四日目 逃走
今日も寝過ごした。外はすでに明るく、ホールの時計は11時を指している。大きく息を吐き、バスローブの帯をきつく絞め、気も引き締める。そして、躊躇う指で冷たいドアノブを回す。
食堂には鳩時計を除く生存者が揃っていた。張り詰めた空気は恐ろしいほど冷ややかで、ベーリング海に飛び込んだ気分になる。気を張るのをやめてしまえば、海の深淵まで沈んでいくのだろうか。重い空気がわたしを溺れさせようと、見えない腕を伸ばしてくる。
「君、すごい格好だね。僕を誘っているのかい?残念だけど、僕は貧乳には興味ないんだ」見えない腕がみるみる縮んでいった。
「洗濯中で、服がこれしかないだけです。興味ないって、初対面でセクハラかましてきたのは誰ですか?」なんだか悔しいので、語気を強める。
「なんのことだい?覚えないね」帽子はすっとぼけた。
「『とっても気持ちいことをしろ』って言ったこと、忘れたとは言わせませんよ?」あのときは、本当に怖かった。次々とモノが壊れるいまの方が断然怖いけど。
「君にとっては『毛玉取り』がセクハラなのかい?」
「毛玉取り?」
「僕が頼もうとしたのは毛玉取りなんだ。君はいったいなにを想像してたんだい?」帽子は頭からブラシを取り出すと、それで鍔を整える。
「何も想像してません!」
「じゃあ、くだらない話は終わりにして捜査会議を始めよう」帽子が切り出すと空気が凍結し、見えない腕がまた伸びる。そして、貪欲な炎と、焦げついた臭いと、灰で埋まったスペードの3の部屋が、パラパラ漫画のように頭を過ぎる。
「『誰がスペードの3を壊したか』についてですよね」わたしが確認すると、帽子は腕を組んで尊大に頷く。
「真相は明らかだ。壊物鬼はシャンデリアだよ」帽子は、ビシッと言った。
「どうして、そうなりますのよ!」容疑をかけられた彼女は、炎を真っ赤にして怒る。遠くに座るわたしの席まで、火傷しそうな熱波が届く。
「どうしてだって?君はスペードの3が壊された方法を忘れてしまったのかい?彼は燃やされたんだよ」
「燃やされた……、燃やされた……」噛みしめるように何度も反芻してようやく、彼女は最有力容疑物が自分であることを理解したようだった。蝋燭に灯る炎が、青白く変化する。動揺のせいか、炎は不安定に揺らぎ、テーブルに落ちた燭台の影が伸びたり縮んだりする。
「いいかい?君の頭は燃えている。そして、スペードの3は燃やされて灰になった。つまり壊物鬼は君なのさ」
十一体目の捜索のときに、スペードの3の部屋に入ったことがある。彼の部屋は様々な紙で溢れかえっていた。炎は一瞬で広がったに違いない。それこそ、逃げるどころか、悲鳴をあげる暇すらないくらいに。
「チェックメイトだ。反論はあるかね?」
「反論しかないですわよ!他に火を起こせそうな物なんて、いくらでもありますわ!」彼女が首を振ると、滴型のガラスが擦れ合い、チャラチャラと音を立てる。
「例えば?」帽子が問い詰めると、シャンデリア嬢は食堂を見渡す。厨房の扉を見つけると、か細い声で言った。
「コンロとか……」
「ここのコンロは、電気コンロだよ。火なんて、出ないでしょ」
「もう、意味が分かりませんわ!ワタクシが教えて欲しいですわよ!」彼女の火勢がさらに強まる。その必死な形相は、冤罪を晴らそうと藻掻く被告人のようにも、悪あがきをする殺人犯のようにも見えた。わたしには刑事の勘も、探偵の観察力もないので、判別はつかない。
「君に理解できなくても、他のモノ達が分かってくれればそれでいいのさ」帽子は、裁判官のようにゆっくりとわたし達を睨めまわす。いまのところ、彼女が壊物鬼だという根拠は一つだけ。しかし、はやく壊物鬼探しを終えて日常に戻りたいという願望が天秤を狂わせる。
「異論は、なさそうだね」わたし達は沈黙で同意を示す。
「じゃあ、判決を言い渡そう」彼女の有罪に異を唱えるモノはいなかった。一体を除いて。
「お待ちください!」ティーポットが弁護士のように声を上げた。その声はあまりにも大きかったので、彼女の隣に座るシャンデリアの身が竦んだ。
「十一体目の捜索のとき、スペードの3の様の部屋を拝見させていただきました。紙に満ちたあの部屋は、さぞ埃が溜まりやすかったことでしょう。そして、部屋にはテレビや、CDプレーヤーなどの家電がございました。積もった埃が発火したのではないでしょうか」とってつけたような理屈だった。無駄に大きい声から、彼女の自信のなさが汲み取れる。
「しつこい女は嫌われるわよ。よりによって、ブラウン管テレビが壊された夜に発火?ありえないでしょう」理容鋏の銀色の刃が、苛立たしげに煙草を切る。細切れになった葉の欠片が、テーブルに散らばる。
「貴方も、貴方も、貴方も……、さっきから何を黙ってるの?なんとか言ったら、どうなのよっ!」シャンデリア嬢は裏返った声で叫ぶと、シャンデリア嬢は閉じた扇の先端を、わたし達の一体一体に向ける。それを持つ指は、細かく震えていた。
「コホン、それじゃあ判決を言い渡すよ。被告物シャンデリア、死刑!」帽子は金槌でテーブルを叩く。
「もう、イヤッ!」館主から死刑囚となったシャンデリア嬢は扇を帽子に投げつけると、転がるように逃げ出した。そして、ホールに通じる扉の向こうに消える。
