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鉄腕

作者: 迷路平蔵

 わたしの携帯電話が鳴ったのは、プロ野球がシーズンオフになった十二月の早朝だった。わたしは研究室に泊まり込んで、研究データの整理と検討を行っていた。

 電話口からは知らない男性の声がした。


「花村さんのお電話でしょうか?」


「はい」


「わたしは、里見くんのチームメイトで、藤田と申します」


 その名前には聞き覚えがあった。光一と同年のドラフト二位入団の投手だ。社会人野球の出身で、光一よりいくらか年上だが、二人は妙に馬が合ったようで、今では親友と呼んでもいい間柄になっている。未だ二軍生活を強いられているが、いずれは一軍で活躍する選手だと、光一から常々聞かされていた。今はニュージーランドで光一と一緒にオフシーズンの自主トレを行っているはずだった。


「はじめまして。いつも光一さんからお話は伺っています」


「こちらこそ里見君から花村さんとののろけ話をよく聞かされています。初めてお話させていただくのがこんな電話で恐縮なのですが……」

 藤田さんはそこで言いよどみ、しばらくしてから続けた。

「ニュージーランドで地震があったのはご存じですか?」


「いいえ。忙しかったものですから……」


「落ち着いて聞いていただきたいのですが、里見くんが被災しました。命に別状はありませんが、重傷です」


 わたしは驚いて、言葉を返せなかった。


「崩落した瓦礫の下敷きになったのです。頭や胴体など致命的になる箇所でなかったのは不幸中の幸いでした。出血はありましたが、瓦礫に圧迫されたことでむしろあまり失血せずにすんだようで、現在はレスキューに救助されて、入院しています。ただ、右腕をひどく怪我していて、現地の医者の話では……」

 藤田さんはそこで言葉を区切り、息を吸い込んで、しぼりだすようにして言った。

「切断せざるをえないということです」


 彼の言った意味を理解するのに、少し時間がかかった。

 右腕。それは光一の利き腕だ。

「切断……ですか?」


 藤田さんの返答はなかった。


「光一は、もう、投げられない?」


「……」


「まだ、そちらにいるのですか?」


「ええ、医者が言うには、現地の病院でしばらくリハビリをおこなってから帰国させるそうです」


「わかりました。すぐに向かいます」

 わたしはそう言うと、藤田さんの連絡先を聞いて、電話を切った。教授に事情を伝えるメールを送り、研究データをノートPCに移した。寮に戻って、スーツケースに服とノートを詰め込んで、それをかかえて大学を出た。


 タクシーをひろって空港に向かうさなか、不意に涙があふれてきた。光一はもう投げられない。彼はもっとも大切なものを奪われてしまった。


***


 わたしと里見光一が出会ったのは、大学の研究室だった。彼は卒業論文のテーマを生体力学について書くことに決め、わたしの所属する研究室にやってきた。


 わたしにとって、彼の第一印象はあまりよくない。彼は、女のわたしとさほどかわらない身長で、野球選手らしいずんぐりとした体型に白衣が全く似合っておらず、不格好に見えた。彼がスポーツ特待生であったことも、わたしの印象を悪くした。これまで研究室にやってきた彼と同類の人間たちは、研究に対して適当で、怠惰な姿勢を隠そうとしなかったからだ。


 光一が、そんな彼らと違うということは、ほどなくしてわかった。

 彼はとてもまじめに研究に取り組んだ。練習の合間、積極的に研究室に顔を出しては教授に質問し、専門書や論文誌に目を通した。手を動かすこともいとわず、それほど複雑ではないものの、投球行動の物理シミュレーションをプログラムしてデータをとってのけた。

 認識をあらためたわたしは、彼に勝手に抱いていた敵愾心を、これまた勝手に取り去って、こちらから彼に声をかけることにした。


「里見君ってさ、真面目だよね」


「そうかな」

 はにかむように彼は言った。研究室での光一はいつも寡黙で、言葉少なだった。


「これまで何人かスポーツ特待生が研究室にきたことはあったけど、みんな適当だったよ。里見君みたいにちゃんとやってる人ははじめて」


「野球だから」


「うん?」


「俺、野球が好きなんだ。ここにきて、生体力学の観点から野球を見直してみるのはとっても面白い。今まで見えてなかったことが見えてくる気がする」


 つまり、わたしが研究に打ち込むのと同じように、彼は野球に打ち込んでいたのだった。彼にとって研究室は、練習とはまた違った形で野球について考えることのできる場で、野球の延長線上にあるものだった。


 それからわたしたちはときどき話をするようになった。研究のこと、そして野球のこと。


 学生時代に限っていえば、わたしは、数回しか彼の投球を見たことがない。試合でマウンドにたつ彼は、研究室にいるときと同じように寡黙だった。ストライク、ボール、ヒット、どのような結果に対しても感情を表すことはほとんどなく、ただ黙々と投げ、次々と打者を討ち取っていった。その姿は自らの仮説を淡々と検証している物理学者のように、わたしの目には映った。


