9:ジャングル・クルーズ
惑星環境の地球化が完了した後、地球産動植物を放流する。
ただし、惑星内を如何に地球化したところで、惑星外――恒星や衛星の有無やらなんやらで全てが地球と同一にはならない。その差異に伴う変化は整えた惑星内環境にも大小さまざまな影響を与え、動植物にも順応や適応を要求する。
そのため、入植惑星に放流する動植物の初期世代は適応進化や順応変化を促進するよう、遺伝子加工されていた。こうした加工遺伝子は世代を重ね、進化と変化が一定を越えると遺伝継承されなくなる。つまり、その惑星独自の生態になったことを意味する。
たとえば、自然に食われているラ・シャンテの街を徘徊していた、青毛の鹿みたく、だ。
人間とて例外ではない。
火星に入植した人類はローカライズによってエルフのような外見になり……木星に入植した人類は適応処理後にドワーフを思わせる姿になった。水星や金星、土星……それぞれの星でローカライズによる特徴を持つようになった。
逆に言えば、入植先が地球環境に近ければ近いほど、地球人類的容貌が保たれる。
ノヴォ・アスターテ人はその意味において、まったく地球的な外見の人々だった。
天蓋膜のグレイグー化による有害降下物で、ミュータント化した者達は除くけれども。
話を戻そう。
入植惑星に放流する生物は地球に生息したもの基本としており、間違ってもファンタジー作品に登場するドラゴンやゴブリンといったもの造り出したりしないし、そうした行為は禁止されている(なぜ人間に敵対的な有害生物を放流する必要がある?)。
まあ、某国娯楽産業がメインスポンサードの入植惑星が法律の穴を突き、現地に恐竜化する遺伝子を組み込んだ爬虫類をばら撒き――数十年後、“竜”と入植者が生存闘争を繰り広げる地獄の箱庭が生まれたりした例もあった(ファンタジー愛好家がこぞって入植希望書を提出したという)。
ノヴォ・アスターテの独自生態系が育まれる過程において、いくつか想定外の進化へ至った生物もいる。
そこに有害降下物が突然変異という新たな可能性をもたらした。
今やノヴォ・アスターテの生態系――特に汚染除去がまったく進んでいない文明喪失圏における生態系は、生命の神秘と驚異そのものだ。
○
季節で言えば晩夏に当たるララーリング半島は、高温多湿に見舞われている。
多層林冠の隙間から疑似陽光が注ぐ、仄暗い密林の中。
高湿度の粘りつく暑気とむせ返るほど濃い緑の臭気。藪の奥や梢から注ぐ獣達の視線。暗がりの向こうに感じる小動物の気配。
視界を埋め尽くす緑の薄闇に強烈な圧迫感を覚え、本能的な不安を強く刺激される。
もっとも、今は自然に畏怖を抱いている場合ではなかった。
分厚い林冠の上を哨戒巡回の小型無人偵察機が悠然と飛んでいる。
小型とはいえ、搭載されている索敵系は侮れない。望遠。熱探。動体。場合によっては音響とレーダー探知まで備えている。ジャングル戦専用の調整と改造が施されていれば、その捜索追跡能力はかなり高くなる。
救いはこの辺りの敵性軍閥や民兵組織が運用する兵器体系が型落ちのモンキーモデルということだ。
皇国に限らず列強が、民兵や軍閥に最新兵器や正規ハイテク兵器を与えることはない。常識である。
ユーヒチは藪の底に身を隠しつつ、いざという時に備え、突撃銃の照準を梢の上を飛ぶ無人機へ重ねている。銃を構える腕を毒々しい色の蛇がにょろにょろと這っていた。
小型無人偵察機はユーヒチ達に気付くことなく、頭上から去っていった。
藪の中で構えていた突撃銃の銃口を下げ、ユーヒチは五眼式多機能フルフェイスヘルメットの中でそろそろと息を吐く。蛇はいつの間にか消えていた。
適応調整のために緊張や不安を覚えなかったけれど、敵の偵察機がすぐ傍を通るという事態は、気疲れする。
熊の熱源がこちらの探知距離から去ったことを確認し、ユーヒチとウォーロイド達は泥と草葉と地衣類に塗れながら、もぞもぞと藪の底から這い出した。
ダークの強行偵察用レイヤードスキンスーツとタクティカルギアに、可変色偽装ポンチョを被った姿は、森の幽鬼みたいだ。
森の幽鬼に化けたユーヒチ達は静かに移動を再開する。
沖縄や台湾に存在する亜熱帯林と、東南アジアや南米の熱帯林が微妙に趣を違えるように、亜熱帯のララーリング半島の密林も熱帯地域のものと何かが異なる。
