We are not human
最後の警告。
作者からしても趣味の悪いものでありますので精神が不安定なお方はご注意したほうが良いかと思います。
それでもお読みになるお方はどうぞお楽しみください。
哀れで、愚かな男の物語でございます
「お……俺はやってない……! ち、ちが、違う! こ、これは……そ、そうだこれはなにかの間違いだ、間違いなんだ。夢だ……夢だ夢だ夢だ……これは悪い夢なんだぁっ」
男は目の前の状況を受け入れずに、頭を振って何かを振り払おうとする。
小さな声で何かを否定する言葉ばかりを呟いている。
そして、なぞなぞが解けたかのように頭をいきなり上げると彼はそれに向かって言った。
「ど、どっきりなんだろ……? 悪趣味が過ぎるぞ!?」
彼は半笑いで、現実を見ようともせずにそれを揺さぶっている。
けれどそれは何も話すことはなく、糸の切れた人形のように彼の腕によって動かされるのみである。
そして首の座っていない赤ん坊のように彼を見た。
「ュッ……! み、見るなっそんな目で、俺を……!」
彼はそれを突き飛ばした。そして尻餅をつき、恐ろしいものを見るかのようにおなごのような悲鳴を上げた。
すっかり腰の抜けた体を必死に動かして這いずるようにしてその部屋から出て行く。
そうして逃げるように彼はその建物から出ていった。
「俺は違う、俺は違う、俺は違う。俺はッ違うッ! 俺じゃないって言ってるだろ!? 俺はっ違うんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
彼は走りながらそう叫んだ。
前すらも見ずに脳内の何かをかき消すように叫んでいる。
勿論前を見ずに走っているため彼はフェンスにぶつかってしまう。
ガシャンと大きな音を立てて倒れ込んだ。
「ハァ……ハァ……ハァ。俺は、俺は悪くない。そうだ、そうだろ? そうさ、あいつが悪いんだ……あの女がっ」
捲し立てるようにそう言った。脳内の何かをかき消すように、自分を言い聞かせるように。
呼吸も整えずにそう言うので彼は激しく咳き込む。
手をついて咳き込み、唾と涙と鼻水を激しく道へと落とす。
「何で俺がこんな目に」
雨粒が一粒、二粒と落ちてきて月のない夜に雨が降ることを知らせている。
湿気た空気がひとけのないネオンライトの街を一層美しく昇華した。
「バレた。絶対バレた。俺の人生は……終わったんだ」
自室の部屋の隅で膝を抱え、カーテンを完全に閉じた灯りの一つもついていない部屋で彼は泣いていた。
その嘆きは自分の人生が終わってしまったという酷く自己的なもので他者を慮る要素は一つもなかった。
彼の携帯の着信音がその湿気臭い部屋を引き裂いた。
それを聞いて、そして見て、彼は恐ろしいものを見たかのように携帯から逃げた。
荒れた息を必死に穏やかにしようと胸に手を当てながら、冷や汗を異常にかき、心臓が耳元にあるかのようにすら聞こえている彼はゆっくりと、ゆっくりと携帯を見た。
けれどそれは彼の通う大学の友人からだった。
「な、何だよ。……ふざけやがって。今更大学なんざ行ってどうしろってんだよっ!」
携帯を彼は壁に叩きつけた。
いつも病的なまでに見ていたそれを何の手加減もなく叩きつけ、現代では一種の常識とすらなっているソレは画面に大きなひび割れを作った。
彼はほんの少しだけ後悔が湧き立ったが深い絶望がすぐそれを塗りつぶしてしまった。
「……?」
彼は全く疑問だった。
何故自分が未だ自室でうずくまっていられるのか。
何故自分は警察官に連れて行かれて居ないのか。
何故自分は人殺しとして後ろ指さされていないのか。
男は少しずつやつれ始めていた体を動かしてリモコンを手にした。
暗い部屋を照らし始めたテレビにあるニュースが映し出された。
それはある女性が自室で撲殺されていたという報道だった。
「や、やっぱりバレた……!」
この女性をやったのは、このやつれて無精髭を生やした醜い愚かな男だ。
彼は衝動的に女性を殺害し、そのままこの部屋まで逃げてきた。
そしてこの男は自室にいる。
毛布に包まり、真夏であるのにも関わらずガタガタと震え、汗と冷や汗のブレンドをバケツで掛けられたかのように垂らしながら自室にいる。
口を開けば逃避と否定の言葉のみ。
精神病棟の患者のような男は恐る恐るニュースの続きを見た。
けれど不思議な事に彼の顔はおろか、名前すらも出てこない。
挙句の果てにはチャンネルを変えてみると専門家等と呼ばれている者たちが頓珍漢な事を言い始めている。
「バ……バレて、ない?」
彼の言う通り警察は未だ犯人である彼という男を特定出来てはいない。
まったく証拠隠滅や、アリバイ工作のしていない推理小説ならばストーリーの前に出てくる前座ですらも力不足になるあまりにも愚かな事件。
だが彼の持つ天運とも言える運がそんなお粗末な殺人事件を難解な事件へと昇華したのだ。
「…………良かった」
彼は厚顔無恥にもそう言った。情緒たっぷりに彼はそう言った。
彼と言う男は全くそう言う男なのだった。
何も苦労はなく、何の挫折もないそんな人生。ゆえに精神を育たせる事なく体を大きくしてきた男。
彼は己以外の人間を見下し、共感せず、自己愛のみを抱きしめる。
罪悪感というものなど遠い昔において来ていた。
「酒……いや、酒なんぞ飲んで捕まったらどうする」
ストレスから酒という逃避先を求めたようとしたが、それを彼の理性は止めた。
しかも彼の家の冷蔵庫には今は彼が酔って入れたほんの少ししか残っていない酒瓶しか入っていない。
「……シャワー、浴びよう」
ひとまず直近では捕まりそうにないという安心を手にした彼はようやく頭が回り始め、己の体がどれだけビショビショなのかという事を認識した。
ようやく逮捕という恐怖を振り払えた彼は不快感に襲われたのだ。
乱雑に入れられた乾いたバスタオルを掴み、服を脱ぎ散らかして風呂の扉を開ける。
ろくに動かしてなかった体が軋み、血流が良くなった事により彼を軽い目眩が襲った。
「……気持ちいぃ。あぁ……? げぇっ隈できてんじゃん。最悪」