 誘ったのは彼からだった。

 そのときやっていたSF映画を二人で観にいった。わたしも彼も街にでるのは久しぶりだったので、ついでに服を買ったり本を買ったりした。


「これってなんだかデートみたいだね」


 わたしが言ったら、彼は目を白黒させた。

「僕はきみをデートに誘ったつもりでいたんだけど?」


 その年の秋、光一はドラフト5位で、福岡BECホークスに指名された。パリーグの古豪だが、昨年は主力投手陣の故障などでBクラスに甘んじ、即戦力となる投手を求めていた。光一は、大学野球でこそ派手な成績を残せていなかったけれど、精密なコントロールと多彩な変化球で三振を奪えるピッチャーであることが高く評価されたようだった。


 わたしはいくつかの論文が研究誌に掲載され、なんとか院に残ることができた。これからまた何本もの論文を書き、結果を出していかなければならないものの、とりあえずは研究者への道を一歩踏み出すことができた。


 春になって、わたしと光一はいわゆる遠距離恋愛の形になった。東京と福岡の距離はそれなりに遠く、わたしたちが二人でいられる時間は激減した。しかし、わたしには研究があったし、光一には野球があった。彼がどう思っていたかはわからないけれど、わたし自身はこの境遇を、それほど苦痛に感じてはいなかった。


 最初の一年半を光一は二軍で過ごした。たまに一軍に合流することがあっても、ほとんど登板することなく二軍に戻された。一軍に定着できたのは二年目のシーズン途中からで、その年は中継ぎで三勝というなかなかの成績をあげた。翌年、光一はシーズンのはじめから一軍で投げ、中継ぎで四勝、シーズンの後半は先発に転向し、五勝をあげた。


 わたしのほうはといえば、二年の修士課程を終えたあと、博士課程にすすんだ。教授との連名の論文が著名な研究誌に掲載され、企業からの出資と共同研究の提案をうけることになった。

 未来は明るく思えていた。


***


 ニュージーランドは暑かった。


 わたしは、到着すると同時に藤田さんに連絡を入れた。彼はわたしの早い到着に驚いた様子だったが、空港まで車を回してくれた。


 ここにきて、わたしは少なからず動揺していた。勢いでここまできてしまったものの、どんな顔をして光一に会えばいいのかわからなかった。


 車内は無言だった。わたしにはその沈黙がありがたかった。


 病院に到着して車を降りると、藤田さんはわたしを光一の病室まで案内した。


「俺は外で待ってますから」

 わたしは、不安げな表情を浮かべたのだろう。藤田さんがわたしの肩に手をおいた。

「大丈夫。そばにいてやるだけでいいんです。あいつには何より薬になるはずですから」

 藤田さんはそう言って、文字通りわたしの背中を押した。


 ベッドに横たわった光一は、落ち着いているように見えた。右腕の肘の少し上のあたりから下が空っぽになった病院着に、思わず目をそらしそうになった。


「きちゃった」

 わたしがわざと冗談めかして言うと、彼は笑った。

「驚いた?」


「うん。君のほうこそ驚いただろう」


「当たり前じゃない。具合はどう?」


「不思議な感じだよ。もう右腕はないはずなのに、指先のかゆみとか、肘の痛みとか、たまに感じるんだ」


「ファントム現象ね。神経細胞と脳細胞はまだ生きているから、何かの拍子でそれが発火して、まだ右腕があるように錯覚するの」


「そうか。君は専門家だったね」


「まあね」


 会話を交わしながら、わたしの瞳からはすでに涙があふれていた。

「光一は、平気なの?」


 光一は困ったような顔をした。


「もう、野球できないんだよ……?」

 わたしは顔を覆って、その場に泣き崩れた。


 光一は、なにかを言うべきか言うまいか、ほんのすこしだけ逡巡したようだった。それから、いつものようにゆっくりとした口調で話し始めた。

「僕から野球をとったら、なにも残らないと思ってたよ」

 そして、わたしの頭にそっと、残ったほうの左手をのせた。

「だけど違った。僕には君がいた。陽子の顔を見て、それを思い出せた」


 わたしは涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った。

「わたしを見るまで思い出さなかったの?」


「ごめん」


 わたしは光一の胸に顔を押しつけて激しく泣いた。彼は左手でわたしの頭を優しく撫で続けた。

「帰国したら結婚しよう。野球じゃなくたって、片腕だって、やれる仕事はあるさ」


 彼の腕の中で、わたしは嗚咽をあげながら何度も肯いた。


***


 福岡BECホークス期待の若手投手をおそった不幸な事故のニュースは、まもなく日本でも報道されることになった。利き腕を失った悲しきエース。ニュースバリューは充分で、どこからかぎつけたのか、婚約者であるわたしのところにも、いくつか取材の申し込みがあった。もちろんわたしは、それらをすべて断った。これからわたしたちは新しい生活を始める。ゴシップなんかに邪魔されたくはなかった。


 わたしは、就職することになった。生体工学の国内トップ企業で、ホークスの親会社でもあるBECの研究部門だ。共同研究をおこなっていたつてもあって、大学の研究室から引き抜かれた形だった。

 わたしが社に命じられたのは、最新鋭の義肢の研究だった。大学時代に研究していた生体神経ネットワーク研究の延長で、機械と生体のより高度なインターフェイスを構築することが目標になった。


