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祈りが死を招く世界で、少女は救いを断つ刃を背負う  作者: 彩月鳴


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EP.9:無情の救済

振り下ろされた『黄昏』が、すべてを等しく塗り潰した。


抵抗は皆無だった。衝撃も、音も、悲鳴すらない。

刃が通り過ぎた後には、切断の痕跡すら残らない。代わりにアスターが感じたのは、視界にある風景が紙のように奥行きを失い、透けていくような剥離感だった。



その感覚に――世界が、遅れて従った。



世界の表層から、特定の「意味」だけが剥がれ落ちていく。


「悲劇を繰り返したくない」という祈りが、「守るための檻」になったという因果そのものが、黄昏の光に焼かれて消滅したのだ。


目の前のそれは、崩れ落ちることさえ許されない。

ただ、存在していたという証明を失い、色あせた古い絵画のように、世界から静かに、そして完全に抹消されていった。



そこに“何かが生まれた”という痕跡は、もうどこにも残っていない。

天を突く土壁も、執着するように蠢いていた根も、誰かを閉じ込めるための空洞も――。

ローエングリンはそれらを破壊したのではない。それらが世界に存在するための「意味」そのものを喰らいつくしたのだ。

後に残ったのは、何の色もつかない、あまりに平坦な空白だけだった。



アスターは、ゆっくりと剣を鞘へ戻した。


落日の輝きが消え去ると同時に、止まっていた風が息を吹き返した。

草が揺れ、虫が鳴き、遠い空で鳥が羽ばたく。

枯れた井戸も、放棄された畑も、かつての絶望の姿のままそこに佇んでいる。


歪みは正された。けれど、そこには何の救いもない。

世界はただ、土は土、石は石という、冷徹なまでの「正常」へと回帰したに過ぎない。



鞘が、硬質な音を立てて閉じる。

背中にローエングリンの重みが戻るのと同時に、アスターは自らの内側が、削り取られたように軽くなるのを感じた。


(……また)


喉の奥に居座る、不自然な空白。

しかし彼女は意識の淵で、それ以上考えることを放棄する。


意味を与えれば、そこから「救い」を求める心が芽吹いてしまうことを知っているからだ。



アスターは再び歩き出した。


荒野を吹き抜ける冷気を、一息に肺の奥まで吸い込んだ。

肺を刺すようなその痛みと冷たさこそが、この歪んだ世界において、彼女に残された数少ない「正常」という名の確信だった。


振り返る必要はない。

祈りの結末に何があったか。誰が救われず、何が消えたか。

それを反芻する権利さえ、彼女は代償として差し出している。


震える足を、ただ前へ。黄昏が引いた後の道を、彼女は独りで進んでいく。





街道に出てしばらく歩くと、揺らぐ空気の向こうに、歪な人影の群れが見えた。

旅人の一団。荷車すら持たず、背に負えるだけの乏しい荷を抱え、小さな子供を真ん中に押し込むようにして歩くその姿。

難民――。脳裏に浮かびかけたその呼称を、アスターは意味をなす前に意識の底へ沈めた。


彼女はただの通行人として、彼らに視線を滑らせるだけに留める。


それでも、風は残酷に彼らの「絶望」を運んできた。


「……この先の宿場まで行ければ……」


「喉が、乾いて……動けないよ……」


「神様……どうか、お救い――」


縋るような最後の一言が漏れかけた瞬間、別の怒声がそれを叩き落とした。


「やめろ! 口にするな!」


鋭い声が、祈りになりかけた息を叩き落とした。

叫んだのは、先頭を歩く男だった。肩で息をし、土に汚れた顔のまま、仲間を睨みつけている。


「……峠の手前で会った旅の人が言っていた。あれは“呼ぶ”んだって」


「祈りは、天に届くんじゃない。こちら側に寄ってくるんだ……」


誰もその先を問いはしなかった。言葉にしてしまえば、その不吉な真実に“意味”という名の形が宿る。

それを誰もが無意識に忌避するように、彼らはただ、泥を噛むような沈黙の中で足を動かし続けた。


アスターは歩調を崩さず、すれ違いざまにその言葉だけを拾い上げた。


(……気づき始めた人がいる)