植生の違いか、生息動物達の違いか、着生植物の多寡か、分厚い林冠が生む暗がりの色味か、林床の藪具合か。
いずれにせよ、ユーヒチはただ無言で歩き続ける。一言も発さない。上空高くにいるトリシャ達と通信もしない。幽霊のように気配を断ち、静かに暗い密林の底を進み続ける。歩幅は決して乱れない。ウォーロイドと同じく一定の歩幅を維持し続けている。
見渡す限り緑色の薄闇が支配する世界を無言で歩き続ける行為は、心身を深く適応調整していてもなお、酷く哲学的な気分が生じたり、無謬の想像力が働いたりする。
人間が備える精神的免疫反応なのかもしれないし、チューンドに施された精神的自己調整システムかもしれない。
仄暗い密林の中を黙々と歩き続け、疑似陽光の照射が最も強くなる昼飯時。
ユーヒチはようやく足を止め、大休止を採った。
幾筋もの蔦に絡みつかれた巨木の足元。ウォーロイド達に周辺警戒をさせつつ、ユーヒチは戦闘糧食で燃料補給を始める。
「こちらシンハ1。定時報告。状況異常無し」
半日まったく喋っていなかったため、声がかすれ気味だった。
『アクチュアル、了解。お散歩はどう? 楽しい?』
トリシャの官能的な美声が鼓膜をくすぐる。洗練された上流階級的発音と発声は、周囲の原始的光景とあまりに乖離して聞こえ、現実味が乏しい。
「緑豊かな大自然を堪能してる。美しい動植物。命の息吹の香り。虫に集られてる時は特に最高だ」
情動の抜けた声で語ったシニカルに、トリシャがくすくすと上品に喉を鳴らす。
『行程予定のズレは誤差の範囲よ。お散歩を楽しんで』
「了解」
通信を切り、ユーヒチはチョコレート味の高カロリーなエナジージェルと幾つかのビタミン状を飲み、思う。
天然肉のトンカツ定食が食いたい。
小休止を採りつつ午後も黙々と歩き続け、やがて疑似陽光の照射時間が終わり、蠢く夜空に雲状光帯が煌めく。
分厚い樹冠の隙間から覗く美麗な天体現象を一瞥し、ユーヒチは夜の密林内を進む。いささか強行軍だが、さっさと目標拠点の監視ポイントに辿り着きたかった。
生態系豊かな亜熱帯林の夜は、夜行性動物達の気配も濃い。
木々の上から夜行性の鳥や蝙蝠の視線を感じる。深藪の底で小動物達の動きが聞こえる。密林の闇の奥から獣達の声が聞こえる。
それから、どこかから微かに獣臭と血の臭いが流れてくる。
『10時方向。逆探限界、距離1320』
臭気センサーで逆探を掛けたウォーロイドが、女性的機械音声で報告する。
「発生源が接近するような報告しろ。前進継続」
『シンハ1。既に行動開始から14時間を経過しており、休息が推奨されます』
「もう少し距離を進める。周辺警戒を怠るな。夜行性の動物は凶暴だぞ」
ユーヒチは小さく息を吐き、歩き続け――ようとした矢先。
『3より1。10時方向より、距離1300。動体標的多数。急速にこちらへ接近中。距離1300、1290、1280……対応を』
「散開。身を隠せ。発砲は命令あるまで待て」
首狩人と戦争人形達は音もなく巨木の陰や大地の起伏、藪の底に身を沈める。可変色偽装ポンチョが色相変化し、周囲の景色に溶け込む。
銃を構えるウォーロイド達と違い、ユーヒチは左手でパウチから音響閃光弾を取り出し、安全レバーを握りながら安全ピンを抜いた。
夜行性のケモノにはこれが一番効く。
密林の闇に隠れながら、ユーヒチ達は接近してくる反応源を窺う。HMD上に浮かぶ動体と臭気と音響反応。相対距離表示が急速に減退していく。しかし、無数に繁茂する緑に遮られ、直接は見えない。
不意に、暗闇に獣の輪郭が浮かび上がった。
ユーヒチは思わずヘルメットの中で鬼灯色の瞳を瞬かせる。
一見すると、それは大型の類人猿に見えた。が、そいつは猿ではあり得ない。
なにせ頭が巨大なイソギンチャクのような触手塊だったからだ。
――パラサイト・アネモネ。
ノヴォ・アスターテに生じた突然変異的進化の機会は寄生虫にも与えられており、パラサイト・アネモネは最も凶悪な種の一つとして知られている。
なんたって眼前の類人猿のように宿主の頭部を食いつくして体表面に表出し、肉体を完全に乗っ取るのだ。
仮にあの猿を解剖してみれば、あの寄生虫の末節と鹿の神経や血管が結合し、寄生虫が頭脳として機能し、猿の臓器や筋肉を“生かして”いることが分かる。
血の臭いを発している理由は、類人猿のあちこちに怪我を負い、血を流しているから。
