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祈りが死を招く世界で、少女は救いを断つ刃を背負う  作者: 彩月鳴


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EP.7:澱みの産声

宿場町の境界を越えて、わずか数十歩。

アスターは、ふいにその足を止めた。


街の喧騒は背後に遠ざかり、今はただ、乾いた風の音だけが耳を満たしている。

振り返れば、陽炎の向こう側にあのひび割れた石の祠が、まだ頼りなく視界に残っていた。

そこでは今も、人々が肩を寄せ合い、あの「正しい祈り」を虚空へと投げかけ続けているのだろう。


だが――。


背中のローエングリンが、僅かに傾いた。


重さそのものが変わったわけではない。

物理的な揺れも、震えもない。

ただ、これまで均等に彼女の全身を圧迫していた質量が、明確な志向性を帯び、磁石に引かれるように彼女の肩を一点へと引き寄せた。


人々の祈りが、透明な水となって低きへと流れていく。

その雫が溜まり、腐り、やがて理を食い破る「出口」を、剣の重みが冷酷に指し示していた。


(……わかってる)


アスターは、視線を前へと戻す。

祠とは逆方向。街の外れへと続く、緩やかな下り坂の先だ。



祈りは、あの祠で完成した。

そこに疑いの余地はない。あの場に集まった人々の、一点の曇りもない善意と哀悼は、すでに理を食い破る臨界点を越えていた。


だが――「あれ」は、祠という発火点に留まるとは限らない。


『祈り』とは、『願い』とは似て非なるものだ。

願いは、人が人として生を営むための内なる火。己の足で立ち続けるために、自らの内で燃やし続けるべき生命の灯火だ。

対して祈りは、己が背負うべきその火を不可侵の領域へと投げ出し、偶像という名の器にその主権を委ねる行為に他ならない。


――本来ならば、それは人が人に対して、あるいは大いなる存在に対して捧げる、最も清らかな「信頼」の形であるはずだった。


しかし、今のこの世界において、器が人々の捧げた火で満たされた時、それは別のものへと変質する。

溢れ出した熱量は、救うべき対象を、あるいは縋るべき依代を求め、世界の皮膜が最も薄く、最も脆い場所へと吸い寄せられていく。


(……あっちか)


アスターは、坂の下に広がる静寂を見据える。

祈りの源流である祠から遠ざかるほど、その熱量は純度を増し、より過酷な「救済」の形を求めて加速する。


守ろうとする意思が、守るべきものを粉砕する。

そんな皮肉な法則が支配するこの世界で、今、坂の下の「脆い場所」には、人々の善意という名の劫火がなだれ込もうとしていた。


アスターは外套を翻し、下り坂へと踏み出す。

彼女の背にあるローエングリンの重みが、獲物を逃さぬよう、より一層強く彼女の肩を前へと押し出した。



視界の先は、不毛な静寂に支配されていた。

踏み固められることのない柔らかな土壌。かつての恵みを忘れ、ひび割れたまま放置された畑。そして、枯れ果て、黒い喉のように口を開けた井戸。

そこには、かつて誰かの生活があったという確かな記憶と、それが見捨てられたという冷徹な事実が、幾層にも重なり合って沈殿していた。


「あれ」は、こうした場所を好む。


人の意識から零れ落ち、誰からも「守られなかったもの」たちが最後に辿り着く場所。

祈りという名の制御不能な炎は、その虚脱した「空白」を埋めるための依代として、こうした澱みを真っ先に選び取るのだ。


アスターは、なだらかな斜面の途中で再び足を止めた。


周囲の景色は、一見すればただの荒野だ。

だが、彼女の感覚は世界の「綻び」を正確に捉えていた。


風が、妙に淀んでいる。

大気は流れることを拒み、特定の範囲内だけでじっとりと渦を巻いている。

草の揺れは、不自然なほどに周囲の風向きと噛み合わない。ある場所では激しく、またある場所では石のように凝固し、世界の旋律から切り離されていた。

音はあるのに、流れがない。

虫の声も風の囁きも、ある一定の空間に閉じ込められ、外側へ響くことなく反響し続けている。


その時、背中のローエングリンが、ぴたりと「重さ」を固定した。


これまで特定の方向へアスターを引きずり、傾かせていた質量が、今は一点の揺らぎもなく、彼女の重心を真下へと繋ぎ止めている。

それは、羅針盤の針が目的地を捉えた時の、冷酷なまでに静かな確信だった。


(……ここだ)