それは安堵などではなかった。むしろ、冷たい嫌な予感が胸の底に沈殿していく。

仕組みを知れば、そこには「未知」ではなく「確かな恐怖」が生まれる。

そして恐怖は、皮肉にも最悪の瞬間に――最も純粋な“祈り”へと容易に変質するのだ。


その思考を断ち切るように、背のローエングリンがわずかに傾いた。

引かれる方向は、彼らが逃れてきた方角――あの峠。


アスターは視線を前へと固定したまま、分岐の手前で足先だけを静かに変えた。



――ふと、乱れた外套の襟元が気になった。これから向かうのは、より深い澱みの底だ。

自分の役割を今一度堅牢に縛り直すように、彼女は歩きながら解けかけていた髪の結び目に指をかけた。


けれど――。慣れ親しんだはずの髪の感触が、今はどこか他人のもののようだった。


身体に染み付いていたはずの微かなリズム。

それが一箇所だけ、断ち切られたように繋がらない。


彼女はそれを「見なかったこと」にした。


震える指で紐を強く引き、強引に形を整える。

こだわりも、愛着も、今の彼女には不要な不純物だ。

形さえ整えば、アスターという名の「役割」は正常に遂行され続けるのだから。


彼女は心の中に芽生えかけた小さな波紋を冷徹に踏みつけ、ただ前へと視線を据えた。

救いを求めて逃げていく彼らとは逆の、重みが示す“澱み”へと。




峠へ向かう旧街道は、ある地点から不自然なほどに整備が途絶えていた。

丁寧に踏み固められていたはずの土は荒れ果て、続いていた車輪の跡は唐突に消えている。

代わりにそこに刻まれていたのは、乱雑に重なり合い、地面を抉るような無数の足跡だった。


自らの意志で逃げ出した跡ではない。

背後から何かに、あるいは誰かにじりじりと追い立てられた――「群れ」の痕跡だ。


ローエングリンの重みが、わずかに前へと傾く。

同時に、風に乗って鼻の奥を刺したのは、焦げた木と、汗の匂い。生きている人間の匂い。そして、肌を粟立たせるような「剥き出しの怯え」の匂いだった。



視界が開けた先、山腹に縋りつくように佇む小さな村が見えた。

申し訳程度の柵。影を潜める家々。煙突から漏れ出す煙はか細く、すぐに風に解けて消えた。

それは、温もりを求めて火を焚くことさえ、誰かの目を恐れて躊躇している――そんな「強制された沈黙」が村全体を覆っていた。



村の入り口には、見張りらしき男がひとり、退屈そうに立っていた。

握られた剣に震えはなく、その口元には卑俗な余裕さえ浮かんでいる。


(……「あれ」がいるわけじゃない)


大気に粘つくような不快感はなく、大地が悲鳴を上げる軋みもない。

何より背中の剣は、ただ方向を示すだけで、深海のような沈黙を保っている。


けれど、そこには「あれ」と同じ重さが横たわっていた。

祈りが招く超常の終わりとは違う、もっと泥臭く、もっと生々しい重力。

それは、ただ物理的な暴力に屈し、魂ごと沈黙させられた者たちが発する、窒息しそうなほどの静寂。


彼女は視線を逸らし、無表情のまま歩みを続けた。

ここで足を止めれば、それは彼女が守り続けてきた境界を越えることを意味する。


――関わるな。関心を持つな。名を残すな。


それは、祈りを終わらせる者として生きる彼女が、自らに課した冷徹な生存の規範だった。



しかし、その規範は、背後から投げつけられた一言によって無残に砕かれた。


「……あの、待って!」


声は小さく、ひどく掠れている。

それでも、喉を震わせる必死さが風を割り、アスターの背中を射抜いた。


振り返るより早く、アスターは肺の空気を凍りつかせた。

言葉の先を聞くな。相手が、その口で望みを“形”にしてしまう前に、止めなければならない


「お願い……その剣……」


振り返った先にいたのは、十歳そこそこの少女だった。

頬は泥に汚れ、細い手首には見るに堪えない赤黒い痣が刻まれている。

握りしめた布切れの先からは、生々しい乾いた血の匂いが漂っていた。


――助けて。


その一語が、少女の喉元までせり上がっているのが分かった。

人の口から零れる「助けて」という叫びは、そのすぐ隣に、最も純度の高い「祈り」を連れてくる。


「口にするな」


自分でも驚くほど、冷たく低い拒絶の声が出た。

少女の瞳が大きく揺れ、溢れ出そうになった言葉が喉の奥でつっかえる。

行き場を失った感情を押し殺すように、少女は痛々しく唇を噛みしめた。


「……ごめんなさい。でも……村が……」


少女の言葉を遮ったのは、村の中心から届く暴力の残響だった。

乾いた笑い声。木材が破壊される音。何より、途中で途切れる悲鳴。

それは祈りがもたらす終焉とは違う、人間が人間に与える、もっと泥臭く、もっと救いのない惨劇の音だった。



アスターの足が、ついに止まった。その下から、土の冷たさが伝わってくる。


名を残すことは、この世界では死を撒き散らすことと同義だ。

自分が救済の象徴となれば、それは新たな祈りを誘発し、さらに巨大な怪異を招く種になる。


しかし、今まさに目の前で進行している惨劇が、耐えがたい祈りを呼び寄せるのもまた、否定しようのない事実だった。


背負ったローエングリンが、わずかに熱を帯びる。

それは獲物を求める「飢餓」ではない。喰らうべき歪みがまだ形を成していないことへの、静かな、けれど逃げ場のない苛立ちだ。



アスターは少女を見下ろしたまま、視線だけで村の中の気配を測った。

山賊、複数。位置は村の中央。各所に見張り。

そして――この静寂を削り取る悲鳴の裏で、村の誰かが絶望の果てに「祈り」へと堕ちる瞬間は、もうそこまで迫っている。



「……私に、縋るのはやめて」


言葉はどこまでも冷たく、鋭い。

少女の細い肩が目に見えて落ち、その瞳の奥で絶望がどろりとした形を成しかける。


その瞬間、アスターは迷いを断ち切るように一歩だけ、村へ向かって踏み出した。

それは少女を救うためのものではない。ただ、この場所に蓄積された絶望の熱量が、これ以上「祈り」を呼び寄せないための、冷徹な予防措置。

そう自分に言い聞かせ、彼女は感情を殺した。


「……道を教えて。どこから村に入るのが一番早い」


少女の顔が、泣き笑いのように歪む。

溢れ出しそうになった感謝の言葉を、少女は喉の奥で必死に押し留める。

先ほどの、突き放すような忠告の意味を――縋ることの危うさを、彼女なりに理解したのだろう。


少女は声を殺し、震える指で裏道の方向を指し示した。


アスターは外套の襟を引き上げ、背中のローエングリンがもたらす物理的な重みを静かに受け直す。

英雄になる道を、彼女は選ばない。誰かの記憶に鮮烈な光を残すことなど、望みもしない。

それでも――目の前の悲劇を見捨てる道もまた、今の彼女には選べなかった。


村の境界を示す不吉な影が、彼女の足元を這い、飲み込むように伸びてきた。

――そして、村の奥で誰かが“神の名”を口にしかけた。

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