奇妙な子
「僕、死ぬんだ」
人はいずれ死ぬ。
有名か無名か、裕福か否か、老若男女に関わらず。
等しく死ぬ。
だから自分が死ぬと人に宣言することは、単に一般的な事実を伝えているだけで受け手は特別にうろたえる必要はない、と思っている。
ただ、その言葉に相応というものはあると思う。
死期を悟った者は、それに相応しい時間の流れが感じられる見た目が伴うものだと、そう思うのだ。
私が聞かされた死の宣言は、その言葉が全く相応しくない人物
4歳の男の子からのものだった。
これは私が26歳の時に体験した奇妙な話だ。
別に何も実害はなかったし、怖い話というわけではない。
単に妙だというだけだ。
当時私は保育士として保育園で働いていた。同園で5年勤めていて、経験もそこそこあった。
日付は4月12日。
3・4歳児のクラスを受け持っていたので、いつものように午前中の外遊びをするべく、園児たちを園庭に誘導した。次々に園庭に飛び出してくる園児たちを、私は笑顔で眺めていた。園児たちに呼ばれ、私も遊びに混ざろうと駆け出した瞬間
「ねえ先生」
と後ろから声をかけられた。
振り返ると他の園児とおそろいの体操服を着た男の子が私を見上げていた。左肩に500円硬貨ほどの赤い汚れがあった。それとなぜか体操服は上だけ着ており、ズボンはカーキ色のハーフパンツだった。
ん、この子誰だ?
園庭で遊んでいる私のクラスの子供たちは全員園舎から出たことを確認している。背格好からしておおよそ4歳児だろうが、私は目の前で私を見上げているこの子を見たことがなかった。だが、日付は4月12日。転園も珍しい話ではないので、見たことがない子がいてもさほど怪しむ
事はなかった。なにしろうちの体操服を着ているのだから部外者である可能性は低い。
そして、男の子は例の言葉を言った。
「僕、死ぬんだ」
「え?もう、そんな事言わないで。先生悲しくなるよ。えっと・・・」
私は男の子の名前を確認しようと体操服に縫い付けてある名前を見ようとした。
「あのね、先生」
と私が少し視線を下げて男の子の胸元を見ようとするとその視線に合うように男の子も私の目を見てきた。
「ちゃんと説明したいんだけど、あんまり時間がない・・・と思うんだ。だから、手短に言うからね」
とやや早口に言った。
「あぁ、うん。じ・・・じゃあちょっとだけね。先生みんなのところに行かなきゃいけないから」
「僕は4歳3ヶ月と5日で死ぬ。今日は何日?」
「今日は12日、水曜日だけど・・・。どこか体の具合が悪いの?」
「そっか・・・じゃあ土曜日。次の土曜日に僕は死ぬ。体はなんともないよ」
「土曜日・・・15日ね。先生は君に生きていてほしいな」
「うん。僕も生きていたい。でも難しいんだよ」
「そんなに重い病気なの?」
そうは見えないほど健康体に見えるが。
「刺殺だよ」
「え?!」
「刺殺。刺されて死ぬんだ」
「ちょ・・・ちょっと。なんなの君。何かの真似してるの?そういうアニメかドラマか、そんなのが流行ってるの?」
4歳児が刺殺とサラッと口にするはずがない。ましてそれが自分の死因だと人に告げるはずはない。何かの冗談だと感じた。
「さっきも言ったけど、説明している時間はないんだよ。先生あのね。信じるか信じないかは後にして、ぼくの話を聞いて。もう一度言うね。僕は4歳3ヶ月と5日で死ぬ。死因は刺殺だよ。覚えた?」
「・・・うん・・・」
「未来はね。思い描いているほど選択肢はないんだ。今の積み重ねが未来になる。だからこの
瞬間に、もう未来は決まっていることがほとんどなんだよ。言ってる意味わかる?」
「えっと・・・つまり将来つきたい職業を思い描いていても、なかなか思ったようにはならない的な?」
私は保育士を志望する前は、実は舞台女優になりたかった。と言っても憧れていただけで、演劇に携わったことはなく観る専門だったが。
「んー、違うけどまあそういう認識でいいよ」
なんで26歳の私より4歳児の方が語彙力があるんだ?バカみたいなものの言い方しかできないのはなぜだ?