頭からお湯をかぶり温もりという快い感覚を享受している。
彼がふと鏡をみると彼の顔はとても見られたものではなくやつれ、隈が色濃く刻まれ少なからず容姿に自信を持っていた彼からすると、この姿はあまりにショックなものであった。
「はぁ……これから……どうすっかな」
熱により良くなった血流にが不眠の頭を標準の状態まで引き上げている。
この顔では大学にも行けない、もしかしたら捕まるかもしれない、という状況を鑑みて彼は背中にお湯をかけながら考える。
「……家、出るか」
彼の自室は殺した女性の家からは少しばかり遠いところにある。
けれど彼と彼女の通っている大学からは近い。
故に事情聴取の手が伸びるのも時間の問題だろう。
彼は嘘が得意である。だが警察相手に、しかもこんな様で隠し通せると思うほど彼は傲慢ではなかった。
彼は正真正銘のクズであったが、クズであるからこその能力の把握は著しいものがあった。
「ま、とりあえず一回寝てからだな。こんな顔じゃ、逃げてもバレバレだ」
ささっと体を洗って風呂から出て体を拭くとタオルを洗濯機に叩き込みベッドにダイブした。
全裸ではあるが、彼には問題なかった。
「……んぅ」
彼は自然ではない何かの音によって起こされた。
目を擦りながら何が自分を起こしたのかと探していると玄関のチャイムの音が聞こえた。
彼はサァッと血が引いていくのが嫌でもわかった。
心臓は高鳴り、ゲロどころか胃が破裂してそのままその破片を口から血とともに垂れ流すのかと思うほどの胃痛。
スマホに手を伸ばす。
すると彼は己の手が激しく震えていることに気付いた。
片方の手で強く握り彼は手の震えを抑えようとする。
スマホのカメラを起動して内カメラで自分の顔を見た。
寝たのが効いたのか、昨日に比べるといつもの顔が写っていることを確認できた。
「……大丈夫、大丈夫だ。いつもの男前だ……」
彼はフラフラと寝起きのおぼつかない足取りで玄関へと近づいていく。
恐怖で泣きそうになっているが、思い切り歯を噛み締めて涙をひっこめた。
ようやく彼は玄関へ辿り着くと一呼吸大きく深呼吸をして扉を開けた。
玄関前には男の警察官が立っていた。
彼は悲鳴を上げそうになったが太ももを思いきりつねることによってそれを臆面にも出さずかみ殺した。
「ふわぁあ。……ん? 刑事サンじゃないっすか。なんかあったんすか」
「先日君の通っている大学の女生徒が事件に遭いまして」
「はあ、ドラマみたいにアリバイでも聞くんすか?」
「まぁ……一昨日の夜中、三時ごろ何をやっていたか証明できますか」
「いやぁ、飲み会でもやってれば良かったんすけどね。一昨日かぁ……どうにかその前の日とかになりません? その日ならみんなと飲み会してたんすけど」
「ならないですねぇ。この日は家に?」
「友達に勧められた映画見てました。アマプラで良いの教えてもらったんすよ! 警察さん入ってます?」
「あぁ、入ってるよ。子供がよくアニメとか見てるなぁ。……うーん、アリバイ聞き込んでるんだけど夜中だし、中々……ね」
「自分で言うことじゃないかもしれませんけど俺みたいな不良大学生でも証明出来ないくらいですしね。分かります」
「はは、でも事件だから頑張らないと……ね。ん、話し込んじゃったな。じゃ……あぁそういえば、映画何見たの?」
「あのー詐欺師の奴……えー、最後にjpがつく奴です」
「あぁ、あの。あれ面白いんだ。ありがとう今度見てみるよ」
「はいっ! お疲れ様でーす!」
彼は笑顔で手を振る。
警察官も笑顔で会釈をして帰っていった。
ゆっくりにこやかにドアを閉めると、彼はそのまま倒れ込んだ。
音を出さないようにゆっくりとした動きではあったが。
服が汚れるのにも気にせずに彼は脱力した。
「つかれた」
綱渡りというほどギリギリの問答ではなかったがほんの一つのミスで崩れるかもしれないと予感した橋を緊張せずに渡れるほど人間は丈夫ではないのだ。
しかも落ちた先が自らの社会的な死となれば一層。
それを笑って渡れるものを英雄と言うのだろうが、彼は凡人であり愚か者だ。
彼はたった数分の問答で疲弊しっ切った。
彼は口八丁だけは上手かった。
故に関係を良く保つのは得意中の得意である。
ペラペラと喋るその口はいつだって彼の人生を助けてきた。そしてこれからも。
「腹、減ったな」
ゆっくりと動いて這いずり彼はベッドまで行くとスマホを手に取った。
「は……でっけぇひび」
愛用する配達アプリを開いてスクロールする。
「……そうだな。最後くらいは」
彼は家で一人で食べるよりも仲間内と店で騒ぎながら食べる方を好む人間であり、家に配達されるこのアプリでは出来るだけ節約していた。
高いものは出来るだけ避け、飲み代を確保する。それこそが彼の日常だった。
けれど彼はもはや大学に行く気も、この家に住み続ける気もない。そして友人を頼る気もなかった。
故に彼は最後に豪勢に食べることにした。
実際出ていくのだから贅沢は普通出来ないのだが、彼の実家は裕福であり彼の財布に入っている額も大きいので彼は楽観視していた。
「さて、注文もした事だし、準備……する、か。確か大きいリュックがあった筈……」
玄関のチャイムが鳴る。
彼の心臓が高鳴るが、スマホを見るとアプリが訪問者の目的が配達である事を示していた。
安堵の息を吐き、空腹からか小走りになりながらも彼は受け取りへ急いだ。
「うんまそー」
無事に食事を済ませ、食後の歯磨きも済ませた彼はソファに腰を掛けていた。
机には自転車の鍵、そして荷物の詰め込まれたリュックが置かれている。
その代わりに彼の部屋は泥棒が入ったかのように荒らされているのだが、彼からするともう出ていくのだから関係ない事らしい。
「よし、出発だ」
彼はリュックを背負った。
色々なものを詰め込んだせいでずっしりと重いそれに少しばかり引っ張られて彼は姿勢を崩した。
けれども日頃の筋トレのおかげか彼はその後は引っ張られる事もなく真っすぐと立ち、持った。
女ウケの為につけた筋肉ではあったが筋肉は彼を助けた。
「……」
彼は家から出て扉を閉める途中、荒れ果てた自分の部屋を見て動きが止まった。