まだ、何も見えない。

誰の叫びも、空間の震動も、地を揺らす震えすらない。世界は不気味なほどに凪ぎ、沈黙を守っている。


だが、宿場町から溢れ出した「祈り」は、確実にこの澱みの底へと辿り着いた。

あとは、その膨大なエネルギーが、現実に干渉するための「形」を選び取るだけだ。

枯れた井戸を核にするのか、見捨てられた畑の土を肉とするのか。


アスターは乱れた外套の裾を静かに整え、冷たく澄んだ空気を深く肺に吸い込んだ。

背中のローエングリンに手をかけることはしない。まだ、その時ではない。


「あれ」は、完成してから討たねばならないのだ。

この地に集まった遍く祈りのすべてを喰らい尽くし、一滴の残渣もなく「形」として結実した後でなければ、終わらせることはできない。

中途半端に叩けば、行き場を失った祈りは再び霧散し、別の場所で新たな歪みとして芽吹くだけだ。


そこから先は、こちらに選択の余地などない。

慈悲も、対話も、交渉も。

この世界において、祈りが実体化した「神の残骸」と交わせるものは、ただ一つの結末しかない。


必要なのは、ただ一つ。――これ以上、救わせないこと。


「守護」という名の蹂躙が始まる前に、その存在理由ごと無に帰す。

それが、祈りを拒絶する彼女に課せられた、唯一にして絶対の回答。


彼女は、その場に根を張るように立ち、静かに待った。

世界が、人々の善意を糧にして、次の残酷な「守護者」を選び取る、その刹那を。




風が、止まった。


それは唐突な断絶ではなかった。淀み、滞り、行き場を失っていた大気が、ついに「動くこと」そのものを諦めた。

不自然な同期を見せていた草の揺れが消え、逃げ遅れた虫たちの声が途切れる。



世界が、何かの産声に備えるように、深く、重い呼吸を止めた。



次の瞬間、枯れた井戸の底から、低く、濁った音が響き渡った。

地鳴りではない。地殻の震動でもない。

それは、本来そこに在るはずのない質量が割り込み、空間そのものが耐えきれずに軋む悲鳴だった。


井戸の縁に積もっていた土が、理を忘れたように剥がれ落ち、空へと吸い込まれていく。

見捨てられた畑の土壌が、まるで巨大な獣の背中のようにゆっくりと隆起し、意志を持って蠢く。

ひび割れた地面の隙間からは、かつて命の水を求めていた根が、今は黒く湿った「影」となって、地底から無理やり引き抜かれていく。


かつて人々が愛し、そして忘れ去られた生活の残骸が、一つの「意志」のもとに凝集していく。


破壊ではない。

修復でもない。


――「守るために、まとめ直されている」。



人々の「悲劇を繰り返したくない」という祈りは、かつて生活を守っていた井戸を、畑を、大地を、暴力的なまでの密度で再構築していく。

それは救いを求める者が作り出した、あまりに巨大で、あまりに歪な「盾」。

自分たちを守るために、自分たちが捨てたものすべてを掻き集めて形を成す、終わりの化身。


アスターの眼前に現れようとしているのは、祈りが生んだ最悪の結晶。

その「守護」が完成したとき、世界から「危険」を排除するために何が切り捨てられるのか。


「救済」という名の暴虐が産声を上げるその刹那を、アスターは静かに見据えていた。

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