EP.4:救済の残渣
集落の境界を越えてから、アスターは一度として背後を振り返らなかった。
背後で何が起きたのか。あの場に残された光景がどうなったのか。それを想像することさえ、彼女は意識の外へと冷徹に押し出す。
確かめることは、対象を認識すること。認識することは、意識を割くこと。
そして、無意識の執着はやがて『祈り』という名の毒に、その姿を変えてしまう
彼女はただ、歩く。
まだ朝靄が白く淀む街道を、一定の歩幅で、ただ前へと進んでいく。
ローエングリンは沈黙している。
しかし、その鞘から伝わる拍動は、以前よりもどこか滑らかで、厚みを増していた。
何かを喰らい、満たされた獣の寝息。次に目覚めるときには、より鋭い飢えを伴うであろうことを予感させる、嫌な静けさ。
(……何を、持っていかれた?)
自身の内側に生じた小さな空白。
アスターはそれを感じ取りながらも、深追いすることはしなかった。
代償を惜しむ時間は、彼女の旅には存在しない。
ただ、奪われた分だけ自分が軽くなり、剣が重くなる。
その事実だけを淡々と受け入れ、彼女は歩みを止めなかった。
太陽が天頂に差し掛かる頃、白く乾いた街道の先に三つの人影が浮かび上がった。
重い荷を背負い、足を引きずるように歩く三人組。あの集落から、命からがら逃げ延びた者たちだ。
彼らもまた、前方から歩み寄るアスターの姿に気づいた。
張り詰めていた顔に一瞬、救いを見つけたような安堵が広がる。
だが、彼女との距離が縮まるにつれ、その表情は急速に、正体不明の戸惑いへと塗り替えられていった。
「あ……」
誰かが短く声を漏らす。
感謝を述べるべきか。それとも、恐ろしい怪異の前触れのようにその存在を遠ざけるべきか。
救われた命を前にしても、人は必ずしも純粋な感謝だけを抱けるわけではない。彼らにとってのアスターは、平穏が崩壊した瞬間に現れた、不吉な象徴でもあった。
「……無事だったか」
アスターは立ち止まらず、歩みを緩めただけでそう言った。
労わりでも、再会を喜ぶ響きでもない。ただ生存を確認するだけの、淡々とした事実の照合。
男の一人が、弾かれたようにぎこちなく頷いた。
「はい……あなたが言った通り……祈らずに、走りました」
男の言葉の端には、まだ癒えぬ恐怖が震えとなって残っている。
彼は縋るような視線をアスターに向け、言葉を絞り出した。
「助かりました。あそこであなたに会わなければ、私たちは今頃……」
男はそこで言葉を詰まらせた。
「今頃」の先に続くはずの、恐ろしい光景。
あそこで失われたはずの、誰かの名前。それが喉元まで出かかりながら、どうしても形を成さない。
「……違う」
アスターは、その謝辞を鋭く遮った。
男が抱いた空白の正体を、彼女だけは知っている。
彼の中の『痛みの根源』を、ローエングリンは、その意味ごと慈悲なく喰らい尽くしたのだから。
「生き延びたのは、あなたが、あなたの意志で祈りを止めたからだ。私の力じゃない」
その突き放すような言い方は、あまりに冷たく響いた。
だが、それ以上でも以下でもない。
男は立ち尽くし、乾いた地面を見つめた。
命を繋ぎ止めた理由が、神への信愛ではなく「拒絶」にあったという事実。
そして、何かに耐え難いほどの虚しさを感じながらも、その『何か』が思い出せないという、正体不明の焦燥。
その虚空を噛みしめる男の横を、アスターは一度も目を合わせることなく、ただ通り過ぎていく。
背後で交わされる囁きが、風に乗ってアスターの耳を撫でる。
「……きっと、神がお怒りになったんだ。私たちが何か、失礼を……」
「もっと強く願っていれば、村は消えずに済んだのかもしれない」
逃げ延びたはずの彼らは、今、自らの手で再び「祈り」という名の首輪を締め直そうとしていた。
アスターの唇に、自嘲にも似た薄い影が差す。
世界は、もう壊れている。
しかし、人はその壊れた世界を愛することをやめられない。
理不尽な死に「罰」という名の意味を与え、救いの不在に「祈りの不足」という名の理由を添える。
そうして自分たちを納得させなければ、立っていることさえままならないほど、彼らの心は脆いのだ。
アスターは振り返ることなく、陽炎が揺れる街道を、ただ独り静かに遠ざかっていった。
太陽が地平線の彼方へ沈もうとする頃、街道の脇に不自然に積み上げられた石の山を見つけた。
それはまだ形を成さぬ、祈りの「予定地」。誰かが縋る場所を求めて置いた、幼い神の揺り籠だ。
その傍らに、ひとりの子供がしゃがみ込んでいた。
「ねえ」
アスターが声をかけるよりも早く、子供が顔を上げた。夕闇に溶けそうなほど澄んだ瞳が、彼女を射抜く。
「ここでお願いすれば、神様が守ってくれるんでしょ?」
鈴を転がすような、あまりに無邪気な声。
この世界の理を知らぬがゆえの、あまりに過酷な問いかけ。
アスターの唇が、わずかに震える。
正解は一つしかない。だが、その正解を口にするには、彼女の心はまだ「人間」の重さを引きずりすぎていた。
否定すれば、この子の幼い心を裂き、絶望という傷を負わせる。
肯定すれば、この子を祈りという名の檻へ誘い、確実に殺すことになる。
彼女は、時間をかけて、静かに拒絶を刻むように首を振った。
「……祈らない方がいい」
なぜ、とは決して告げない。真実という名の楔は、時に嘘よりも鋭く心を壊す。
真実を語れば、それは新たな知識となり、恐怖となり、結局はより深い祈りへと人々を追いやってしまう。
何も教えないこと。それこそが、この歪んだ理の中でアスターに許された、あまりに細い境界線上の「慈悲」だった。
子どもは納得のいかない様子で首を傾げ、やがて飽きたように石の山から離れていった。
その無邪気な背中が遠ざかるのを見届けてから、アスターは再び前を見据え、歩みを再開する。
背負ったローエングリンが、内側から鞘を叩くように僅かに鳴動した。
まだだ。今ここで刃を晒せば、あの子の未来が持つ『意味』さえも、剥奪してしまう
だが、アスターの肌は知っていた。
世界のどこかで、あるいはこの地表のすぐ下で。
逃れようのない「祈り」がすでに産声を上げていることを。