彼の人生は自分が楽しい、楽な方向へと流されていく流木のような人生であったが、彼はそれを悪いとは思っていなかった。
結局楽しいものは楽しいし、その人生で知り合った人間との日々は良いものだったと彼は信じていた。
「……クソみてぇに生きてきたが、悪くない奴らだったな」
そして彼は扉を閉めた。
彼は大学、家族、友人その全てに今、別れを告げたのだ。
捕まらない為に、己の身を守る為に。今日のような明日を投げ捨てた。
それはきっといつかの日に彼がクズへと身を落とした所以なのだ。
「……随分と遠くまで来たな。山ばっかじゃねえか。……ここらで休むと虫が凄そうだ。もうちょい進むか。……いい加減に休みたいんだが、な」
街を出て自転車を走らせると彼は山が多く、高速道路が近くにある田舎というものに入ろうとしていた。
といっても田舎というよりは山間という方が正しいのかもしれないほど家すらない辺鄙な場所だ。
彼は女ウケのために付けたその筋肉を存分に使ってひたすらに自転車を漕いでいた。
たまに体に虫が当たり悲鳴を上げながらもこいでいた。
ただひたすらに自転車をこぐ彼は一種の瞑想のように己と向き合っていた。
ただ考えていた。
もしも己の失踪が発覚したらどうなるのだろうかと。
殺人事件の直近の直近に失踪だ。
当然疑いの目は強くなることだろう。
けれど彼はそれが確信に至らない自信もあった。
彼と彼が殺した彼女、その間に表向きに特別親しい交流なんてものは無かった。
彼女はそれなりに有名な家の品のあるお嬢様、彼は家は大きいものの飲み歩いてばかりいる不良学生、彼女にとって彼との親交という情報は害にしかならなかった。
よって彼女と彼は隠すことを決めた。
勿論彼女の両親、彼女の友人、全て知らない。彼の周辺も。
二人だけの秘密、それが二人の関係であった。
そして彼は幸いにも犯罪歴はないため警察に指紋は登録されていない。
さらに彼の部屋にはたくさんの友人が招かれた為に指紋も上手く取ることが出来ない。
確かに彼の友人全てから指紋を取り、照合し、彼だけを探し出すことだって可能である。
けれど彼は人気者であった。彼の家に来る友人なんて両足の指足しても足りない数になる。
指紋が取り出せて確信になる頃には彼は何処か遠くに行けると信じていた。
「ん、自動販売機……水でも買うか」
見かけた自動販売機の横で自転車を止め、水のボタンを押した。
「……当たらない、か。当たったら節約になるのに」
自動販売機のクジが外れ百円ちょいの節約の期待は敗れ去った。
そしてそのまま彼は水を疲れた体に流し込んだ。
急に入れられた水、しかも冷たい水に体は拒否反応を示す。
彼は思わず咳き込んだ。
「……ふぅ、喉が渇いたとはいえ急に飲み過ぎたな」
口を手で拭い、疲れた体をほぐすようにストレッチを始めた。
彼は運動が嫌いではない。交友関係を作る上で一番楽な方法だと彼は思っている。
彼の持論であり、経験則であるため結果として彼は人気者になった故に否定は難しい。
だけれども彼は自分が一番大事であるので体を壊したくない、故に怪我をしないためにもストレッチ等は詳しくなったのだ。
「マップマップ……お、良いじゃん次の街で今日は泊まるとしよう」
「お、ラッキー。お弁当が半額になってる。夕方過ぎまで自転車漕いだ甲斐があったってもんだな」
今彼はスーパーで夜ご飯を物色している。
財布には潤沢にお金が詰め込まれているが、節約できる物をしておいて損はない。
彼は嬉々として半額弁当を手に取った。
「んー……明日の体力つける為にも二個いっとくか……?」
弁当をカゴに一つ入れて、他の弁当を手に取って考えている。
数分唸った後結局彼はその弁当をカゴに入れた。
それから水が安くなっていたため多めに購入したり、家に無かった必需品を購入したりして彼はスーパーを出た。
水を自転車のカゴに突っ込み、小物類をリュックの隙間へと捩じ込む。そして彼は弁当を片手に食べる場所を探し始めた。
数分ほど歩くと公園があり、そこには遊具がある空間と何も設置されていない野球ができそうなほど広い空間がある所であった。
彼はそこのベンチの横に自転車を停め、水を一本取り、ベンチに腰掛けた。
弁当を開けて、彼は食事を始めた。
「ん、美味い。コレであの値段なら得だわ。二個あるし」
もりもりと食べ進め、一つ完食しもう一つの弁当を手に取る。
そして蓋を開けて、彼は何となく上を見上げた。
「空なんぞゆっくりと眺めたことはなかったが……良いなぁ」
街の中である為ごく少ないものではあるものの空には星が輝いていた。
空に控えめに、それでいて地球の光にも負けないほど強く光る星々を見て彼は憧れにも似た感情を抱いた。
ほんの小さな光ではあったが、彼はそれがとてもまぶしく感じた。
「花より団子……どっちも楽しむのが一番良いわ」
彼の抱いた星への憧れはコンプレックスにも似たものではあるものの彼はそんな事は気に留めず美しさと心の中の思いと共に食事を楽しんだ。
そして弁当をもう一つ食べ終わり、見事二つ完食した彼はペットボトルの水を飲み干すと、ゆっくりとくつろぐように空を見上げた。
「は……コレで隣に友でもいりゃな」
友人等の縁と呼ばれるもの全てに別れを告げた彼は未だ一日目であるものの騒がしかった頃を思い出すように目を細めた。
その感傷は彼の心に生暖かい液体のようなものを注ぐ。
けれどそれは全くの無意味であるかのようにこぼれ落ち、彼に不思議な飢餓感を覚えさせた。
「……寝よ」
電力消費を抑えたい為スマホも使わず、空を見るばかり。そんな時間を過ごしていると甘い眠気が彼を包み込んだ。
もはや星に魅了されているとも言って良い彼はほんの少し自嘲気味に笑い目を閉じた。
コレが彼の逃走人生の一日目であった。
数日そんな日々を過ごしていると彼は山へと入った。
周りを見渡しても店が見えない程人気の少ない場所を進んでいた。
けれど無慈悲に時間は進んでいき日は暮れる。
ただでさえ木々によって遮られ薄暗かった森の中が徐々に暗闇へと姿を変えていった。
