三日目 極楽
ベルの音はしばらく鳴り続けていたが、やがて止まった。目覚まし時計ではなくて、火災報知器の音だったのだろう。ベルが鳴りやんだからといって、あんな惨状をまの当たりにした直後にすんなり眠りにつけるほど、わたしの神経は太くない。やることもなく、ぼんやりと闇を眺めていると、扉を叩く音がした。
わたしは浴槽から跳ね起きる。鍵穴から外を覗うと、ティーポットがいた。扉を開けるか、寝たふりをしようか迷っていると、奥に馬マスクも見えた。彼がその気になれば、扉を蹴破ることなんて造作も無い。わたしは大人しく扉を開ける。
「こんな時間にどうしたの?」いつ殴りかかられても対応できるように、心の準備をしておく。たぶん、それは無意味で、なす術なく倒されるだろうけど、一応準備だけしておく。
「いっしょにお風呂に入ってくれない?」
「お風呂?」思いがけない単語が出てきた。とりあえず、心の中の催涙スプレーを片づける。
「ワタシ、毎日お風呂に入らきゃいけないんだけど、あんなことがあったから一人で入るのは怖くて……。だから、いっしょに入ってくれない?」
説明書の記載を思い出す。『割らないでください』、『高いところから落とさないでください』、そして『毎日、洗浄してださい』。おそらく、これが洗浄なのだろう。
「わかった。いいよ」このまま、彼女がお風呂に入れず壊れたりなんかしたら、さすがのわたしも良心が痛む。それに、一度あの大きなお風呂に浸かってみたかった。わたしが壊される前に。
「ありがとう!」彼女はわたしに抱きついた。ゆったりとしたメイド服のせいで気づかなかったが、意外に胸は大きくて、弾力もあった。仲間だと思ってたのに裏切られた。馬マスクは抱き合うわたし達から、静かに目を逸らす。
「なんで、馬マスクさんがいるの?」
「女の子だけで館をうろつくなんて、危ないからな!」毎度、護衛に駆り出される彼を不憫に思う。不憫な彼を従えて、わたし達は階段をのぼり、女子浴場に到着する。
「じゃあ、ここで待っているぞ」
護衛を脱衣場の前に残して、わたし達は扉をくぐる。そして、床に転がる竹製の籠を一つ拾って、足下に置く。靴下を脱ぎ、ブレザーのボタンを外し、カッターシャツのボタンも外し、スカートのベルトを緩め、ブラホッグを外し、パンツを下ろす。そして、脱いだ服をまとめて籠に突っこむ。
ティーポットも、煤で汚れたメイド服を籠に突っ込む。裸になった彼女は、完成したルービックキューブを見せたがる子供のように、わたしの腕を引っ張った。
「もう、お湯の用意はしてあるんだ」彼女は曇りガラスのドアを横に引く。漏れてきた湯気が消えると、そこには天国があった。
「すごい!」ギリシャ風の柱が雲の上に建っている。一糸纏わぬ女神の彫像が雲の上に立っている。わたしは雲を踏んでみた。プチプチと音を鳴らして消える。
「バスボムがあったから、泡風呂にしてみたんだ」
「わたし、入って大丈夫なのかな?」花を入浴剤の溶けたお湯に浸して、問題ないのだろうか。
「植物由来の入浴剤だから大丈夫、なはず。主成分は確か……」
わたしは両手に泡を掬ってみる。温かくて、柔らかくて、気持ちがいい。軽く握ってみると泡が弾けて、甘い香りが広がった。ほんとうに、いい香りだ、わたしは花弁をひくひくさせる。
「ベルガモットだよ。気に入ってくれた?同じ匂いの香水が冷蔵庫から無限に湧いてきて、余りまくってるんだけど、使う?」
「別にいいかな」そろっと、つま先を浴槽に入れると、ぬくもりが脚を駆けのぼってくる。肩まで浸かると、わたしは幸せに包まれる。隣に座ったティーポットが、茎にタオルを掛けてくれた。
「極楽でしょ」
「うん」
本当に心地よかった。全身の疲労が抜けていく。だけど、モノが壊れたばかりだというのに、こんな呑気にしていていいのだろうか。
「やっぱり、スペードの3のことがショック?壊れたモノはもう元には戻らない。いくら気にしたって仕方ないよ」
「ちょっと違うかも」わたしは彼が壊れたこと自体に、それほど大きな衝撃を受けていない。心が麻痺してしまったのか、もとから淡泊な性格なのか、自分でもよく分からない。頭を占めるのは自分のことばかり。無事に明日を迎えられるか分からないことが怖いのだ。
「壊されるのが怖いの?」
「うん」わたしは頭を縦にふる。
「心配しないで。ユリちゃんはワタシが守ってあげる」そう囁くと、ティーポットはわたしを強く抱きしめた。彼女の均整のとれた胸がわたしの胸に当たり、柔らかく潰れる。
「だから、怯えなくていいんだよ」わたしの柱頭と、彼女の注ぎ口が触れあう。すると熱い紅茶がわたしの中に流れ込んできた。その熱の奔流は、一切の不安を洗い流し、わたしの頭を快楽で満たす。
「ありがとう」心地よかったが、ふがいない気持ちにもなる。彼女は一人でお風呂に入ることすら怖がっていたはずなのに……。無理をさせてしまっている。
ティーポットは腕をほどくと、「体、洗ってくるね」と立ち上がる。
「背中、流してあげよっか?」と提案されたが、石けんが体に悪そうなので断った。
彼女はシャワーの前に並ぶバスチェアの一つに腰掛ける。スポンジにたっぷりと食器用洗剤をつけて、ガラスの頭の内側を丹念に磨く。頭のなかが泡でいっぱいになると、シャワーでそれを洗い流す。
「スッキリした。先に上がるね」
「うん」わたしは熱い紅茶の余韻を、もう少しだけ堪能することにした。しばらくすると、のぼせてきてたので、湯船からあがった。




