二日目 雨
「ごちそうさまでした」肥料が溶けた水を飲み干し、手を合わす。今日の食事も美味しかった。肥料のエキゾチックな辛みが、硬水の苦みとマッチして、絶妙なハーモニーを生み出していた。それはまるで(以下略)。いつか噂に聞く『有機肥料』とやらも飲んでみたい。考えると、お腹が減ってくるから、考えないことにする。
わたしの横では、帽子がヌイグルミの傷口を縫っている。手慣れたもので、注意して見ないと分からないほど、傷口は目立たない。
「ありがとうございました」
「いいよ、いいよ」布製のモノ同士、気が合うのだろうか。どもりがちなヌイグルミも、帽子とだけは普通に話せている。
「辛いなら、話、聞いてあげるよ」
「いいんですか?ヘラりますよ」
「君の苦痛を、心の内を聞かせてよ」ヌイグルミの顔が、ぱっと輝く。
「だめよ。少し優しくされたくらいで惚れちゃ。こういう男は下心しかないんだから」理容鋏の刃が、鋭く光る。
「そんなことないよ。いつでも相談に乗るからね」縫合を終えると、帽子は大人しく自分の席に戻る。
席に着いたヌイグルミはフォークを弄ったり、ナイフを手に取ったりしていたが、最終的に「ふぅ……。ごちそうさまでした」と呟き、皿に手を合せた。手をつけられていない綿が、まるまる残っている。
「薬しか飲んでないじゃない!」シャンデリアが叫んだ。
「……、ダイエット中なんです……」
「拒食症の間違えですわよね」シャンデリア嬢が言う。
「好き嫌いは健康に悪いで!」スペードの3が言う。
「こんなに残して、作ってくれたモノに悪いと思わないのか!」馬マスクも文句を垂れる。ヌイグルミの顔が、みるみる青ざめていく。おそらく、ここにいる全員が『まずい』と思った。
「ワタシは構いません。お食事を愉しんでいただくことが一番ですので」ティーポットが言う。
「むしろ、少し残すのがマナーですわ」シャンデリア嬢も言う。
ヌイグルミの表情が元に戻った。緊張で茎が渇いたので水を飲もうとするが、ペットボトルは空だった。他のモノ達も、食事を終えたようだった。
「次は僕の誕生日じゃない日を祝って、パーティーをしようよ!」
「しません」シャンデリアが冷たく言う。
「……あたし、参加したいです……」ヌイグルミが勇気を奮い起こし、手を挙げた。僅かにしか存在しないだろう勇気の使いどころを、間違えている気がする。
「ダメよ。食べられちゃうわ」理容鋏は刃を振る。
「食べられるんですか」ヌイグルミが帽子を見る。
「食べないよ」帽子は真剣な声で言う。
「食べないって……」
「こんなやつに騙されたらダメよ」
執拗にヌイグルミをナンパする帽子に呆れたように、シャンデリア嬢が立ち上がる。
「食事は済んだようだし、これでお開きにしましょう。それでは、ごきげんよう」他のモノ達も席を立つ。だが、ヌイグルミは座ったまま動かない。
「どうしたのかしら?」
「あの……、この場所って、なんなのですか」彼女は震えた声で尋ねる。
「変な頭の人達はいるし、外には出ちゃだめって言われるし、ずっと雨だし……。家に帰りたい」
「頭がおかしいのは、お互い様だよ」
「あら、言いそびれていましたわね」帽子の言葉を無視して、シャンデリアは深紅の扇を広げる。そして舞台女優のように胸を反らせ、尊大に言った。
「ここは異形館。人の命を奪ったモノ達が行き着く館ですわ」
「人殺し同士、仲良くしましょう」理容鋏が言うと、ヌイグルミは『ぽかん』と口をあけて固まる。
「……あたしが、人の命を奪った……?人を殺した……?」そして、言葉の意味を確かめるように、繰り返す。
「そうよ。何をいまさら驚いているの?覚えていますでしょう」わずかな沈黙。息を呑む音。そして……。
「イヤァァァァァァアアア」恐ろしい絶叫が館を震わせる。感情の激流が館を呑み込んでいく。魂をしぼり出すような叫びは、頭痛を引き起こすほど大きいのに、弱々しくて、痛々しい。
「あたしは、あたしは……、駅のホームから落っこちて……、あの子はワタシを助けるために線路に……、それで……、それで……」ヌイグルミは記憶を振り払うように、激しく頭を振る。爪をフェルトの肌に食い込ませる。