彼は山の中で野宿を覚悟しなければならないかと覚悟を決めていると、一つの異常に気づいた。
鳥の声や葉がすれる音、何かの小動物が草花を揺らす音。
森は静かでうるさい、けれど人の作り出した音はこの自然になじまない。
彼の鼓膜が確かに揺れた。
「……ん? なんか聞こえたか?」
坂を無駄な体力の消費を防ぐ為自転車を押して進んでいた時彼は異音に足を止めた。
熊でも出たのかと怯えながら周りを見渡すと彼はこれまた奇怪な物を見つけてしまった。
「助けてくれ~っ」
「あ?」
目は血走り、顔は引き攣り引っ張られたかのように張っている。
恐怖と生存欲のみを人間の皮に詰めたかのような姿の生物。
それは不格好ながらも必死に走っている男。
そんな男が森の暗闇の中から出て来た。
そんな男を見て彼は嫌な記憶を思い出した。
それは彼がこう放浪する理由であり忌まわしき事件。
彼が人を殺した時のことだ。
遺体の目がどうにも不気味で抉り出して捨ててしまいたいほど恐ろしかった。
そう錯乱しながら考えた記憶、それが雷のように彼の体を硬直させた。
人殺しが一番トラウマになるものは目、と言われている。
人は死ぬ瞬間、それを迎えるほんの一瞬前までは生きたいという生物として純粋で生であり正の欲求に満ち染まっている。
だがその死という一つの境界をくぐるとその欲求は生きたかったという悲しく負の欲求に裏返り、目を地獄の大穴のようなものへと変える。
罪人はそれを見ると地獄の獄卒が己の足に鎖を付けたかのような感覚に襲われる。
そして世界から有罪判決を受けたように自らの特異性を痛感する。
命の糸に縋るようなその目は死んでいながらも悲しいほどに生に満ちていて、それでいてソレは死でしかない。それこそが死体という動かない物を動き出しそうな恐ろしいナニカへと変貌させるのだ。
故に気の弱い犯人であると死体が死んでいるということを信じることが出来ずに殺した後も攻撃を与える事があるらしい。
目は絵や像等では重要視される。
仏像は目を入れることで仏の力を宿すと言われてる。
目のない仏像は空っぽであり何かを宿しやすく危険であるとすら言われるほどだ。
目は無機物に生命を与える。目というのはそれだけ人間にとって重要なものなのだ。
「く、くるんじゃねぇッ」
「どけっどけよっ」
彼は腰が引けて体もうまく動かせていない。手を振り男を拒絶するのみ。
走って来た男はそのまま彼を突き飛ばして自分の退路を確保しようとしている。
けれど突き飛ばそうと伸ばされた手は彼の胸を撫でるだけでそのまま落ちた。
「……あ」
彼は水風船を思い切りコンクリートの地面に叩きつけたような音を認識した。
そして彼には分かった。
コレは人を殺す音だと、人体が致命的に破壊されるときに出る音なのだと。
まさにあの音なんだと彼は分かった。
彼の視界にはもはや倒れ伏す男の姿は見えていなかった。そして彼を包む森でさえも彼の眼には入っていなかった。
彼の目の前に何でもないかのように台所で料理を作る女が立っていた。
彼が視線を下ろすと、彼女がとった何かしらの表彰のトロフィーがあり、彼はそれを握っていた。
それはとがった先から血を流し、床を汚している。
「ッ……!」
喉を歪に鳴らし、彼の全身が固まる。
そして彼が前へと目を向けるとそこには頭から血を流し、こちらを見る女の姿があった。
倒れ伏しており、死んでいるとわかる。が、頭は彼のほうを向いている。
彼にはそれがどうしようもなく生きているようで更にこちらを睨んでいるようにさえ感じるのだ。
「大丈夫? なんか固まってるけど」
「……? お前は」
彼は女性の声で現実に引き戻された。
幻覚で見た女性の声とは似ても似つかぬ冷たい声。
脅かされたように彼が周囲を見ると横に佇む女がいた。
「こんばんは。殺人鬼だよ」
「……コレは、君が?」
「そ。でも君は殺さなくて良い気がするんだよね。だって、君私の同類じゃない?」
「……どうしてそう思った?」
「ソレだよ、ソレ。人殺しの目さ。今君私の事殺そうと思ったでしょ? 殺意が隠しきれてないぜ」
彼は彼女に見透かされていた。
殺人という罪を犯した彼であったが、一度染まった絹は戻らぬように彼の殺人という行為に対してのハードルは限りなく下がっている。
殺される位ならば、捕まるくらいならば、容易に彼は鍛え上げられたその肉体を振るい彼の眼下に屍の山が築かれるであろう。
実際彼女が殺人鬼と名乗った瞬間彼の目には濃い殺意が宿り掌に少なくない力が宿った。
「手が血に塗れた者同士、争う必要は無いんじゃないかな」
「……そうとは限らねぇだろ」
「あははっやっぱり君純情クンか。しかも私みたいな一般人を沢山無意味に殺した殺人鬼とは会った事ないな?」
「んだよ、ソレ」
「ピッタリじゃない? 私みたいな見境のない殺人鬼には。使用料は取らないよ?」
彼女はそう言うと子供のように笑った。
それを見て彼は毒気が抜かれたように、力を抜き彼もまた笑った。
死体が足元に転がっている中笑いあう二人はまさしく人でなしだった。
「力は抜けたみたいね」
「まぁ、な。んで、なんでコイツ選んだんだよ」
「んー? なんとなく……かな。殺すのに理由なんか無いよ」
彼は嘘だと直感的に思った。
何かしらの理由があるのだと、一瞬彼女の顔に影がさしたのを見て彼は思った。
そしてそれは事実だった。
「そんな事は置いといてさ! 処理手伝ってくれない?」
「埋めんの?」
「四肢と頭切り落としてバラバラに埋める。獣にでも食われたら御の字、見つかってもバラバラにしたら遅延が出来る」
「荷物は」
「袋に詰めて木の枝に括り付ける。ま、ここらへんは適当だよ。バレるときにはバレるんだから」
「達観してんな」
彼とは大違いであった。
彼は意地でも捕まりたくない。
だからこそこんなところまで逃げてきたのだ。
「そうかな? 人ぶっ殺してんだよ、私たち。私もいつかは何かに殺される。それが死刑であれ、私刑であれ、自然であれ私は受け入れる。殺人鬼としての私のポリシーさ」
「人でなしの最後のプライド、か」
「言うねぇ。そういう君は……生き汚そうだね」