 その被験者に光一が名乗り出たのは、自然な成り行きだったのだろう。光一はBECの所有する球団の元選手で、右腕を失っていて、わたしたちは義肢を作っていたのだから。


 BECの研究チームは優秀で、一年後には最初の結果を出した。わたしたちが行ったのは、すでに彼の中に存在していた右腕の運動を司る脳内ネットワークを利用して、機械の右腕に適応させることだった。簡単に言えば、彼が感じていた右腕のファントムを、そのまま実物に置き換えてやる作業だった。それは非常にうまくいき、彼の右腕は日常生活に支障がない程度まで快復した。


 それからわたしたちは、双方の親族と親しい友人だけを呼んだ、慎ましやかな結婚式をあげた。


「よかった、今日は本当にいい日だ。陽子ちゃん、里見をよろしくな! 里見は本当にいい奴なんだ。あんまり喋らない奴だけど、根はほんといい奴なんだよ! よかった、本当によかった」

 祝い酒でしこたま酔った藤田さんは、号泣しながら、よかった本当によかったを何度も何度も繰り返した。


 その姿にわたしと光一は大笑いして、一緒になった幸せを深く噛みしめた。


 新婚旅行から戻って、わたしたちは小さなマンションで同居をはじめた。わたしが勤めにでている間、まだしばらくリハビリの続く光一がもろもろの家事を担ってくれた。

 光一は食事つきの寮生活が長かったせいで料理は苦手だったけれども、大学で履修したスポーツ栄養学の知識だけは完璧で、味はいまいちながらバランスのとれたメニューを作ってくれた。


 藤田さんはわたしたちの新居をたびたび訪れ、毎度、光一の料理に文句をつけた。

「これはまずいな! 選手寮の飯のほうがなんぼかましだ」

 満面の笑みを浮かべて言うから、ただの軽口だということはわかっていたけれども、さすがにわたしは反論したくなって言った。


「そこまで言うことはないでしょう。結構おいしいわよ、これはこれで」


「いやいや陽子ちゃん、それこそ、料理は愛情ってやつさ。里見の奴め、俺に出す料理からは肝心の愛情をぬいてやがるんだ」


 お酒を飲みながらの歓談は、最終的にいつも野球の話になる。光一が腕を失ってから、彼に気を使って野球の話をする人はいなくなった。藤田さんだけがなんの遠慮もなく光一に野球の話をする。光一はそれが嬉しいようで、普段の寡黙な彼から想像できないくらいよく喋った。


 その年のシーズン、藤田さんはようやく長い二軍生活を抜け出して、クローザーとして開花し、一軍の試合で十八セーブの好成績を残した。翌年のオープン戦でも活躍し、守護神としての地位を確立したかに見えた。


 そんな彼を、病魔が襲った。

 医者の見立てでは余命半年。末期の肺癌だった。


 しばらく前からベンチで咳き込む様子が散見されていた。思い返してみれば、わたしたちの家に遊びに来たときも、よく咳をしていた。

 病状は、シーズン前の検査で判明したらしい。フロント陣は本人に告知すべきかどうか悩んだそうだが、結局、藤田さんのご両親の意向を汲み、告知することを選んだ。


 そうして藤田さんは入院したが、二週間で退院した。死ぬまで野球を続けたいという本人の強い希望をきいて、一軍に帯同しながら治療を行うことになったのだ。

 クローザーは、実働時間こそ短いが、準備時間が長く、常にストレスのかかる状況で登板しなければいけない、過酷な仕事だ。それでも藤田さんはクローザーにこだわり、以前より登板機会は減ったものの、順調にセーブ数を伸ばしていった。

 彼の病気のことは、ファンには伏せられた。ファンは守護神藤田の登板機会が減ったことを残念がり、彼を起用しない監督の采配にブーイングがおこることもあった。


 残念ながら藤田さんの病状は、その後も悪化を続けた。シーズン開始から二ヶ月がたって、ついにドクターストップがかかった。藤田さんは選手登録を抹消されて入院し、治療に専念することになった。


 わたしたちが彼の病状を知ったのもこの頃だった。わたしたちはそれを聞いて、すぐにお見舞いに行った。藤田さんは病床にありながら、普段の快活さのままわたしたちを迎え入れた。


「里見、久しぶりだな。ちょっと痩せたか?」


「それはこっちの台詞ですよ、藤田さん」


「病院食と比べたら、さすがにおまえのメシのほうがうまい。体も動かせてないから筋肉も落ちて、すっかりやつれちまった」


「こんなことになっているなんて知りませんでした。教えてくれればよかったのに」


「余計な心配かけたくなかったのさ。治すつもりでいたから。残念ながら、無理だったけど」


「そんな……」

 わたしがそう言うと、藤田さんは何かを悟ったような顔で窓の外に目をやり、呟いた。


「死にたくねえなあ」

 ため息とともにあふれ出した言葉は、止まらなかった。

「まだ、野球がやり足らない。ようやくここまできて、一流のプロと勝負できるようになったていうのに。おもしろいよなあ、あいつらとの勝負は。スイングに気迫が、命がこもってる。里見、おまえも一軍で投げてたから、わかるだろう?」


