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三日目 声

 針のように尖った銀色の日光に葉脈を刺され、わたしの眠りは破られる。乱暴に起こされたせいだろう。泥をたっぷり染みこませたケープみたいな倦怠感が、頭の先から覆い被さり、全身を包みこんでいる。


 シャワーを握り、それを洗い流そうと蛇口をひねるが、倦怠感は剥がれない。水を無為に消費して、結局、わたしは浴槽に身を沈める。少し休めば体調もよくなると思ったが、むしろ悪化した。


 おもい。おもい。体も、頭も、気分も、何もかもが重たい。これは寝不足なんかじゃない。絶対、あの睡眠薬のせいだ。そこで、わたしは睡眠薬を飲んだ理由と、その所有者のことを思い出す。眠気が『さーー』と引いていき、その体積の分だけ胸に穴があく。


 寝れば解決すると思った。あの痛々しい光景と、弱々しい断末魔を忘れられる思った。でも、そんなことはなく、ヌイグルミの損壊はわたしの中で、じっと根を張っていてた。硬く、冷たい有刺鉄線みたいな記憶は、忘れよう、忘れよう、ともがくほど余計に絡みつき、鋭いトゲが心のより深くまで刺さる。


 誰かにそのトゲを抜いて欲しくて、絡まった心を解いて欲しくて、わたしはドアノブを回す。細く扉をあけた、そのときだ。超スピードの何かが、わたしの前を横切った。


『ギョッ』として、開けたばかりの扉を閉め、呼吸を止める。なんだったんだ、いまのは。尋常ではない速さだった。寝ぼけた頭が見せた幻覚だろうか。ヌイグルミが化けて出たのだろうか。すれ違いざまに感じた風が、それを否定する。


 のぞき窓から、廊下を見てみる。夜闇のように黒い二つの穴が、わたしを見つめていた。 


「おはよう、ユリちゃん」聞き覚えのある野太い声がして、わたしは扉を開けた。むわっと、汗の臭いが押し寄せる。声の主は馬マスクで、二つの穴は、彼の鼻の穴だった。超常現象の類いでなかったことに、胸をなでおろす。


「いま、起きたのか。もう、昼過ぎ、だぞ」馬マスクは荒々しい呼吸の隙間に、言葉を混ぜた。肩は激しく上下している。


「おはようございます。今日も元気ですね」ほんとうに元気そうだった。わたしは言葉に『昨日、あんなことがあったのに』と、一摘まみの非難を込めるが、それに気づく様子はない。馬鹿に『馬』の字が含まれている理由がわかる。


「走り込みの、後に入る風呂が、絶品なんだ。どうだ、ユリちゃんも一緒に、汗を流さないか?」


「遠慮しておきます。他のみんなが、どこにいるか分かります?」


「この時間は、娯楽室だろう。トレーニングをしたくなったら、いつでも声を掛けてくれ。最強のトレーニング方法を伝授してやる。器具も貸してやるぞ!」馬マスクは汗をタオルで拭き取ると、茶色い鬣を棚引かせ、ランニングに戻っていった。彼が廊下の角を折れたのを確認して、わたしは食堂に向かった。


『トン、チン、カン』、小気味よいリズムが食堂に響く。音を辿ると、降り止まぬ雨で灰色に染まった窓の傍らにティーポットが一人、座り込んでいるのを見つけた。部屋に入ってきたわたしに気づくと、ガラスの顔が振り返る。 


「おはよー」弾けるような挨拶だ。彼女の明るい声に、海の底に沈んだ『わたし』の気分が、数ミリだけ浮き上がる。


「おはよう、なにしてるの」わたしは精一杯、明るい声を作って訊いてみた。


「割れた窓を塞いでるんだ。放っておくと、雨が吹き込で大惨事になるからね」今日も昨日も一昨日も雨の軌跡は真っ直ぐだが、風が強い日もあるのだろうか。


「強酸性の雨だもんね。いろんな物が溶けそう」彼女が金槌を振るうと、釘が木板にめり込む。釘に彫られたスクリューが、深く、深く、沈んでいき、完全に木板に埋まる。


「手伝おうか」彼女は首を振る。ポットのなかの紅茶が揺れる。


「ユリちゃんは優しいんだね。でも、どうせ金槌が一個しかないからいいや。それより、みんなと遊んできたら?気が紛れるよ」落ち込んだ素振りは見せてないはず……。なのに、感情を言い当てられて、『ドキッ』とする。