「将来起こる事象はある程度決まっているってこと。そしてそれはほぼ不可避。知りようがないからね。でも、ほぼ確定事項である事象を少し変える事はできるんだ。小さな行動の積み重ねが変化をもたらすんだ」
「うん・・・わかる・・・気がする」
「今からいうことを覚えておいてね」
男の子は私に耳を近づけるように、おいでおいでのジェスチャーをした。
「その日が来たら、家に帰らないで。
ぼくに体操服を着せないで
それから・・・・・・」
その後3つほど男の子は私に話した。
内容は覚えていない。
「わかった?」
と聞かれたので
「うん」
と反射的に答えた。
何に付き合わされているのかわからなかった。何かしらのメディアの影響なのだろうが、それにしてもこの子の言動の全てが4歳児とは思えないほどのクオリティだった。いずれにしてもあまり気分のいいやりとりではなかったので
「ほら、お話が終わったらみんなと一緒に・・・」
私は立ち上がって園庭の他の園児を見て男の子に園庭で遊ぶよう促した。また男の子の方に目線を戻すと
男の子の姿はなかった。
あれ、もう園庭にいったのかな?
あれだけ大人を付き合わせて、引き際はそっけないものなんだなとあの時は思った。
それから、あの子を見ていない。
次の日、私は体調を崩し仕事を休んだ。あの子が転園してきたのなら保護者に挨拶しなければいけないと思っていたが、あろうことか次の日も私の体調は戻らなかった。それもそのはず
私は妊娠していた。
妊娠がわかるのは少し先の話だが、とにかく男の子の言っていた土曜日、15日になっても私の体調は戻らなかった。
体が重く、起き上がれずにいた寝床で私はスマホを操作し、男の子が刺殺されたであろう事件を調べてみた。
が。その日に起きた事件で男の子が亡くなった内容のものはなかった。
唯一、街を通る高速道路で衝突事故があり、29歳の女性が亡くなったという記事を見つけた。
29歳なら4歳の男の子が家族にいてもおかしくないし、同乗していた可能性もある。しかし、結局その女性に同乗者はいなかったことがわかった。
4歳児らしからぬ言動、未来を語るあの口調に、もしかして何かSFめいたことが私に降りかかるのではと少しワクワクした気持ちもあった。不謹慎だが。そう、なにもなくて良かったのだ。あの男の子のよくできた演技と虚言にまんまと騙されたのだ。
これが。
私が26歳の時に体験した奇妙な話だ。
もちろん、あの後も男の子には会っていない。あの日、私は私のクラスの園児全員が園庭に出たことを確認していたし、園舎に戻るタイミングでも全員を確認した。
一人多かったことはなかったのだ。念のためあの日に転園してきた子がいなかったか園長にも確認したが、転園はなかったと確認している。
あの子は一体誰で、どこに行ったのか。
気になり出したのは今から2日前だ。
今、私は31歳。
例の妊娠で授かった子を無事出産し、仕事は辞めた。
付き合っていた彼と入籍し、彼の仕事の都合で隣県に引っ越し、家族3人幸せに暮らしていた。一つ不満があるとすれば、彼の仕事が忙しすぎた。
家に帰るのはいつも22時を過ぎていたし、加えて週末もほとんど家にはいなかった。
でも彼の稼ぎで私は専業主婦をしていたし、安いアパートで暮らしていたが家族3人、特に不自由なく暮らすことができていた。育児はキツかったが彼には感謝しかなかった。
あの日までは。
息子の耕太郎が3歳になる頃、夜ご飯にほとんど手を付けず大好きなテレビを見ていてもなんのリアクションもしないことに気づいた。耕太郎の体を触るとひどく熱かった。
体温計を耕太郎の脇に挟んで急いで夜間救急病院に連絡した。すぐに連れてくるようにとのことだったので、耕太郎と二人、私の軽自動車で救急病院に向かった。
「耕ちゃん、大丈夫だからね。病院ついたからね」
ぐったりとしている耕太郎を抱えて病院の待合室に飛び込んだ。
そこにはなぜか旦那がいた。
知らない女と一緒に。
「え?」
「お・・・お前・・・なんで?」
「なんでって・・・耕太郎が熱で・・・LINE見てないの?