 光一は頷いた。


「生きてれば、投げられるんだけどな。里見、おまえ、投げろよ。片腕がなんだってんだ。おまえはまだ、生きてるんだろう? だったら投げられるさ」


「藤田さん、言ってることが無茶苦茶だ」

 光一はそう言って笑った。わたしも、いつもの冗談だと思って、一緒に笑っていた。


「笑うな。俺は本気で言ってるんだ。生身の右腕がなくったって、おまえには、陽子ちゃんたちの作ってくれた立派な腕と、元気な身体があるだろう。投げろよ、投げてくれよ、里見。俺のぶんまで」

 最後のほうは涙声になっていた。光一とわたしは、藤田さんの言葉を黙って聞いていた。しばらく押し黙った後、光一が答えた。


「わかりました。投げます」


 藤田さんは、それを聞いて微笑んだ。

「そうか、投げてくれるか」


「そのかわり、僕が投げたら、藤田さんも投げるんですよ」


「なに言ってるんだ、おまえは。俺が投げられるわけないだろう」


「藤田さんだって、まだ生きているでしょう。だったら、藤田さんも投げられるはずだ。約束してください。僕が投げたら、藤田さんも投げる」


 藤田さんは笑った。長く長く笑い続けて、笑いすぎて、涙が流れていた。

「わかった、わかった。おまえが投げたら、俺も投げる。おもしろいこと言うなあ、おまえは。怪我人が投げて、病人が投げるか。そんなおもしろいことがあるんなら、まだまだ生きてなきゃいかんなあ」


***


 投げられる腕が欲しい――。


 BECの研究チームは、光一の要請に一も二もなく賛同した。研究は現時点である程度の成果をあげてはいたものの、プロジェクトリーダーは、更なるイノベーションを達成したいと考えていた。新たなプロジェクト目標が設定されることで、チームに新たなモチベーションが生まれる。光一の提案した内容は適度に実現が困難であり、何らかのブレイクスルーを期待できるとプロジェクトリーダーは考えた。

BECのフロント陣営もまた、別の形でこの提案に魅力を感じた。彼らは、プロ野球の一軍でBECの研究成果を手にした選手が投げるということが、技術力のアピールとしても企業の宣伝としても、絶好のものになると考えた。


 こうして、プロジェクト「鉄腕」は開始された。


 最初にチーム内でコンセンサスをとったのは、彼の腕をハード性能的に人間に近づけるということだった。

 ハードウェア開発チームはまず、動力部の見直しを行った。投球という関節への負荷が大きくなる運動に対して、現状のモーターによる駆動では充分なトルクを出せないと考えた。また、高負荷によって逆電流が発生し、モーターがすぐに損耗することも問題とされた。いくつかの方法が検討されたが、最終的に電気信号で収縮する人工筋肉が採用された。人間の腕に近づけるというチーム内のコンセンサスが、採用の決め手になった。

 表面には最新型の人工皮膚が貼りつけられた。外見上の自然さもさることながら、高性能な触覚センサーを備えていて、皮膚表面上の圧力分布はもちろん、温度や湿度も把握できた。


 また、わたしたちインターフェイス開発チームも、制御手法の見直しを行っていた。使用者である光一を交えたミーティングを何度も行って、彼が理想とする運動を実現するために、どのような性能が必要となるかを検討した。


 彼が問題にしたのは、精度だった。


 目標物に向けて腕を動かすとき、あまりに細かい位置まで制御しようとすると、振動と呼ばれる現象が発生する。

 勢いがついて目標位置を行き過ぎてしまった腕が、本来の目標位置に引き戻され、引き戻された腕はまた勢いを持ち、わずかに行き過ぎる。そしてまたそれを補正する動きが生まれ、その結果、腕は目標付近でぶるぶると振動する。

 これを避けるためにわたしたちは、目標値を曖昧にするというシンプルな手法をとっていた。要するに、おおよそ目標物付近に近づけばよいとしたのだった。もちろん、使用者である光一には若干の違和感があったはずだが、それは日常生活を送るうえで問題となることはない程度の誤差のはずだった。


 光一はわたしたちに言った。

「この誤差が問題なんだ。投球っていうのはあんがい繊細で、ちょっとした違和感でコースがずれてくる。僕はそのほんのわずかなコースの差で勝負するタイプだから、それが致命傷になりかねない」


 わたしたちは、彼の要望にかなう制御方法をいくつか試したがうまくいかず、最終的に強化学習を試してみることにした。鉄腕をできる限り精緻にモデル化し、光一の投球フォームのデータを教師信号として、コンピュータ上で予備学習を行う。そこから先は、光一自身が、実際に鉄腕を装着して投球を行い、彼の感覚で良い悪いを判断して、腕に正常な動作を覚え込ませていくのだ。


「要するに、投球練習だね」


 光一は言ったが、それはあながち間違いでもなかった。動作を覚えるのが、脳の運動野か、腕そのものかの違いはあったけれど。

 光一自身、投球に一年以上のブランクがある。彼のリハビリと腕の制御系の調整を同時に行う形で、投球練習には長い時間が必要になった。


 また、プロ復帰にあたって、療養中に衰えた筋肉を取り戻す必要もあった。プロジェクトチームには、光一専属のトレーナーが参加し、彼の指導の元、連日の筋トレメニューと食事が用意された。光一は食事を作らなくなって、電話口でそのことを聞いた藤田さんは「あのまずいメシが食べられなくなるのはつまらないなあ」と言った。