彼女は彼の乗っていた自転車をチラリと見るとそう言い笑った。
逃げてきたのだと分かったのだ。水の入ったかご、そして大きな荷物がくくられているのを見るに一目瞭然だった。
実際彼女は逃げると言う事はせずに気ままに移動し、滞在し、そして移動する。旅のような殺人鬼生活だ。
捕まると分かっていても移動する気が起きないのならばその場所に腰を据えるのが彼女なのだ。
人殺し、殺人鬼という回数の違いはあるが、同じ人でなしであれど彼と彼女は全くと言って違う人種であった。
だが生き汚そう等と言われていい気持ちはしない。彼は抗議の意も込めて彼女をにらんだ。
「そう睨まないでよ。ほらほら、袋持って」
彼女は彼に黒い袋を持たせると、死体の後頭部に刺さっていた斧を勢いよく抜いて、手際よく四肢を切断し、最後に頭を切り離した。時間のたった遺体は鮮血を勢いよく出すことはなく地面に血を垂れ流した。
四肢を袋に放り込み、髪を掴んで頭を持ち彼に見せる彼女を見て彼は苦笑いをしながらも話しかけた。
「よくそんな目を見て正気でいられるな」
「……正気? はなからイカれてるだけさ。君も後三人ほど殺れば分かるさ、きっとね。私たちみたいなイカレからするとコレこそが救いなんだからさ」
「俺をお前みたいなイカレに入れるんじゃねぇ。俺はちゃんと怖がってるし、それ見て正気じゃいられねぇ」
「イカれてるさ。この目を見たやつはイカレるんだ。程度の違いはあれ、君も私も正真正銘のイカレだ。気狂い、キチガイ、イカレ、狂人、人殺し。人でなし、私達はまさしくソレなんだよ。誤魔化すんじゃないよ、小僧」
彼はその真っ直ぐとした彼女の目が嫌だった。
思わず彼は目を逸らす。
それが面白くて彼女は真剣な顔を崩し笑った。
そして彼女は首を袋に投げ入れた。
彼はそれが恐ろしく声すら出して驚いた。
一層彼女は笑った。
彼は彼女には勝てなかった。
「さ、行くよ。道具置いてる小屋があるんだ。ボロいけど」
「おい、引き摺ってるが良いのか。その……臭いとか、跡とか」
「あぁ、犬? 大丈夫こっちの方が良いんだよ。臭いが拡散するから。臭いを隠そうとするからダメなんだよ。満遍なく臭くしちゃえば犬は混乱する。木を隠すなら森に、だよ。まさしくここは森だけどさ。ま、結局犬使われたらどれだけ消臭しようとバレるんだし、これくらいでいいのさ」
斧を背中に突き刺し、そのまま彼女は死体を引き摺って歩いた。
彼はドン引きであったが、彼女の言う理論はある程度ではあるが理解出来たので、彼女から少しばかり離れながらも着いて行った。
片手に死体の入った袋、片手に自転車となると彼も手がプルプルするほどの重労働であった事は確かだった。
「君どうするの?」
死体を隠し終え、朝になり始めたころ彼女は彼へと問いを投げかけた。
それを聞いて彼は呆けた顔で返事をする。
前日の昼も自転車に乗っていた彼は眠たくて仕方がなかった。
「あん……?」
「これからだよ。いつか一緒にぶっ殺される日まで私にでも着いてくる?」
「……ふざけんな。んなもん御免だ。俺は捕まりたくない。死にたく……死にたくない。生きたいんだよ。お前と違ってな」
「ふぅん? 君はそうなのか」
「んだよ」
「いんや。どうやら君と私じゃ道が違うようだね。じゃあな少年、また逢えたらお互いの悪運を笑い合おうじゃないか」
「……おう」
朝日が差し込んで、彼が目は眩む。そして次に目を開けた時には彼女は消えていた。
殺人鬼らしい、素早い逃げ足だ。
彼はそう思い思わず笑ってしまう。
歪ではあるものの同類という仲間との交流に少しばかり楽しんでいたという事を彼は改めて自覚すると少しばかりの後悔と朝らしい気持ちを胸に抱えて自転車に乗った。
「腹、減った……」
資金は底をつき、風呂も入れず飯も食えていない。まさにホームレス。
彼はトボトボと歩いていた。夜は汗をかいて体温を下げないように歩くようにしていた。
時は冬、夜の冷えは尋常じゃなく、彼に死を予感させるほどだった。
「働かねぇと……このままじゃ捕まるより先に凍死しちまうな」
だが、飯も食えずに山を超えてきた彼はもはや限界を迎えようとしていた。
何回もキノコや山菜について勉強しておけば良かったと彼は思ったが、それは後の祭り。変なリスクを負いたくない一心で自転車を漕いできた彼はもはや体力も栄養も底を尽きたのだ。
「……公園…………少し、寝る」
極限状態、体が動かないまま彼は妙に回る頭でコレが自分の末路なのかと己を嘲笑った。
人を殺した彼は今野垂れ死のうとしていた。
そして彼は極寒の夜へと意識を手放した。
次に彼が覚醒すると、自分の体が揺らされている事が分かった。
彼が目を開くと強面の男性が冷や汗をかいて己を揺らしていた。
一瞬これが地獄なのかと血迷ったが空腹と寒さで正気に戻った。
「あぁ、良かった。大丈夫かね、君」
「……はい。ちょっと、ご飯を最近食べてなくて……」
「君の顔を見たらすぐ分かるとも。立てるかい? すぐそこに私の家がある。消化の良い物を作ってあげよう」
「そんな、良いんですか……?」
「実はね、私は医者なんだよ。なぁに、ちょっとした休日出勤ならよくある事さ」
「ありがとう……ございます……」
社会からこぼれ落ち、社会から逃げ続けた彼は久方ぶりに人間のやさしさに触れた。
彼は強面の医者に連れられるまま、医者の家に行き、そこで粥を食べていた。
何日も食べていなかった彼にとってはご馳走であり、多大なる恩であった。
長い間水しか口にしていなかった彼にとって温かい食事は純金よりも価値のあるものにすらなっていた。
「君、なんで行き倒れていたんだい?」
「……まぁ、放浪してまして。お金が無くてそれでもそのまま山を越えたらっていう感じですかね」
「根性あるねぇ君。そうだ、君まだ此処らへんに留まる気なら知り合いに力仕事をしてくれる若者が欲しいって言ってる人いるんだけど、どうだい?」
「突然あった不審者にそこまでして、良いんですか」
「あはは、突然会うのも縁じゃないか。大丈夫、私はこれでも見る目があるってよく言われるんだよ?」