・・・ていうかそれ誰?」
女は私が病院に到着すると既に泣いていて、旦那は女の方に手を回して慰めているような格好だった。
「あ・・・ああ、えっと・・・妹だよ。体調が悪くなったから連れてきたんだ」
「へえ。初めまして。家内です」
よそよそしい挨拶をした。
当然、挨拶は返ってこなかった。
どう見ても。
不倫していたんだろう。
この後に及んで妹の存在を爆誕させた旦那にもはや呆れるしかなかった。彼は3兄弟の末っ子だった。
女の妊娠が分かり、認知するしないで揉めているうちに、女が体調を崩したという顛末だったように思う。その辺の記憶は曖昧だ。あまりの怒りに。
泣きたいのはこっちだった。
耕太郎を挟んで、待合室では嫌な空気が流れていった。
耕太郎の解熱剤をもらって、耕太郎を抱えて車に向かって歩いていると
「おい」
旦那が私に話しかけてきた。
すまないとか話そうみたいな言葉が聞こえてきたが
「さよなら」
とだけ言って車に乗った。
次の日、全ての荷物をまとめて耕太郎と家を出た。
それから何度か連絡があったが、もちろん応答は一切しなかった。留守番電話にもメッセージが残っていたが、一度も聞かずにすぐに消去した。LINEはポップアップ通知に設定していたこともあり嫌でも目についてしまい、耕太郎と君に会えないと死ぬとかなんとか書いてあった。
じゃあ死ねよ
そう思った。
こちらから離婚届を送り、2ヶ月後に提出をした旨の連絡があった。
地元に戻ってきてからしばらく私の実家に住まわせてもらい、身の回りのことをあれこれ整理した。
2ヶ月前、ようやく耕太郎と二人でアパートに引っ越すことになった。実家の仕送りを頼りにしているので、古いアパートを借りるのが精一杯だった。私も就職活動をするため、耕太郎は以前私が勤めていた保育園に通わせることにした。
そんな頃、元旦那が再婚したとの噂が聞こえてきた。
相手は、どうやらあの病院にいた「妹」ではないようだった。
つくづく。
クズなやつだった。
就職活動も思いのほかうまくいかず、何気なくアパートで過ごしているとスマホに着信があった。母からのLINEで、食料をいくつか送ったというような内容であった。するとポップアップ通知で速報が入ってきた。
高速道路で園児が乗ったバスが横転したというものだった。
この辺りのことではなく遠い都市部での事故だった。
それをきっかけに、私はあの奇妙な体験を思い出したのだ。
本当に。
あの子は一体どこに行ったのだろう。
今でもあの子が耳元で囁いた感覚を思い出せる。
この2日間、かなり熱心にあの日の事件を調べている。
もう5年も前の話だが、ネットで調べられる範囲は大方調べた。今日は図書館に行き、過去の新聞を出してもらって調べても見た。
やはり、あの子の消息を伝えるような記事はなく、類似するような事件も起こっていない。
ふと時計を見ると、もう16時をすぎていた。
保育園に耕太郎を迎えに行く時間だ。
私は足早に図書館を出た。
保育園ではお迎えを待つ園児たちが園庭で遊んでいた。耕太郎もその中にいて、私の姿が見えると
「お母さんだ」
といって駆け寄ってきた。
保育園を出る時に園長に呼び止められ
「色々大変だったみたいね。もし良かったら、またうちで働かない?」
と、思ってもみないお誘いを受けた。
「よ・・・喜んで!あの、お願いします」
私は深々と園長にお辞儀をした。
帰り道、車の中で耕太郎が
「お母さん、保育園で働くの?」
とルームミラー越しに聞いてきた。
「うん、そうなったらいいね。ずっと耕ちゃんと一緒にいられるね」
笑顔で耕太郎に返した。
耕太郎も嬉しいようでチャイルドシートの中でわーいと分かりやすく喜んでいた。
我が家のアパートは2階建てで、わずか4軒しか入居できない小さい建物だった。4軒中入居しているのは2階のうちと、うちの下の住人のみで、2軒は空き家だった。1階の住人は居ることが少ないようで、顔を見たことはなかった。
アパートに着くと耕太郎が階段を駆け上がる。
「そんなに急ぐと転んじゃうよ」
私はいつものように、やんちゃな耕太郎の行動を注意した。
部屋に入ると耕太郎が脱ぎ捨てた靴が室内にまで飛んでいた。
「もう、耕ちゃん。靴はちゃんと玄関で脱いでよ」
耕太郎の靴を玄関に戻すと、部屋の奥からごめんごめんと調子のいい声が聞こえてきた。
全く、と言いながらため息をついたが、私は耕太郎とのこの時間が大好きだ。
耕太郎の保育園バッグから今日使ったハンカチタオルや着替えた衣服を取り出した。
今日は体育の時間があり、その時に着用した体操服も一緒に入っていたので、まとめて洗濯物を入れるカゴに投げ込んだ。
体操服。
そう、あの日のあの子もこの体操服を着ていた。
だからかなりの確率でこの辺に住んでいたに違いない。
一体どこに行ったのだ。
全く奇妙な子だ。
・・・
妙?