 光一のトレーニングは順調に進み、半年たつとプロ時代の体重と体脂肪率を取り戻した。

 新しい腕は生身のそれと同様の自由度をもってはいたが、さすがにそのままというわけにはいかなかったようで、運動に制約があったけれども、光一はそれにうまく対応して、新しい投球フォームを作り上げた。


「どうもひねりの必要な球種は苦手みたいだ。カーブとスライダーの切れが、前よりずいぶんと落ちているから、プロではたぶん通用しない。フォークボールとか、ひねりのいらないボールを中心に組み立て直す必要がありそうだね」


 本来、光一は、多彩な球種を使いこなす器用なタイプのピッチャーだったが、徹底したトレーニングによって、速球派に生まれ変わっていった。後背筋のビルドアップと体幹トレーニングの成果により、球速が一四〇キロ後半にまでアップした。速球と同じ腕のふりで投げることのできるチェンジアップと、落差の大きいフォークボールが、新たな武器になった。


 こうして光一の復帰の兆しが見えてきた。この調子でいけば、今シーズンオフの入団テストには間に合いそうだった。


 そんな折、藤田さんの容体が急変した。わたしたちは知らせを聞いて、あわてて彼の病院に急行したが、間に合わなかった。藤田さんは、冷たくなってわたしたちを迎えた。


「あなたの投げる姿を見る日を楽しみにしていました。俺もまた野球をやるんだ、里見との約束なんだと言いながら、逝ってしまいました」

 涙にくれながら、藤田さんの母親は光一に告げた。

「あの子はもう約束を果たせませんけれど、どうかあの子のぶんも、投げてやってください」


***


 その年の冬、福岡BECホークスの入団テストが行われ、光一は合格した。義手を装着した光一の復帰はマスコミの注目を集め、再入団会見は大変な騒ぎとなった。口べたな光一を尻目に、マスコミの質問に球団のスポークスマンが回答した。


「里見選手の復帰はどのくらい前から計画されていたのでしょうか?」


「わたしが聞いたのは、入団テストの一ヶ月ほど前でしょうか。ですが、里見選手自身はかなり以前から準備をしていたようです」


「里見選手の思いがけない形での復帰に、ファンは複雑な心境なのではないかと思います。彼の装着する義手はプロ選手協約に違反しないのでしょうか」


「プロ選手協約に、義肢に関する取り決めはありません。わたしどもとしましては、問題ないと考えて彼の入団を決めました」


「陸上では、バネ入りの義足が競技性能を向上させる人工装置であるとして、出場を拒否されたという事例もあります。それでも里見選手の義手は問題ないと考えられますか?」


「里見選手のつけている義手は、彼の障害を補助するためのものであって、投球を補助するものではありません。ハンデになりこそすれ、アドバンテージとなるようなものではないのです」


「里見選手は、どのような意図で復帰を考えられたのでしょうか。できれば、里見選手本人の口からお答えいただきたいのですが」

 球団スポークスマンでは埒があかないと考えたのか、リポーターは質問を光一のほうに向けた。


 光一は言葉少なに答えた。

「藤田選手との約束です」


 リポーターはしばらく待ったが、そのまま光一が押し黙ってしまったので、続きを促した。

「と言いますと?」


「僕が投げたら、藤田さんも投げると」


「藤田選手は末期ガンで復帰は難しい状態でした」


「藤田さんなら復帰すると僕は信じていましたし、そのとき彼と一緒に投げられることを楽しみにしいていました」


「しかし、彼は亡くなられてしまいました」


「はい。でも、約束は残っていると、僕は思っています。こんな腕なので、藤田さんのかわりには到底なれませんが、彼のぶんまで、命ある限り、死ぬまで投げたいと思っています」


 翌日のスポーツ新聞の一面は「藤田さんのぶんまで、死ぬまで投げたい」という光一の言葉が飾った。彼はそれを読んで複雑そうな顔をした。


「思ってることをそのまま言っただけなんだ」

「知ってるよ」

 わたしは笑った。

「光一、かっこよかった」

 わたしがそう言うと、彼はもっと複雑そうな顔をした。


 復帰後初の登板機会は、タイガースとのオープン戦、九回の裏、五点リードの場面で訪れた。最終回とはいえリードも大きく、タイガースも六番から始まる下位打線で、ホークス首脳陣からすれば光一のテストの意味合いが強かっただろう。ただ、オープン戦を取材にきていたマスコミたちの興味は、光一よりも彼の右腕に集まっていたようだった。そしてそれは、わたしたち鉄腕プロジェクトチームも同様だった。初の実戦。鉄腕がテスト通り機能するのか、予期せぬトラブルが発生しないか、わたしたちは固唾をのんで見守った。