顔の割に底抜けの善人、それが彼の評価だ。
医者は強面の顔を朗らかに笑わせて彼の背中を叩く。
彼はそのつき慣れた嘘の経験から彼は嘘をついていないと判断した。
そして医者を信じてもいいかなと少しだけ彼は思った。
「じゃあ……お願い、します?」
「はは、良いね。だが今日はもう遅い。今日くらいは泊まっていきなよ」
「お世話になります」
豪快に笑う医者、彼は実際何の悪意も持たない。
善意で彼に食事を提供し、寝床すら提供してあまつさえ職を与えようとしている。
彼はそれが信じ難く、そして何故か信頼しても良いんじゃないかという考えに至った。
それは極限状態から助けられたからこその考えなのか、それとも底抜けに明るい善人相手故の信頼なのか。
彼にもわからなかった。
お風呂に入り、頭を拭いて部屋へと戻ると医者はテレビを見ていた。
テレビはニュースを映し出しており、ある殺人事件を報道していた。
彼は心臓を高鳴らせ、ゆっくりと彼の後ろから覗く。
そのニュースは山からバラバラ死体が見つかったという物だった。
彼はほっと安堵するがコレもまた彼は関わっているため緊張は解けなかった。
そう中途半端に力を抜く彼に医者が気付いた。
「おや、湯加減はどうだった?」
「……あぁ、よかったです。久しぶりのお風呂だったんで気持ち良かったですし」
「それは良かった。……これ、何か思うことでもあるのかい」
医者であるからなのかそれとも彼という人間が聡いのか彼の少しの緊張を見抜かれているようだ。
彼は医者の評価を再設定した。
その緊張を医者は不思議に思ったようだ。
「……いえ、通った山だったので」
「それはそれは。言っちゃ悪いかも知れないけど被害者にならなくて良かったね」
「言っていいんですかそれ」
「良いさ。手の届かなかった者を悔やんだ所で、ね。それなら手の届く人間を救ったりその無事を喜びたいんだよ」
医者は自分の手を見つめ、そこから何か脳裏に見ているようだった。
彼はそれが理解できずに尋ねる。
それに医者は笑って返す。
「それは……医者としての経験からですか」
「そうだねぇ……医者としてよりは、私としての経験って言う方が正しい気がするよ。医者だけど救えない命もあった、もちろん救った命もあるけどね? 僕という人間だからこそ救えた命もあった。そして救えたはずの命も……ね。後悔するのはいつも手遅れになった後なんだよねぇ……。勿論、反省してるけどね」
そういう医者の目はどこか遠くを見ていて、彼は何も言うことが出来なかった。
両手を血に染めた彼が話すことのできるものではなかった。ゆえに彼は先ほどの医者のように両手を見るが、決してそれは反省することも後悔することもできるような代物ではなかった。
彼は人殺しだ。しかもいまだ逃げ続けている人殺しだ。
反省も、後悔も認めて初めて出来るものだ。
彼はいまだあの日の罪には向き合えてすらいなかった。
「……寝る前にする話でもないね。さて、もう寝ようか。明日には力仕事が待ってるよ」
「はい。おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
そうして彼は布団へ入り、医者は電気を消した。
彼は目を閉じる。
瞼の裏をジッと彼は見つめている。ただそれだけだ。
それから一時間、彼は未だ眠れずにいた。
目を閉じ、じっとして体を休めてはいるものの眠りに入る事はなく、意識ははっきりとしていた。
ただ体を動かさず何も考えずそれでいて眠らない。
彼が家を出て数ヶ月にはなるが、彼がぐっすりと安心して眠ることは数える程しかなかった。
仮眠、またはこの夜のように眠る事はなくただ体を休めるのみ。それが彼の夜だった。
「……水」
彼は布団から抜け出し、台所の蛇口を捻る。
そして流れ出る水を横から口にする。
二、三口ほど飲み終え、口を拭うと部屋へと戻る。
部屋へと戻ると医者が起きていて布団に腰かけていた。
彼は驚き、一瞬殺意が宿るが彼の意思によって霧散した。
「眠れないのかい?」
「……起きてましたか。……そうですね、放浪生活が長かったもので」
「慣れない、か。気持ちはわかるよ。僕も海外で仕事してた時に日本に帰ってくると全然眠れなかったよ。でも、できるだけ休むんだよ。これは医者としてのアドバイスだ」
「うっす」
彼らの会話はそれで終わった。
医者はまた横になり寝息を立て始め、彼は目を閉じた。
朝、彼が起きると目の前には警察官が立っていた。
彼は驚きの声を上げて飛び起きた。
「……は!?」
驚きと共に体を動かし、逃げようとするが手にはもう手錠がかけられていて逃げる事ができない。
奥には医者が立っていてこちらを見ている。
笑みを浮かべて彼を見ていた。
「てめぇ、裏切りやがったな……!」
「人殺しが、何を言っているのかね」
「……ちぃっ」
彼は何も言えなかった。
人殺しという業を背負っていることは彼も自覚しているのでコレが正当な扱いであると彼は当然のように思うのだ。
だからこそ彼は裏切り者である医者を非難する道理を持ち合わせてはいない。
ゆえに彼はただ悔しさと悲しみを胸に唸ることしかできなかった。
「……だがよ、お前……!」
「人殺しにかける情けなぞあると思うのかね?」
「……ッ」
微かに彼の視界が潤み、奥歯が軋む。
彼は心の中で医者の言葉を肯定してしまった。
自分が人殺しで犯罪者で人間としての落第者であることを認めてしまったのだ。
罪からの、現実からの逃避を止めてしまった。
彼の心が激しく揺らぐ。
「おい、行くぞ」
警察官に腕を掴まれる。
そして無理やり立たされ連れられる。
その刺激に反応して無意識のように反抗し心を叫ぶ。
「嫌だっ俺は、俺はっ!」
「俺はッ……あ?」
夢だった。
彼は安堵すると共に久しぶりに夢を見たことに驚いた。
安眠はおろか、夢を見る浅い眠りすら彼には全く無かったのだ。
びっしょりと冷や汗をかいて彼はたっぷりに不快感を味わっている。
息を荒くし、自分の見た悪い夢を忘れるべく胸に手を当てて深呼吸をしている。
「ずいぶんうなされていたようだね。悪夢でも見たのかい」