妙なことが頭をよぎった。
耕太郎は1月10日生まれだ。
今日は4月15日。
耕太郎は今日で
4歳3ヶ月と5日になる。
背格好もあの子と大体同じ。
いや、いやいや。まさか。
あの子は5年前に既に4歳だったのだ。計算が合わない。
妙なことは深く考えずに妙なままにしておいた方が良い。
あの時、体操服の名前を無理にでも見ておくんだったと今更ながら後悔した。
だが、なにか引っ掛かる。
そうだ、あの子の体操服には汚れがあった。
万が一息子の耕太郎と5年前のあの子が同一人物だとしたら・・・
恐る恐る洗濯物入れのカゴから耕太郎の体操服を取り出して広げた。
体操服には左肩に500円硬貨ほどの赤い汚れがついていた。
「ここ・・・耕太郎、あんたこれ。どうしたの?」
声が震える。
え?と言いながら耕太郎が奥の部屋から現れた。
「ああ、今日お昼オムライスでさ。ケチャップ。こぼしちゃった」
大好きなヒーローの人形を小脇に抱えて耕太郎が答えた。
あの日のあの子は
もしや
耕太郎ではないか?
鼓動が早くなる。体操服を持つ手も震えてしまう。
これは。
これはすごい事を経験しているのではないか?
私は過去に自分の息子と会っている。
霊感など無い。学生の時は何も見えないし何も感じないので素直にそう友達に話したら、どことなく浮いた存在になってしまったことがあるほどに。
今まで皆無だったが、今、霊的な体験が最上級の形で私の目の前で起ころうとしていることがなんだか嬉しく胸が高鳴った。
だが。
まだ息子があの時の園児であると決まったわけではない。
そもそも現実にそんなことあり得ない。
でも確かめてみたい。
「ねえ、耕太郎。ちょっと体操服来てみて」
あの時のあの子と同じ格好にしてみれば、絶対何か思い出すに違いない。
「え?嫌だよ。汗かいたし、めんどくさいよ」
「お願い、ちょっとだけでいいから」
仕方ないなと耕太郎が渋々私から体操服を取り上げて着た。
ああ、間違いない。この子だ。
だからあの時、あの子は上だけが体操服だったのか。耕太郎が今履いているズボンはカーキ色のハーフパンツだ。
やっと会えた。
そう思った矢先にスマホに着信があった。母からの電話で、私は電話に応答し開口一番に目の前で起こった奇跡のような体験を話そうとした。
「あんた!その辺は大丈夫なの?」
母が私より先に話し出してしまった。
「え?大丈夫って?」
「ニュース見てないの?ちょっと前にあんたの家の近くのコンビニに強盗が押し入って、まだ逃走中らしいのよ。刃物を持ってるって」
「え、そうなの?ニュース見てないや。でももう家の中にいるし、とりあえず大丈夫だよ」
「なら良かった。不用意に外に出ちゃダメよ」
「うん、分かった。気をつけるね」
そう言って電話を切った。
私に起こった奇跡を話したかったのに。
私は以前自分の息子に会って話をしているなんて。こんな奇跡・・・
・・・話を・・・した・・・
そう、話をした。
なんのために?
なんて言われた?
私はあの日、耕太郎になんて言われた?
奇跡だとはしゃいでいる場合じゃない。
あの子は私に
自分の余命を伝えたのだ。
この子が存在している以上、あの時の話も本当なのだろう。
なんて言われた?
思い出せ。思い出せ。
確か・・・
強盗は刃物を持って逃走中・・・?
母との電話を思い出した。
ちょっと待て。
あの日耕太郎は私に、刺殺されると伝えた。
刺殺。強盗。刃物・・・刺殺。強盗・・・
そうか。
あの日耕太郎が言っていたのは今日の事だったのではないか。
つまり耕太郎は今日これから強盗に刺されて死ぬということか。
・・・
え?
どこで?
未来はね。思い描いているほど選択肢はないんだ。今の積み重ねが未来になる。だからこの瞬間に、もう未来は決まっていることがほとんどなんだよ
そうだ、あの日耕太郎が言っていた。未来は変えられるんだと。そのために覚えておかなければいけない事があった。
えっと、えっと。
・・・えっと・・・
待て。
帰ってきた時、私玄関の鍵開けたっけ?