 一球目、光一はゆっくりと両腕をあげるワインドアップのモーションから、外角低めのストレートを投げた。上から下に振り下ろされた右腕が美しい軌跡を描いて、そこから放たれたボールは小気味いい音をたててキャッチャーミットにおさまった。

 バッターは動くことができなかった。審判がストライクをコールすると、外野スタンドの観客は沸き立った。オープン戦を観戦に来ているのは、ほとんどが以前の光一を知っている筋金入りのホークスファンたちだ。彼らからすれば、サイドクォーターからオーバースローに変化した光一のフォームも、以前より五キロ以上球速をあげたその球も、驚きだったに違いない。


 二球目は、外角の少しはずれたところに速球を放った。今度はバッターがスイングし、バットは空を切った。三球目、フォークボールを低めに投げて、スイングアウトの三振にきってとった。光一は、二人目にこそヒットを許したものの、三人目、四人目を危なげなく三振で切り抜け、ゲームセットを迎えた。

スタンドで観戦していた鉄腕プロジェクトのメンバーが歓声を上げた。今日はまだオープン戦にすぎないが、自分たちのつくった腕が、実戦に通用したことを喜んだ。

 わたしはといえば、喜びよりも安堵のほうが強かった。いつの間にか、両手のひらにぐっしょりと汗をかいていた。


 周囲のファンもまた歓声をあげていた。わたしはほっと安堵したまま、それを聞くともなしに聞いていた。


「里見ー!よか球ほうりよったぞー!」

「やりよるねえ、里見。こりゃ藤田の穴を埋められるかんしらんたい」

「ホークスの新たな守護神候補にエールば送ろうたい!」


 興奮して語り合うファンたち。その中には、冷静に異論を唱える者もいた。

「ばってんが、あん腕はどげんやろう」


「しょんなかやんな」

 ほかの者がたしなめるように言ったが、彼は眉をしかめた。


「そげんやけど、やっぱり気色のわるかろうもん」

 光一の右腕は、人工皮膚のおかげで、外見上は自然に見える。だけど彼は、その下に違うものを見ているのだろう。

 光一の義手に反発があることは、わたしたちも予想していたが、直に聞くとやはりつらかった。


 その夜、光一には、ファンの期待の高さのことだけ話して、腕のことは黙っていた。


 それからしばらくしてシーズンが開幕し、光一は一軍でスタートした。オープン戦での好成績から、首脳陣には藤田さんにかわるクローザーとしての活躍を期待されていた。わたしたちは、シーズンを通して光一に帯同し、鉄腕のメンテナンスを行うことになった。それを聞いて光一は言った。


「陽子といつも一緒にいられるのは嬉しいな」


「言っておくけど、仕事だからね」


「わかってるけどね。遠距離だった時期が長かったから、一緒にいられるだけで嬉しいんだよ」


 あまりにかわいいことを言うので、わたしは光一の頭を撫でてやった。


***


 この年のホークスは好調だった。開幕戦を勝ち越してから以降も勝ち星を増やし続けた。セパ交流戦でも二位となり、混戦のパ・リーグを、前半戦首位で折り返した。ファンは六年ぶりのリーグ優勝に期待が高まっていた。

 光一はこのホークス好調の原動力になっていた。リードした試合で登板すると、絶対の守護神として、ホークスの勝利を盤石なものにした。交流戦では完璧な、負けなしの成績すらおさめることができていた。


「もしかしたら、月間MVPいけるんじゃない?」

 わたしは光一に言った。


「どうかな。成績としてはとってもおかしくないけど」


「対抗馬がいそう?」


「ライオンズの四番の瀧口選手あたり。月間七ホーマーは立派な成績だよね」


 光一の言ったように、月間MVPは瀧口選手が獲得することになった。

 残念ではあったけれども、不満があったわけではなかった。ファンたちの間でまことしやかに噂される話さえ聞かなければ。


「里見が月間MVPをとれなかったのは、あの義手が問題になったかららしい」


 本当にそんなことがあったのかはわからない。だけど、このような噂があるということは、この噂にある程度の真実味を覚えているファンたちがいるということだ。

 彼の活躍を喜んでくれるファンがいる一方で、右腕をめぐる偏見もじわじわと広がっていた。

 もちろんこの噂は光一の耳にも入っているはずだった。それでも彼はいつものように黙々と投げ、淡々と打者を打ち取っていった。


***


 シーズンは佳境に入っていた。例年のようにパ・リーグは大混戦のまま終盤戦を迎えていた。現在の首位はライオンズ、それに、ホークス、ファイターズ、マリーンズと続く。しかし、ライオンズからマリーンズまで、五ゲームしか差がなかった。リーグ優勝を決定するクライマックスシリーズに出場するためには、リーグ戦で三位までに入る必要がある。また、クライマックスシリーズは、リーグ上位チームが有利な条件の変則トーナメントなので、出来る限り上位でリーグ戦を終えたい。

