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祈りが死を招く世界で、少女は救いを断つ刃を背負う  作者: 彩月鳴


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EP.5:神話の萌芽

街道は、不気味なほどに静まり返っていた。


風は吹き抜け、草原は波打つように揺れている。けれど、その音の深層にあるはずの、人の気配が――混じり合うはずの喧騒が、削ぎ落とされたように消失しているのだ。


アスターは歩みを止め、膝を隠すほどに茂った青草の海に視線を走らせた。


打ち棄てられた荷車。力任せに叩き折られた車輪。裂けた荷袋から漏れ出した穀物の匂いに混じって、鉄錆に似た生臭い香りが漂ってきた。

血の跡は、抗った指の痕を伴いながら、深い草むらへと吸い込まれている。


(……獣。魔物か)


瞬時の判断。

ローエングリンは沈黙したままだ。

地面が震えることも、空気が粘つくこともない。神の残骸がもたらす「歪な救済」の影すらそこにはなかった。


あるのは、肉を裂き、骨を砕く、逃れようのない自然界の蹂躙。

それは、アスターが普段相手にしている「終わりの理」よりも、ある意味ではよほど健全で、それゆえに容赦のない現実だった。



彼女は無造作に外套の留め具を外し、肩にかかる拘束を解いた。

背後で、ローエングリンがその圧倒的な質量を微かにずらす。鞘越しに伝わる冷たい重みが、彼女の重心を深く、確実なものへと変えていく。


その、刹那だった。


膝丈の草むらが、波打つように激しく揺れた。

風に踊らされているのではない。そこには明確な「敵意」の通り道がある。

湿った土が重い四肢に踏みしだかれ、地表が悲鳴を上げるように低く軋む。

空気そのものが、獲物を追い詰める捕食者の体温でじっとりと熱を帯び始めた。


――来る。


アスターは街道から半歩身を退き、重心を低く保ったまま右手を太腿のベルトへと滑らせた。

細い指先に触れたのは、体温を拒絶するような冷たい鋼の感触。


投擲用の短剣だ。

それは神を殺すための牙ではなく、獣と戦うための爪。


祈らせない。

絶望の神を、ここに呼ばせない。


その時、草原の奥から短い悲鳴が弾けた。


「た、助け――!」


声は完結することなく、不自然に途切れた。

肉と骨が強引に圧し折られる、湿った重量音が大気を震わせる。



アスターは、走らない。

駆け出せば、その振動が獣を刺激し、生存者のさらなる絶望を――ひいては、この場に「神」を招き寄せる致命的な祈りを呼び起こすことを知っているからだ。

彼女はただ、歩く速度を僅かに早めた。獲物を追い詰める、静かな死神の歩調で。



視界の先、深い緑の海が爆ぜるように左右へと割れた。


現れたのは、深山の主と呼ぶにふさわしい巨大な猪型の魔物だった。

通常の倍はあろうかという巨躯。ひび割れた大地を思わせる灰色に硬化した皮膚は、幾多の刃を弾き、戦火を潜り抜けてきた証のように、不均一で醜悪な隆起を繰り返している。


その、針の穴のような小さな瞳が、アスターの姿をまっすぐに射抜いた。


そこに、知性ゆえの殺意はない。

弱者が抱くような、卑屈な恐怖もない。


ただ――自らの絶対的な領土を侵した「排除すべき異物」を冷徹に見定める、獣の、原始の眼差し。



猪の背後。そこには、腰を抜かしたまま硬直している二人の人間がいた。

肺から空気が押し出され、声にさえならない震えが彼らの喉を支配している。


彼らの瞳には、もはや猪という「獣」すら映っていない。

あまりの恐怖に耐えかね、意識が「ここではないどこか」――人智を超えた救いへと、致命的なほどに傾こうとしていた。


今にも、魂を削り出すような「祈り」がその唇から零れ落ちようとしている。


(……させない)



アスターは、胸の奥で低く、長く息を吸った。

肺に溜まった空気が、彼女の意識を研ぎ澄ましていく。


背中のローエングリンは、まだ沈黙している。

その沈黙を守り抜くことこそが、今のアスターに課せられた「救済」だった。

彼女は太腿の短剣に指をかけたまま、迷いなく一歩、前へと踏み出した。


刹那、巨躯が爆ぜた。


地を蹴る蹄が爆音を上げ、巨大な猪が弾丸と化す。

爆発的な加速。膨大な質量が怒号を伴って迫るその圧力に、周囲の空気さえもが悲鳴を上げて引き裂かれた。

草原は無残に抉り取られ、跳ね上がった土塊が礫となって降り注ぐ。

真正面から受ければ、肉も骨も等しく塵に帰すであろう死の突進。



だが、アスターの視界は凪いでいた。


閃光。彼女の右手から放たれた銀光が、一直線に空を断つ。

狙いは眉間ではない。岩盤のような頭蓋に阻まれることを予見し、彼女は唯一の「穴」――猪の右眼、その奥へと吸い込まれるように短剣を送り込んだ。


鈍い感触。刃は深くは沈まない。

だが、理を断つまでもない。剥き出しの神経を灼く激痛には、それで十分だった。



獣が、天を衝くような咆哮を上げる。

視界を奪われた狂乱が、死を運ぶはずだった直線的な軌道を、わずかに、だが決定的に歪ませた。


その“わずか”な死線の揺らぎを、アスターは決して見逃さない。


彼女は背中のローエングリンを両手で掴み、力任せではなく、その「重さ」に従うように鞘ごと地面へと突き立てた。


――ズゥン、と。


それは剣が土を穿った音ではない。巨大な楔が世界の中心に打ち込まれたような、腹に響く重低音。


次の瞬間、回避不能な死の質量が激突した。


だが、衝撃はアスターを揺らしさえしない。

微動だにせぬ『楔』に拒絶され、行き場を失った膨大な破壊の指向は、逃げ場を求めて魔物自身の骨格へと逆流する。


嫌な破壊音が草原に響き渡った。

支えを失った脚がもつれ、あれほど強固だった巨体が、断崖が崩れるように大きく傾いでいく。



だが、まだ終わらせてはくれない。


猪は、その死を拒むように踏みとどまる。

灰色の皮膚は、致命的な衝撃さえも強引に受け止め、内側の肉を繋ぎ止めていた。

折れたはずの前脚を血に濡らし、土を抉り、なおもその瞳には「排除」という名の執念を宿している。


(――しぶとい)