いや、耕太郎が先に階段を登って・・・私が登った時には・・・
耕太郎はもう家の中に居た。
鍵は・・・
玄関の扉を確認すると、閉まらずに半開きになっている。
鍵が壊されている。
鍵が掛かるようになっている部分が土台の木枠ごと外れている。
ボロアパートめ。無理に引けば壊れるくらいの強度だったのか。
その日が来たら、家に帰らないで
耕太郎の言葉。
なるほど。あの日の言葉の意味が分かってきた。
整理すると、多分
強盗はこの部屋に潜んでいる。
だから今日は家に帰っちゃいけなかったのか。
いや、今思いっきり家にいるんですけど。
どうすればいいんだ。
どうすれば。
次に言われたことはなんだった。
ぼくに体操服を着せないで
そうだ。体操服を着せてはいけない。
やってしまった。
着せている・・・
もう2つも言いつけを守れていない。
えっと
次は・・・次は・・・
うう、思い出せない。
おそらくあの日耕太郎が伝えた自分の余命は、状況から見て私の余命もイコールなんだと思う。つまり、あの日の耕太郎の言いつけを守らなければ2人とも命はないということだ。
これまでの2つが時系列で並んでいるということは・・・
思い出せ。あと3つくらい言われた気がする・・・
電話・・・
あ、思い出した。
電話に出ないで
そう言われた。
いや、これも。
さっきの母からの着信に応答してしまった。
何をしているんだ私は。これでは飛んで火に入る夏の虫状態ではないか。
思い出せ。次はなんと言われた。
次は
「お母さん」
次はなんと言われたんだ。
「ねえお母さん。押入れに入れてあるおもちゃ出して遊んでいい?」
押入れを開けさせないで
思い出した。
「耕ちゃん!」
少し大きな声を出してしまった。
確信に迫りつつある。
おそらくあの押入れの中には強盗が潜んでいるのだろう。開ければ命はない。
「耕ちゃんあのね。あの・・・さっきの電話ね。ばあばからだったんだけど。えっと・・・耕ちゃんにね・・・お、おもちゃ!おもちゃ買ったんだって!だから今から取りに来なさいって言ってた」
「え?!レッツゴージャーの?」
「うん、それ!レッツゴージャーの!」
「レッツゴッド?合体デラックスレッツゴッド?!」
「うん!それ!」
「行く!」
とにかく急いで外に出なければ。
スマホと財布と車の鍵をポケットに突っ込み、耕太郎が玄関に来ると抱きかかえて外に走りでた。
「ああ、まだお靴履いてないよ」
耕太郎が靴を履きたがったが、戻っている余裕はない。
アパートに駐車スペースはないので、アパートから少し離れたところに車を停めてある。
急いで車に乗り込み鍵を閉めた。
「耕ちゃん、怪我はない?」
助手席に乗せた耕太郎に聞いた。
「うん大丈夫。レッツゴージャーの人形落とした」
「買ってあげる!これから、幾つでも」
それから私は警察と母に連絡した。
母が警察より早く家に到着し、母に耕太郎を預けて私は警察の捜索を見守った。
やはり、強盗は我が家の押し入れに身を隠していた。
寝入っていたようで、警察が押し入れを開けた時にようやく目を覚ましたと聞いた。
肝の据わった強盗だ。
あの日の耕太郎は見事に自分と私の命を救った。
耕太郎は、4歳3ヶ月と6日を迎えることができた。
改めて、この子が生きている1日は奇跡のような1日なのだと実感した。
あれから3ヶ月が経ち、季節は本格的な夏になった。
耕太郎の通っている保育園で私も働いている。
今は自由時間。園舎内で絵を描いて過ごしている子もいれば、耕太郎のように暑いのに外で走り回っている子もいる。
園庭を見守っている私に耕太郎が手を振った。
私も笑顔で耕太郎に手を振りかえす。
「ねえ先生」
ん?
「先生ってば」
振り返るとそこには、知らない女児の姿あった。
体操服を着ている。胸の辺りが真っ黒に汚れていて名前は確認できない。
なんだこの既視感は。
この妙な感じは。
その汚れは泥か。それとも・・・血液なのか・・・
いずれにしても。
奇妙な子だ。
そして女児は妙な事を私に言った。
「私、死ぬの」
完