二日目 持ち主
わたしの持ち主……。朧気な記憶の解像度が上がっていく。館に来るより前、わたしに『意識』など存在しなかったが、その頃の記憶はうっすらと残っている。温かなビニールハウスでぬくぬく育ち、出荷され、小さな花屋の店先に並び、わたしを買ったのは藍色の制服を着た少女。
その耳は穢れた俗世を嫌うように小さく、その髪はこの世の闇を一身に浴びたように黒く、感情を宿していない瞳は儚げだった。そして腕には五線譜のようなカッターナイフの傷が刻まれていた。
わたしは黒いビニールポットから、大きめの植木鉢に移し替えられ、彼女の部屋の窓の縁に飾られた。そこから彼女を眺める。彼女は毎日、新しいノートブックを学校に持って行く。帰って来るとノートは濡れていたり、破れていたりした。
ノートの表紙には下品な言葉が、下品な書体で書かれていた。彼女は賎劣な嫌がらせをするクラスメイトを軽蔑していたが、クラスメイトに対して行動を起こす勇気のない彼女自身のことも嫌悪しているようだった。
そして、ノートの汚れていないページを千切り、勉強を始める。彼女は成績の優秀さだけを、精神のより所にしているように見えた。
季節は巡り冬になる。雪の降る朝に、その封筒は届いた。彼女は震える手で糊を剥がす。現われるのは、無機質なフォントで綴られた『不合格』の三文字。二ヶ月前の模試で、彼女がA判定を取った大学だった。
彼女は不合格の通知が来るたび、ジンクスのようにユリの花を一本ずつ買い足していき、部屋は花畑のようになった。最後の不合格通知は、ビリビリに破られ、燃やされ、灰になった。
卒業式の朝。彼女は学校に行く振りをして、家から出て行った。帰ってきたとき、両手一杯に百合の花を抱えていた。彼女はガムテープで部屋の隙間という隙間を塞いだ。布団をかぶり、ベッドに横たわる。そして彼女は、永遠の眠りについた。
「……」声が出ない。呼吸のやり方が思い出せない。まっしろな真空の中で、溺れているみたい。
「ユリちゃん、だいじょうぶ?」肩を揺さぶられ、現実へと引き戻される。ティーポットは丸まった『わたし』の背中を、傷を埋めるみたいにやさしく撫でてくれた。
「嫌なことを思い出させて、ごめんなさいね。でも安心しなさい。ここの住人はみんな、似たような経験をしているのよ」
「似たような経験?」無意識に理容鋏の言葉を繰り返す。理容鋏はわたしを抱きしめ、わたしは彼女の腕を強く握る。混乱の熱が、彼女の冷たい肌に吸い取られていく。
「ええ、そうよ。私は理容学校に通う短大生の鋏だったの。来る日も来る日も、私を使ってカットを練習していたわ。その傍ら、学費を稼ぐために夜職もしてたわね。でも、残念なことに頭のデキはよくなかったみたい。彼女は詐欺に遭って、全財産を失ってしまった。そして命を絶ったの。夢をかなえるための道具だった私を喉に突き刺してね」理容鋏はよくある話よ、と自嘲気味に嗤う。その声が冷たいのは、彼女の頭が金属だからではないだろう。
「じゃあ次はワタシの番だね。自慢じゃないけど、ワタシは由緒ある名家で使われてたんだ。ご当主様は優秀な人だったんだけど、女を見る目がなくてさ。縁談を蹴って、悪い女と結婚してしまったの。次期当主として厳く育てられてきたから、愛に飢えていたのかもね。ご当主様が幸せならそれでよかったんだけど、その女はご主人様を毒殺したの。長年、ご当主様に仕えてきたワタシを使って」彼女の声は静かだった。だからこそ、よけいに怒りの深さがわかる。
「それで、あいつは毒の瓶と一緒にワタシを粉々に砕いて、山奥に捨てたの。ご主人様と同じ穴に埋められたのが、せめてもの救いかな」彼女は憎悪を吹き消すように息を吐いた。白い湯気が長く尾を引く。
「それで、ユリちゃんの持ち主はどんな人だったの?」ティーポットは理容鋏の着るビスチェの裾を、非難するように引っ張る。
「こういうのは、吐き出してしまったほうが楽になるのよ」ティーポットの気遣いはありがたかったが、今回は理容鋏のほうが正しい。いまはただ、過去の出来事について誰か話したい。そして慰められたい。
わたしは大きく息を吐く。散々言葉に迷いながらこう切り出す。
「『ユリの花に囲まれて眠ると、安らかに死ねる』って聞いたことありませんか?」
「ないわね。根に毒があるってことは、聞いたことはあるけれど」理容鋏が言う。
「あるかも。酸欠になって死ぬんだっけ」ティーポットが答える。
「うん。わたしの持ち主はそうやって死んだんだ……」
「それは辛かったわね」わたしは二人に頭を撫でられる。
「『ここの住人はみんな、似たような経験をしてる』って、他のモノもそうなんですか?」理容鋏は頷く。
「スペードの3の持ち主はギャンブルで借金しまくった果てに首吊り自殺。シャンデリアちゃんの持ち主は、地震で落ちてきたシャンデリアに潰されて圧死。馬マスクの持ち主は、マスクと顔とサイズが合わなくて窒息死。ほかは知らないわ」馬マスクの持ち主だけ、冗談みたいな死に方だ。
「そういうことだから、気に病むことないよ」ティーポットが手を打ち鳴らすと、よどんだ空気が逃げていった。
「次はこれをしましょう。ユリちゃんも、こっちの方がいいわよね。手取り足取り教えてあげる」理容鋏が掲げるのは『THE 麻雀』のディスク。きっと、ブラウン管テレビの部屋からくすねてきたのだろう。
「あら、入らないわね」彼女はPS5に円盤を差し込むが、返却される。円盤を裏返して入れるが、やはり吐き出される。無理矢理ねじ込もうとするが、やはり入らない。しびれを切らした理容鋏は、PS5を叩く。凄い音がした。
「精密機械になんてことするんですか!壊れたら文句言われるの、ワタシなんですからね」ティーポットが怒ると、「好き嫌いするこいつが悪いのよ」と言い訳して、再び叩く。
「これ、PS2用のソフトじゃないですか……?」
「あらら?」指摘すると、理容鋏はパッケージを覗き込む。
「それに、一人用って書いてます」
「あらあら?ほんとうね。ブラウン管テレビに返しておいて」彼女は残念そうに言うと、ティーポットにソフトを押しつけた。
「なんで、ワタシが。自分で返してくださいよ!」
「だって貴方、使用人でしょ」
「こんなときばっかり、ずるいですよ」文句を言いつつ、彼女はそれを受け取る。
「まだ、食事会まで時間がありますね」わたしは理容サロン特有の左右が反転した時計を見て、言った。
「もう一回、桃鉄しよう!」ティーポットは『桃太郎電鉄』の円盤を再び取り出す。
「もう飽きたわよ」
「なら二人でしますから、無理しなくてもいいですよ」
「つれないのね」理容鋏は少し寂しそうに呟く。
「せっかくですし、いっしょにやりましょうよ。三年でいいですから」わたしは提案する。
「仕方ないわね」桃太郎電鉄の円盤は、ゲーム機の挿入口にすんなり入る。僅かな読み取り時間のあと、汽笛の音がスピーカーから響いた。