 リーグ戦はおおよそ残り十試合。ホークスは二位とはいえ、まだまだ気の抜けない試合が続く。そんな中で、ホークスの守護神である光一も連日の登板が続いた。


 疲れていたのかもしれなかった。平凡なピッチャーフライだと、油断したのかもしれなかった。風の強いマリーンズ球場で、運が悪かったと言うこともできるだろう。

 高く上がったフライに、光一は両手を広げながらピッチャーマウンドをおりて、落下地点に入った。そこに海風が吹いた。


 光一は、急に軌道をかえたボールに、飛びつくようにしてキャッチしたが、バランスを崩し、倒れ込んで右手をついてしまった。

 右腕は、光一の急な行動に対応できなかった。本来なら手のひらをつくべきところが、指先から地面にぶつかって、突き指のようになった。

 光一は、怪我をしたかのようにうずくまった。実際の痛みがあるはずはないが、視覚的な情報から、脳が架空の痛みを感じさせているのかもしれなかった。


 スタンドにざわめきが広がった。わたしはそのざわめきを、光一がうずくまっていることが理由だと考えていた。それは半分だけ正しく、半分は間違っていた。


 バックスクリーンに、光一の姿が映し出されていた。

 そこには、手の甲の人工皮膚を破って突き出した指の骨が、金属製の骨が、映し出されていた。


「ありゃあ、なんか」

「本当に機械なんか」

「壊れとるごたる」

「こげんして見ると、怖かねえ」

「生身と違うとるとやね」


 この映像は、その夜のニュースでも、繰り返し流れた。それを見た視聴者もまた、同じような感想を抱いたに違いなかった。


 翌日は試合がなかったので、壊れた右腕の修復に時間をとれた。幸い、損傷はそれほどひどくなく、明日の試合にはまた登板できるようになりそうだった。


「怖がらせちゃったなぁ」

 光一が言った。

「明日にはまた投げられるようになる。これって、普通じゃないよね。指の複雑骨折が一日で治るなんて」

 光一は自嘲するように笑った。

「また怖がらせちゃうよね」


 わたしは光一の手を握った。生身の左手からは、光一のぬくもりが伝わってきた。


「こんなつもりじゃなかったんだけどな。僕はただ、藤田さんとの約束を守りたかっただけなんだ」


「知ってる」

 わたしもまた、藤田さんとの約束を守りたいのだ。その気持ちは、ファンたちにも伝わっていると思いたい。


***


 翌週の週刊誌に光一の記事が掲載された。それは、率直に言って悪意のこもった記事だった。「業界通」という匿名の人物が、光一の義手について解説を行っていた。


 彼の右腕は、これまで一般的に使用されてきた義手とは全く違い、最新鋭の技術の結晶と言っていいものです、あの生体工学界最大手の企業であるBECがプロジェクトの中心にいるということからもそれは明らかでしょう、彼らは里見選手の義手をまるでハンディキャップであるかのように喧伝しているようですが、実態はまるで違うとわたしは思います。


 また、「ファンの声」という名目の記事もあった。


 里見選手のことは、一度引退する前から知ってます、あのころは先発で、未来のエースと呼ばれていましたっけ、復帰した里見選手を見てびっくりしましたね、まずフォームが変わっている、サイドクォーターの投球だったのがオーバースローに変わっていた、変化球で勝負する軟投派だったのに、速球で勝負する本格派に変わっていた、それにね、球速があがってるんです、ブランクがあるはずなのに球速があがるなんて考えられますか、どう考えてもあの腕のおかげでしょう、わたしはやっぱり里見選手を認められません、彼は、親からもらった体のままで真剣に野球に取り組んでいるほかの選手に悪いと思わないんでしょうか。


 記事は、里見選手によって話題づくりをしているBECホークスの首脳陣と、それを放置している球界に対する非難の言葉で締められていた。


「なによこれ」

 わたしは一読して、怒りとともに雑誌を放り投げた。


 わたしは彼の腕が、まったく特殊でないことを知っている。人間以上のものであり得ないことを知っている。そして、彼がその腕でどれだけ努力して今のフォームを作り上げたのか、球速をアップするためにどれだけのトレーニングを積んできたのかをそばで見ている。記事は憶測だらけで、嘘だらけだった。

ホークスの広報が正式に抗議したが、週刊誌は独自取材による事実であり抗議は受け付けられないと回答した。球団は訴訟に踏み切ったが、判決までには長い時間がかかりそうだった。


 そんなゴタゴタの間も、光一は投げ続けた。いつものように黙々と、淡々と。

 終盤戦で、光一はセーブを重ね、ホークスは勝ちを重ねて、一位でリーグ戦を終えた。クライマックスシリーズでは、二位ライオンズと三位ファイターズの勝者を迎え撃つ形となった。


 そんなとき、セリーグ側から、疑義が呈された。里見光一投手の、日本シリーズ出場の是非についてだ。

 確かに、現時点のプロ野球選手協約上に、義肢に関する規定は存在しない。しかしながら、現在、マスコミで騒がれているように、光一の義手が競技性能を向上させる目的で装着されたものであるとしたら、それは認められるべきではないのではないか。

 協約には、不測の事態が発生した場合、ただちに有識者会議が招集され、議題に対する是非を問うという旨が明記されているらしい。光一の義手について、その有識者会議とかいうものが召集されるのに、さして時間はかからなかった。


 わたしたちは、それに全面的に協力をするつもりだった。説明して、調査してもらえれば、光一の腕がただの義手であることは明白になると思っていた。しかし、わたしたちは会議に呼ばれすらしなかった。釈明の機会すら与えられなかった。