「ウソだ、ウソだ、ウソだ!」
「だいじょうぶかい」
「イヤッ、触らないで!」帽子の手を撥ねのけ、窓に駆けよる。
「帰らなきゃ、帰らなきゃ、家に帰らなきゃ。沙羅が待ってる。家に帰して!」小さな拳でガラスを叩く。なかなか割れないので、燭台をぶつけて叩き割る。シャンデリアの光を浴びたガラスの破片が、星屑のように散る。彼女は身を屈める。
「待つんだ!」馬マスクが叫ぶが、もう遅い。彼女は既に走り出していた。
「あたしは家に帰るんだ!もう一度、沙羅に抱きしめられるんだ!」無慈悲な酸の雨が、フェルトの肌を打つ。しばらく進んだところで、彼女は地面に転がった。
「イタい、イタい、イタイッ!」
溶ける、とける、トケていく。顔も体も服も、すべてがとろけて、混ざっていく。 彼女は足を失っても手で這い進み、手がなくなっても体をくねらせて前に進もうとする。その先にはなにもないのに。わたしたちに帰る場所なんてないのに。
溶けて、溶けて、最終的にできあがったのは、焼く前のホットケーキミックスのような液体。ドロドロの生地の上で、彼女の瞳だった二枚のボタンが、わたし達をみつめている。わたしは言葉を失った。言葉という概念そのものを、取り上げられたようだ。食堂は雨音に支配される。
「ウソだろ……」長い間をおいて、馬マスクが言った。
「なんなんやこれは!」スペードの3も狼狽していた。
「これで、わかりましたでしょう?ワタクシ達はこの館から逃れることはできない。せいぜい、お気をつけあそばせ」それだけ言うと、シャンデリア嬢はティーポットを引き連れ、暗鬱な空気が漂う部屋から立ち去った。部屋がよけいに暗くなる。
「私達も行きましょう」理容鋏がわたしの肩を叩く。
「でも……」
「人はいつか死ぬし、モノだっていつか壊れる。そういう運命なのよ。諦めなさい」そう簡単に割り切れないが、複雑に絡み合う感情の糸を引っ張りながら、曖昧に頷く。
「永遠に続く命なんて退屈なだけよ。死があるからこそ、生が輝くのよ」理容鋏に背中を押され、食堂を後にした。
不安定にゆらめくキャンドルの炎が、部屋に薄い影をおとす。わたしは花弁がたゆたう浴槽に浸るが、いつまで経っても眠気はやって来ない。ドロドロに溶けていくヌイグルミの姿が、夢の世界へ墜ちるのを阻むのだ。
わたしは無関係なモノが壊れることに、わざわざ涙するほど純粋ではないし、彼女に対して特段の思い入れはない。でも、胸が痛かった。なぜか苦しかった。早く意識を手放したいと思うのに、焦りが眠気を遠ざける。
「そういや」と頭をよぎるのは悪魔的な発想。彼女の持っていた水色のポーチ。その中に、大量の薬があるのを、わたしは知っている。植物に睡眠薬なんて効くのか分からないが、ヌイグルミに効くのなら、植物にも効くだろう。数秒の葛藤。心のなかに棲む悪魔が、左フックで天使を沈める。わたしはポーチを盗りに、食堂へと向かう。
食堂の前まで来ると、扉を開けるのをためらった。壊れてしまったヌイグルミの所有物を盗むことに、罪悪感が芽生えたわけではない。無人のはずの食堂の向こうに、気配を感じたのだ。現在、深夜一時。館は寝静まっている。扉の隙間から零れるのも、光ではなく闇。わたしは全てを気のせいにして、と扉を開ける。そして、後悔する。
叫びそうになるのは、なんとか堪えた。いや、正直なところ恐怖で声が出なかったと言うほうが正しい。食卓の上に、それは不吉に座っていた。目を見開き、歯茎をむき出した猿の人形が奇声をあげて、シンバルを打ち鳴らしていた。背後で扉が閉まり、わたしは短い悲鳴をあげる。だが、しばらく睨み合っていると、人形はしょせん人形で、害意を持っているわけでないと気づく。
「ちょっとだけ、前を失礼します……」頭ではそう分かっていても、怖いものは怖い。のけ反りながらポーチに指を突っ込む。錠剤シートを一枚つかむと、すぐに自分の部屋に逃げ込んだ。そして、苦労して手に入れた睡眠薬をすべて水に溶かし、根っこから吸収した。
人工的な眠気が押し寄せる。薄れゆく意識のなかで、『これは飲みすぎたな』と後悔した。