アスターは地面に打っていたローエングリンを流れるような動作で引き抜き、その場で大きく旋回する。


それは遠心力に頼った動きではない。

背負っていた「質量」そのものを、自身の軸を支点に回転させ、一点へと叩きつける暴虐な一閃。


――横殴り。


鞘の側面が猪の側頭部を捉えた瞬間、奇妙な静寂が流れた。

一拍、遅れて。鋼鉄よりも硬いと思われた頭部が、内側から「陥没」するように潰れた。


砕ける音はしない。

代わりに、閉ざされた空洞の中で何かが一気に破裂したような、鈍く湿った衝撃がアスターの腕へと伝わる。


猪の巨体は抗う術を失い、横倒しになったまま勢いよく地面を滑った。

抉り取られた草原の泥にまみれ、なおも荒い鼻息を吐きながら。


それでも、まだ、この怪物は息を繋いでいた。



牙が空を切り、獣の最期の抵抗が虚しく響く。

アスターはその懐へ迷いなく踏み込み、頭上からローエングリンを真っ向に振り下ろした。


断つのではない。叩き潰す。

それは、終わらせるためだけの一撃。


激突の衝撃は、魔物へと留まらずに地面へと逃げ、同心円状の震動となって草原を激しく揺らした。


巨躯から力が抜け、魔物はただの肉の塊へと帰した。



荒い鼻息も、肉が軋む音も消え、しばらくの間、遠くから吹き寄せる風の音だけが世界に戻ってくる。


アスターは剣を杖のように地面に立て、短く、深く息を整えた。

ローエングリンは、凪いだ海のように静かだ。

獲物を喰らった満足感も、満たされぬ飢餓感もない。ただ、一つの命が「終わった」という厳然たる結果を、無機質に受け入れていた。



彼女は静かに振り返り、生き残った二人へと視線を向けた。


二人は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

喉元まで迫っていた恐怖も、喉を灼くような安堵も、言葉として形を成す前に凍りついている。

折れそうになる膝を必死に支え、震える唇が何かを紡ごうと微かに動いた。


アスターは、その「何か」を制するように低く告げた。


「……終わった」


それだけを、事実の断片として投げ出す。


「もう、祈る必要はない。……これからも生きていたいのなら、祈らないで」


その言葉は、彼らを縛っていた目に見えない鎖を断ち切る響きを持っていた。

二人は、魂の抜けた人形のように、ただ深く、ぎこちなく頷いた。



アスターはそれ以上、彼らと意識を交わすことはしなかった。

血に汚れた短剣を無造作に回収し、ローエングリンを再び背へと戻す。


殺戮の熱を奪い去るように、草原を抜ける風が再び音を取り戻していく。


彼女は歩き出した。

背後に、物言わぬ巨獣の死体と――彼女が守り抜いた「祈られなかった時間」の静寂だけを残して。




助けられた二人は、魂が抜けたような沈黙の中で、しばらくその場に釘付けになっていた。


やがて、止まっていた思考が動き出すように、乾いた喉から震える声が零れ落ちる。


「……剣、抜いてなかったよな」


「……ああ。なのに、あんな……」


言葉は最後まで結ばれない。

目の前で起きた事象を、ありふれた人間の言葉に置き換えるには、余りにも現実の理から逸脱しすぎていたからだ。


「じゃあ……もし、あれを抜いていたら……」


その先を、誰も口にはしなかった。

想像の翼を広げること自体が、毒に触れるような、あるいは深淵から何かを呼び寄せてしまうような、致命的な危険を孕んでいると本能が叫んでいた。


彼らは視線を交わし、無言のまま深く頷き合う。


『祈らないで』


少女の言葉が彼らの中で反芻する。

忘れることなどできない。だが、深く刻みすぎて「畏怖」という名の祈りに変えてもいけない。


そんな、あまりに歪で矛盾した結論だけを、消えない痣のように胸に刻んで。



やがて二人は、支え合うようにして重い足取りで街道の彼方へと消えていった。


その背に残されたのは、いくつもの歪んだ断片だ。

『名も知らぬ旅人』、『抜かぬ剣で巨獣を屠った少女』、『祈りを禁じた異質の存在』。


それらの破片はやがて、尾ひれをつけた誰かの恐怖となり、尾も葉もつかぬ誰かの誇張となり――そして皮肉にも、救いを求める誰かの「新たな祈り」の理由へと姿を変えていくのだろう。


だが――少なくとも、この刹那だけは。

草原には、万物を等しく撫でる風の音しかなかった。


アスターは、遠ざかる足音が完全に大気に溶け去ったのを確認してから、再び重い一歩を踏み出す。


次も「祈らせない」ために。

次も「抜かずに済ませる」ために。


彼女は、壊れた世界の境界線を、ただ独りで踏み越えていった。

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