「………………はい。とても恐ろしい、恐ろしくて甘い夢でした」
「……そうか。夢は僕の管轄外だけど、君の顔を見るにそんなに悪いものでもないだろう」
夢の中で彼を通報した医者は朗らかに彼に笑いかけてきた。
勿論医者の家に警察官はおらず、彼の手に手錠がかけられていない。
彼の心臓の音が徐々に落ち着きだす。
「慣れない環境だからかな。びっしょり汗をかいている、風邪をひいてしまうからシャワーを浴びておきなさい」
「ありがとうございます」
医者の勧めに彼は頷き、風呂へと向かった。
そして頭からシャワーを浴びながら彼は思案する。
「……後で俺の殺しについてもう一回調べねぇと。充電も終わってるはずだ」
「たしか数ヶ月前に一回見たか……ここらへんに警察の手が来てるかもしれねぇ」
「でも最近は情報出ないんだよな……もっとテレビが話題にしてくれりゃあ情報集めもはかどるのによ」
彼の事件ももはや話題の事件とは呼べない。ニュースやテレビ番組ではほぼ報道されておらず、ネットにも情報は簡単には転がっていなかった。
それも当然であり、数ヶ月前に出会った殺人鬼の手口のようにバラバラだったり、奇抜な犯行でもない彼の事件はもはや民衆の興味は惹かれないのだ。
大きい家の娘であるとはいえ、ただ女学生が撲殺されただけだ。
物語として映える愛憎も、インパクトもない。犯人が未だ捕まっていないことを除けばただの殺人事件でしかない。
メディアから飽きられるのも無理はなかった。
汗を流し、彼が風呂場から出ると医者はもう外に出る準備を終え彼を待っていた。
彼はいまだ臭いままの服を着ている。
「さて、行こうか」
「……はい」
一瞬夢で見た警察官に連れられる己を幻視して返事を躊躇するが、彼はすぐに返事をして医者について行った。
医者はそれを見て一瞬訝しむがすぐに忘れて、ある場所に彼を連れて行った。
医者はある飲食店に彼を連れて行った。
彼は少しばかり警察署に連れていかれるのではないかと戦々恐々しながらも医者の後をついて行っていたが、飲食店を見ると一気に安堵した。
その飲食店はある年老いた女性が運営しており、彼を見ると笑って話し始めた。
「あら、良い身体してるわね。良かったわぁ」
「あ、あの……何の仕事を?」
「あらお医者様、説明してなかったの? 私ね、お米を知り合いの農家さんに直接卸して貰ってるんだけどね? 私ももう年でねぇ、腰が痛くて痛くて。だから知り合いのお医者様に力のある若者にバイトとして頼めないかって言ってたのよー」
「は、はぁ。車とか持ってないんで?」
もっともな問いであった。
だがせっかくの仕事をなくそうとする彼らしくない言動だった。
「持ってたんだけど免許返納しちゃったのよー。それで、もう限界かなぁって」
老婆は運んだ重さでお金を渡すという。
彼がホームレスとして過ごすには十分なお金を稼げそうであり、いざとなった時の逃走資金を稼ぐにも良さそうだった。
彼は話を聞くとすぐさま頷きその農家の住所を聞いた。
それは確かに老婆が運ぶ距離としては道具を使ったとしてもあまりにも遠く、彼が運ぶならば疲れはするものの運べるであろう距離であった。
そして彼は今日やる仕事はあるのかと老婆に問う。
「今日運ぶ分とかありますか?」
「あるわよ。よろしくねぇ」
「わかりましたー」
彼は聞いた住所に向かい、農家の家を訪ねた。
尋ねると一人の翁が家から出てきた。
そして米を運びに来たという事を伝えると米の入った袋が沢山、そしてそれを運ぶための荷車を見せられた。
「えーと、コレ?」
「そうそう」
翁は気持ちの良い笑みで彼にサムズアップをした。
彼は米の量の衝撃を飲み込むことができずに苦笑いで返した。
それを見て翁は声をあげて笑った。
「……マ……ジかぁ」
彼はコレは滅茶苦茶に疲れるだろうという予感がした。
そしてそれは的中することとなる。
荷車を引いて必死に老婆の飲食店を目指す彼。
冬ではあるものの運動量が多いため汗をかいていた。
汗をぬぐい、彼は自分の体が水を欲していることを痛感した。
「……水飲まねぇと死ぬな」
充電しておいたスマホを使い周囲の公園をしらべ、水の為に最寄りの公園を目指した。
彼は公園へと着くとすぐに水飲み場で水を飲み、汗を拭った。
そしてその公園を見渡すと、屋根のある滑り台やベンチがありホームレスとして彼が住むには良さそうな公園だと判断した。
「この仕事終わったらここにでも住むか」
そして彼は米の乗った荷車を引く仕事に戻って行った。
彼が仕事を終え、老婆に話しかけると封筒を渡された。
中身を確認すると、数万円ほど入っていた。
思わず彼は首を傾げた。
「……定期契約?」
「良いのよ。この歳になったら使うものなんてないのよ。趣味といったらこの店くらいなんだから。きっとあなたみたいな若者は使い道いっぱいあるでしょ?」
「………………次回はもっと減らしていいです」
その間はあまりにも長いものだった。
「あらそう? ありがとうねぇ」
悩みに悩んだ結果流石に毎回この額は貰えないという結論に至った彼は次回の額はもっと少額でいいと老婆に伝えた。
あまりにも苦々しい顔で彼がそういうものだから老婆は子供を見るかのようにほほ笑んだ。
コレは彼の成長であった。
殺人を犯し、家を出る前の彼であったら何も言わずにこのお金を持って飲みにでも行った事だろう。
家を出て、少額の日雇いやホームレス生活を送った彼は苦を知りやっと精神が成長したのだ。
それを彼も実感しているが、それと同時に手遅れだとも感じていた。
いつも夜空を眺めそんなことを考えてはあきらめたように悲しく笑っていた。
「ひさびさに肉でも食うか? ……いや、逃走資金の為に貯めるか。しゃーねぇ、夕方くらいに近くのスーパーにでも行くかぁ」
彼はベンチに座り、コレからのことを考えていた。
未だ捕まりかけた事は無いが、彼は油断しなかった。
この数ヶ月で無駄遣いをするとお金はすぐさま消えるという事を学習し、明日の為にお金を使わないという選択肢が取れるようになっていたのだ。
「割引弁当でも久々に食べるとめっちゃうめぇ」