「さぁ、そいつを壊すんだ!」金槌を握った帽子が、彼女を追う。
「愉しくなってきたわね」理容鋏も燭台を掴み、嬉々として駆けだす。
「ダメです!お嬢様を壊さないでください!」そう叫びながら、ティーポットが彼らを追いかける。わたしと馬マスクはどうしたらいのか分からず、手ぶらでトボトボついていく。階段を上り切ると、シャンデリア嬢の部屋の前に人集りがあった。
二体の追跡者が扉を殴るが、表面に僅かな傷を作るだけで、びくともしない。
「馬マスク、この扉を蹴破ってよ」帽子は横に退き、扉の前にスペースを作るが、馬マスクは首を振る。
「できない」
「どうしてだい?理容鋏の部屋の扉を壊したのも、玄関扉に穴をあけたのも君だろう?」馬マスクが拳を握りしめると、丸太のような腕に縄のような静脈が浮き出る。
「扉を破れば、君達はシャンデリアを壊すだろ」
「もちろん!」
「だからだっ!」馬マスクの咆哮は、玄関ホールの壁に何度も跳ね返って、何重にも重なって聞こえた。そのせいか、声は異様な迫力を持っていた。
「たとえシャンデリアが壊物鬼だったとしても、そんなことはさせない。もう、だれも壊させやしない!」断言というより、自分に向けた宣言みたいだ。震える拳が、心のゆらぎを雄弁に語る。指の爪が皮膚に食い込み、血の滴が垂れる。
「なら、どうするつもり。壊物鬼を放っておくの?」
「それは……」さっそく言葉を詰まらせる馬マスクに代わって、わたしは提案した。
「なら、扉を塞いでしまうのはどうですか?」我ながら名案だと思った。彼女が外に出られなければ、彼女が生きていようと、壊れていようと関係ない。彼女のシェルターを、そのまま牢屋に作り替えるのだ。
「甘いね。お子様向けのミルクココアより甘甘だね」帽子はバルコニーの手すりに寄りかかる。
「扉を塞いだとしても、窓から出られるじゃないか。ヌイグルミは酸の雨を浴びながらも、少しは動けていたし、馬マスクもしばらくは平気だったんでしょ。二階から飛び降りて、すぐに一階から館に入れば、戻って来られると思うよ。運がよければだけどね」帽子にしては、まともな発言だった。
「平気ではなかったぞ!おかげでこのざまだ。気持ち悪いと思われていないか、心配になる」馬マスクは毛の抜けた天頂部に手をやる。
「その心配はないです!」ティーポットは声を張り上げた。
「彼女の言う通りだ。禿げは男らしさの象徴で……」
「お嬢様の説明書の内容、覚えてますか?『炎を絶やさないでください』と書いてありました。でも、館の外はずっと雨です。ほんの一瞬でも外に出れば炎が消えて、お嬢様は壊れます。部屋から出ることはできません」
「どちらにせよ、シャンデリアちゃんをぶっ壊した方が手っ取り早いし、楽そうね」理容鋏は三股の燭台を、扉に叩きつける。
「やめてくださいっ!」そんな彼女の腰に、ティーポット縋りつく。
「あの……」無意識に声が漏れた。
「ナニか用?これから、いいところなの」理容鋏の鋭い刃が恐ろしかったが、言葉とよく分からない感情が胸の奥から湧き出てくる。
「シャンデリア嬢を壊そうと、生かそうと、わたし達がこの館から出られないのに変わりありません。でも、いつか経年劣化で壊れるまで、わたし達はこの館で一緒に暮らすことになります。わたしは、モノを壊した方と、一緒に暮らすのは嫌です」馬マスクが感動の目を、わたしに注ぐ。だが、違う。たぶん、これは善意ではない。ただ臆病なだけ。
「確かに……、探偵が犯人を壊すなんて、御法度だよね」帽子は蝶ネクタイを見せつける。
「他のモノも、同じ考えかしら?」馬マスクとティーポットが頷く。
「甘いのよ、貴方達。せいぜい、その甘さに足下を掬われないよう気をつけなさい」理容鋏が鋭い蹴りを扉に放つと、階段を降りて行った。わたしは止めていた呼吸を再開させた。
「さて、具体的にどうするつもりだい」帽子が言うと、『なんの話だっけ』と茎をかしげた。そして、扉を塞ぐ話だったと思い出す。
「家具を積み上げて、バリケードでも作るのかい?」扉は外開きだ。家具を噛ませば、扉は開かなくなる。だが、それだけでは心許ない。どうにか牢屋を強固なものにできないかと考えていると、昨日の朝、ティーポットが割れた窓を塞いでいたのを思い出す。
「それと、板を打ちつけるのもいいと思います」
「悪くないね。採用してあげるよ」帽子が偉ぶって言う。
「力仕事なら、任せとけ!」馬マスクは力強く自身の鍛えられた胸板を叩く。初めて、馬マスクのことを頼もしいと思った。
「で、なにをすればいいんだ?」前言撤回する。
「板はギャラリーにたくさんあるので、持って来てください」ティーポットが指示する。
「おう!」馬マスクは馬鹿でかい返事をすると、陸上選手のように駆け出した。階段を四段飛ばしで下りていく。
「そうだ、工具箱も倉庫にあったんだ。取ってくるね」
「うん。わたしは何をすればいい?」立ち去ろうとするティーポットを呼び止める。
「うーん……、待機?」
「わかった」ティーポットはゆっくりと歩き出すと、すれ違いざまにガラスの顔をわたしの花弁に近づけた。
「ありがとう」
吐息のようなささやきは、断続的な雨音のなかで不思議なくらい、はっきりと聞こえた。