「何年、メイドやってる思ってるの?お客の気持ちくらい、手に取るように分かるよ。さぁさぁ、どうぞこちらへ」わたしは娯楽室に押し込まれた。


 シガーとアルコールとオーデコロンの匂いに包まれた娯楽室。薄く掛かったジャズの旋律が、わたしの心を慰めててくれる。モノの気配が、わたしの憂鬱を薄めてくれる。


「あら、ユリちゃん。遅いお目覚めね」帽子、スペードの3、鳩時計、そして理容鋏の四体は麻雀卓を囲んでいた。昨日のことなんてなかったように、日常を過ごしていた。そんな彼らを冷淡だと思うが、同時にうらやましくもあった。


「ユリちゃんも入るかい」帽子が手招きするが、椅子は全て埋まっている。


「でも、麻雀って四人用じゃ……」


「だいじょうぶだよ。ちょうど、スペードの3が抜けたがってたところだから」


「んなわけあるか。どついたろかい!」


「まぁ、いいか。頑張れば五人で、できなくもないしね」


「いや、無理やろ」スペードの3がツッコミを入れる。がやがや騒いでいると、鳩時計が煩わしそうに立ち上がる。


「そんなに、打ちたいなら代わってやる。感謝しろ」


「いや、わたしは別に……。ルールもよく知らないし……」


「ここで暮らすなら、麻雀のルールくらい覚えておけ」鳩時計はバーカウンターに腰掛けると、スラリと長い足を組む。


「よかったわね。優しく指導してくれるらしいわよ」


「……えっと、ありがとうございます……」


「ふんっ……」鳩時計が『カッコウ』と鳴く。鳥には詳しくないので、その鳴き声が、苛立ちなのか、呆れなのか、照れ隠しなのか、よくわからない。


 理容鋏が卓のボタンを押すと、テーブルが割れ、整列した牌が迫り上がってくる。なんか、かっこいい。理容鋏が一気に牌を起こすのも、これまたかっこいい。見よう見真似でやってみる。バラバラになった。


「なにをしている」鳩時計が冷たく言う。


「あの……、トロくてすみません……」幸いなことに、表返ったものはなかったので、一つずつ起こしていく。


「あれ……?この牌、裏も表も真っ白なんですけど印刷ミスですか」


「違う。そういうものだ」


「この鳥の絵って、誰かの落書きですか?かわいいですね」


「違う」


「この……」


「いい加減にしろ!」怒鳴られて体が縮こまる。


「いや、質問することはいいことだよ。君みたいな上司が、ミスを隠蔽する部下を作り出すんだ」


「こんな、無能な部下を持った覚えはない」頭の中で『がーん』と鐘が打った。


「じゃあ、始めましょう。ユリちゃんからよ」


「えっと……」そう言われましても、なにをすればよいのやら。


「山から牌を引くんだ」おそるおそる、山積みになった牌に手を伸ばし、一つ摘まむ。


「東って書いてます」


「言うな!」鳩時計が怒ると、理容鋏と帽子とスペードの3が吹き出す。


「次は私の番ね」わたしの手元から牌が一枚、引かれていった。


「どうだ。少しは理解できたか?」


「ぜんぜん、わかりません」わたしは終止、操り人形に徹した。命じられるままに牌を引き、牌を捨てた。終わってみても、ルールはまったく分からない。特に、途中から順番が逆周りになったところが分からない。


「気負わんでも、やりながら覚えればええで」スペードの3が、わたしの肩を叩く。


「最下位は帽子ね。じゃあ、切らせてもらうわよ」理容鋏の刃が開くと、帽子が喚きだした。


「お願いだよ。後生だよ。許しておくれよ」


「ダメ。ドベは勝者の言うことをきく。それがルールでしょう」え。そんな話、聞いていなかった。


「見苦しいぞ」


「男なら覚悟を決めんかい!」鳩時計とスペードの3は、暴れる帽子を押さえつける。冷酷な刃が帽子に入る、その直前だった。


「ヴァァッァアアアアアア!」


 帽子の情けない悲鳴とは違う、本能に直接訴えかけるような恐ろしい絶叫が轟いた。わたし達は動きを止め、互いに顔を見合わせる。


「どないしたんやろ」


「おもしろそうだし、行ってみましょう」スペードの3と、理容鋏が興味津々といった風に、娯楽室から出て行く。  


「せっかく、いいところだったのに」帽子が不満をこぼすのを、わたしは聞き逃さなかった。

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