 有識者会議の結論を受け、プロ選手協約に、以下の一文が追加された。

 プロ野球選手は、競技性能を向上させるための人工装置や、それに類するものを装着してはならない。


 そして、光一の義手はこの条項に抵触するものであるとして、条項の施行と同時に光一のプロ登録が抹消されることが決まった。この条項は、クライマックスシリーズ終了後、日本シリーズ前に施行される。つまり、光一は日本シリーズに出場できないという、一方的な通告がなされたのだ。


***


 クライマックスシリーズの最終戦、九回表、ホークス一点リードの場面。


「選手の交代をお知らせします。ピッチャー、山本にかわりまして、里見。背番号、五十三」


 球場にどよめきと大歓声が起こった。実質的に、これが光一の最後の登板機会となるはずだった。ファンはそれをわかっていた。ホークスのファンだけでなく、対戦相手のライオンズのファンすらも、光一に声援を送った。


 プロ野球連盟の一方的な通告は、ファンからの大反発をくらった。特に、ホークスのファンを中心に、パリーグのファンは激怒した。「セリーグの連中が里見におそれをなした」というのが彼らの言い分で、この議案を提出した、球界の盟主然とした某球団オーナーへ批判が集中した。

 決定は覆らなかったが、これまで光一の義手への偏見を隠そうとしなかったマスコミも、手のひらを返したように彼を悲劇のヒーローに仕立て上げた。結局のところ、義手に偏見をもっていたファンよりも、光一を愛してくれていたファンのほうがはるかに多かったのだ。


 ホークスの応援団長が、だみ声を張り上げた。

「里見投手にー! 鉄腕コールを送りまーす!」


 トランペットが鳴り響き、スタンドが声を合わせて叫んだ。


 鉄腕! 鉄腕! 鉄腕!


 その声に押されるように、光一が第一球を投じた。審判のストライクのコールに、スタンドが沸きかえった。


 鉄腕! 鉄腕! 鉄腕!


 二球目のフォークボールを空振りさせ、三球目のチェンジアップに手も出させず一人目を切ってとった。

 二人目も危なげなかった。三球目のストレートを詰まらせ、セカンドフライに打ち取った。


 三人目にバッターボックスに入ったのは、ライオンズ四番の瀧口だった。


「よっしゃ里見ー! 月間MVPんときの恨みば晴らしちゃらんかー!」

 観客のひとりが叫んだ。光一には聞こえていないとは思うが、彼が気合を入れ直したのが、スタンドからもわかった。


 ワインドアップから鉄腕が振り下ろされ、その球は本日最高の一四六キロを記録した。瀧口のスイングは空を切って、ホークススタンドに歓声が巻き起こった。


 あと二球! あと二球!


 観客の大声援の中、二球目が投じられた。鋭い腕の振り出しだが、ボールはふわりとバッターボックスに向かっていく。内角低めのチェンジアップを、瀧口は出かけたバットをぎりぎりで止めて見送った。主審がファーストの塁審を指差し、指さされた塁審が両手を左右に広げた。主審がボールを宣告すると、スタンドからため息が漏れた。


 三球目。光一はキャッチャーからのサインに一度だけ首を振ってから、内角低めに再度チェンジアップを放った。瀧口のスイングは完全にタイミングをずらされていた。バットに当たったボールは、そのまま三塁側のファールゾーンに消えた。

 四球目は、外角低めにフォークボールを投げた。明らかにボールとわかるそれに、瀧口は手を出さず、カウントはツーボール、ツーストライクになった。


 鉄腕! 鉄腕! 鉄腕!


 スタンドからは、再度、鉄腕コールが沸き起こった。

 光一はおおきく振りかぶって、五球目を投じた。二球目と三球目と同じ内角低めに、一四九キロの速球が走った。瀧口は手を出せなかった。


 その瞬間、すべての歓声が消えた。キャッチャーミットにボールがおさまる音を聞いた気がした。


 審判のストライク、ゲームセットのコールに、光一が雄叫びをあげた。

 大歓声の中、ベンチからホークスの選手たちが飛び出してきて、囲まれた光一は胴上げで宙を舞った。光一の右腕に抱かれて、藤田さんの背番号二十四をつけたハリーホーク人形も、一緒に宙を舞った。

 鉄腕コールは、いつまでも鳴り止まなかった。


***


 その翌日、光一は引退会見をおこなった。だがそれは、実質的には、引退しない会見と言ってもよかった。光一はその席で、日本プロ野球からの引退を宣言したものの、同時に米メジャーリーグへの挑戦を明言した。


「藤田さんとの約束なんで、やめられないですよ。死ぬまで投げないと、死んでからあの人に怒られるんで」


 翌日のスポーツ新聞の一面を「藤田さんとの約束、メジャーで死ぬまで投げる」という光一の言葉が飾った。


「思ったことをそのまま言っただけなんだ」


「知ってるよ」

 わたしは笑って言った。

「光一、かっこよかった」


 アメリカ野球殿堂博物館に、里見光一の鉄腕が展示されることになるのは、これから五十年後の出来事だ。

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