類人猿の身体を乗っ取ったパラサイト・アネモネは、触手群を揺らしながら濡れ湿った林床の地面をナックルウォークで駆けてくる。
血を流すパラサイト・アネモネを追いかけ、ララーリング・ブラックバブーンの群れが木々を飛び移ってくる。
夜の密林で行われる弱肉強食の闘争。自然の一幕。
ナショナルジオグラフィック・チャンネルなら嬉々として撮影するだろうけれど、ユーヒチ達にとっては、クソバカ珍走団の迷惑行為と大差ない。
「1より全機、動くな」
ユーヒチは声を潜めて通信機へ吹き込む。
奇怪な寄生生物と、雑食性の凶暴な狒々達による追いかけっこ。
狒々達が老婆染みた雄叫びを上げながら、樹上から爪牙を剥いてパラサイト・アネモネへ飛び掛かり、パラサイト・アネモネは触手群を振り回して襲い掛かってくる狒々達を迎撃する。
触手の先端が硬い爪状突起になっているため、迎撃された狒々達の皮を裂かれ、肉を削がれ、鮮血が飛散する。中には耳目を失ったり、指や手足を切り落とされたりするものもいたが、狒々達はまったく臆さない。恐るべき戦闘意欲と攻撃性。
仲間の犠牲を無視して類人猿の体躯に飛び乗ったりしがみついたりした狒々達が、爪牙を突き立て噛み千切り引き裂き、触手を食いちぎり引き千切り。まき散らされる猿の血と寄生虫の体液。
ケダモノ達はユーヒチ達に気付くことなく、死闘を繰り広げながらその場を通り過ぎっていった。
獣達の凄惨な戦いを見送り、ユーヒチは音響閃光弾の安全ピンを戻しながら、決めた。
「……安全な場所を見つけて、休息する。今夜はここまでだ」
○
「緑の地獄ね」
朝霧の漂う亜熱帯林の山稜を見つめながら、トリシャはタンブラーを口に運んだ。珈琲顔負けに黒々とした紅茶でカフェインを補給する。
高度25000メートル。濃藍色のステルス塗膜を施されたオルキナスⅣ級強硬偵察飛翔艇が疑似陽光の照射が始まった朝の空を泳いでいた。
操縦桿を握っているべきダフネは狭苦しい共用スペースで仮眠中。では、誰がこの艇を飛ばしているのか。
答えは操縦室に搭載された操縦用人工知能。それとオペレーター席に座るトリシャが人工知能の自動操縦を支援していた。
ちなみにシドニーは船倉の端でハンモックにぶら下がって寝ている。
シャワーは我慢。トイレ? そんなもんお前……セクハラやぞ。
「おはよう、お嬢」
コックピットに火星系エルフ美女が姿を現す。
「おはよう。ダフネ」トリシャはシステムに繋がったまま応じ「目覚めの気分は?」
「最悪。別れた亭主とヤッてる夢見た。あんにゃろー、夢の中でもヘタクソだったよ」
毒づきながらドライバーシートに身を沈め、ダフネはヘッドギアを被る。
くすくすと鈴のように喉を鳴らし、トリシャは言った。
「欲求不満なの? 本当にユーヒチと寝てみる? それとも、私と寝る?」
「お嬢、勘弁してくれ」
ダフネは嫌そうに端正なエルフ顔をしかめた。
トリシャが何かとユーヒチへ粉を掛けてからかっているけれど、実のところ、トリシャは本気でユーヒチに好意を寄せている。一線を越えない理由は、トリシャが恋愛手前の距離感を楽しんでいるに過ぎない。
そして、トリシャは男女間の愛情関係に“個性的観点”を持った女だった。
仮に言葉通り、ダフネがユーヒチと寝ても、トリシャは嫉妬などしないだろう。それどころか、嬉々として“三人の特異な関係性”を構築するに違いない。いや、下手したらシドニーまで誘い込むかも。
伝統的な一夫一婦制的な男女関係性を尊ぶダフネにとって、トリシャの性的価値観はアドヴァンスト過ぎる。
性的価値観をひっくり返されそうで、ホントに怖い。
「ユーヒチは?」
話を変えるようにダフネが問えば、トリシャは即座にダフネのHMDに眼下の地図とユーヒチの位置を示すプリップを表示させた。
「目標拠点から10キロ圏内に到達しているわ。昼までには監視ポイント(OP)予定地に着くでしょう」
「襲撃は今日の深夜……いや未明?」
「セオリーなら夜明け直前ね。夜番や歩哨の集中力が一番落ちる時間帯だし、一番眠りが深いわ。でも、酒と薬が回って“ハメ”ている最中も襲撃時として悪くない」
眼下に神経接続ゴーグルを装着したトリシャが、端正な顔に悪意を湛えた。
ダフネは思う。
ウチの娘はお嬢みたいにならないよう注意しよう。