弁当を食べ終え、ゴミ箱に突っ込むとベンチに横たわり星空を見ながら目を閉じた。
「流石に疲れたな……」
疲れたのもあったのか彼は昨日のように意識を落としてしまった。
そしてまた彼は夢を見ていた。
彼の目の前にはある女が立っていた。
彼が殺した女だ。
けれど彼女は自分の足で立っていて彼を真っ直ぐ見ている。
彼女を見た人は生きている、と言うだろう。
だが彼は、彼だけはそれに否と唱える。
彼は知っている。この目を。
彼女の目が死人の、無惨にも殺された人間の目であると知っているからだ。
死人の眼をした己が殺した女性がまるで生者のように彼女自身の足で立ち、彼を見ている。
彼はそれを見て正気でいることができない。
「み、見るんじゃねぇ。その目で、そんな目で、俺を見るなぁッ」
彼は腰を抜かしてそれでも無様に逃げる。地を這い逃げる。
だが逃げた先にも彼女は現れ、その目で彼を見る。ただ見る。
何を言うわけでも無い、彼を掴んだりする事もない。怨嗟の声をささやくこともない。
ただジッと彼を見る。彼を見つめている。
それが堪らなく彼には恐ろしかった。怖かった。身の毛がよだつほど、夜に起きてきて暗闇に怯え泣く童のように、怖かった。
いっそ己の足を掴んで地獄にでも引き摺り落とそうとしてくれれば彼は必死になって抵抗するだろう。それでいっそのこと発狂し死んでしまえれば良かった。そうして欲しかった。
それならば彼は救われた。心を軽くして死んでいけた。
けれどそうしてくれない彼女が恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。
狂気に身をやつし、彼は恥も外聞もへったくれもなく叫んだ。
「なんなんだよっ! 悪かった、悪かったって言ってるだろ。いっそ俺を殺せよ。なにがしてぇんだよっ!!」
彼が彼女の肩を掴み、揺らす。それはもはや懇願に近かった。
けれど彼女は何もしない。ただジッと彼を見る。
彼は泣きそうになりながら崩れ落ちた。
「恨んでおりませんわ」
彼女はただ一言そう言った。言ってしまった。ゆえに彼は救われない。
彼はそれを聞いて、安堵するわけでもなく涙を流しながら耳を塞いで尻餅をついた。
ただ言葉にならない叫びを口にしている。
そして突如彼女に詰め寄り涙を流しながら、訴える。
「や、やめろっ! 憎んでくれ、憎んでくれよ。俺をっ憎めよっ!!! お前が憎んでないなら俺は誰にこの許されない罪の許しを乞えばいいんだ……俺は、どうすればいいんだよ……。教えてくれよ。……そ、そうだお前は俺の作り出した都合の良い幻覚なんだろ! そうなんだろ!? そうと言ってくれっ」
「……」
彼が彼女の肩を掴んで大声でそう呼びかける。
だが依然彼女は何も言わずにただ彼にやさしく微笑みかけた。
そしてフッと彼女の力が全て抜けた。彼の掴んでいる手に体を任せる彼女。
彼はその嫌な予感で引き攣らせた顔で彼女の顔を見ると生気が抜けていて、血と髄液が混じったものが顔に流れてくる。
彼はなぜ彼女がそんなざまになっているのか知っていた。
何故か。それは彼がやったからだ。彼が彼女をこうしたのだから。
彼女の頭蓋は割れ、脳を守っていた髄液を体外で放出している。
そしてそれは皮膚の上で血液と混ざり合い、グロテスクな色へと変貌している。
「うわぁッ」
彼は恐怖で思わず彼女を突き飛ばす。
そしてその瞬間彼は視界の隅に自分の手が入った。だがそれはいつも見ている自分の手ではなかった。
その異変を確かめようと彼が改めて己の手をまじまじと見るといつもとは決定的に違うものがついていた。
そこには張り付いくようにくっつく血のついたトロフィーがあり彼の手をべっとりと赤く染め上げていた。
彼はトロフィーの血の隙間からのぞくメッキに映る自分と目が合った。
映っている彼は現実の彼がしゃべっていないのに口を開く。
勿論映るだけのソレに音はないのだが彼はその言葉を理解した。理解してしまった。
それを見て彼は狂気を深め、また叫びだした。
「は、離れろっクソッ離れろっ。は!? 何で離れねぇんだ。ふざっふざけんじゃねえぞっ。なんだてめぇは! なんなんだよてめぇは……俺を見るんじゃねぇ、俺を! 見るんじゃねぇぇぇぇっ!!」
ブンブンと彼が手を振るがそれは依然彼の手にくっついており、殺しの犯人はお前だと主張するように血を撒き散らしている。
腕が外れそうなほど彼は発狂しながら掌を振り回す。
「離れろぉぉぉぉぉッ!」
そう叫んだ瞬間彼の夢は割れた。夢が割れて、日光が瞼の上から彼を照らした。
そして目が覚めた彼はびっしょりと汗をかき、上半身を立たせていた。
つまりは飛び起きたのだ。
息を荒くし、呆然と前を向いている。
「はぁ……はぁ……はぁ……チッ」
「随分と、うなされていたねぇ?」
「ッ……お前か。何でここにいる」
彼を見つめていたのは殺人鬼の女。飛び起きた彼を微笑みながら見ている。
荒い息を吐きながらも彼は彼女を睨む。
その視線を受けながらも彼女は笑い、肩をすくめている。
それを見て彼は舌打ちをして汗をぬぐった。
「旧友にそんな態度はないんじゃない?」
「……旧友? ハッ良いとこ共犯者だろ」
「まぁ……そうなるのかな? さて、君最近どうだい? 人殺ってる?」
「殺るか阿呆。お前みたいな気違いじゃねぇんだよ。俺は……ただ明日があれば良いんだよ」
彼はそう言った。感傷に浸ってそう言った。
他人の明日を奪った人殺しという立場でそう言った。
「へぇ、常人みたいな事を言うじゃないか。人殺し」
「チッ言われなくても分かってるよ殺人鬼」
「あっはー、言うようになったじゃない。んで? 明日が欲しいなら何で逃げてるのさ? あ、ちょっと詰めてよ」
などと言いながら彼が横になっているベンチに座ろうとする彼女。
苦々しい顔をしながらも彼はベンチに座り、スペースを彼女に譲った。
「何でって捕まりたくねぇだろ」
「でも君、純情クンだろ? たくさん殺った私ならともかく君なら死刑にゃなりはしないかもよ。こんな風に生きるよりもよっぽどいい明日だと思うけどなぁ」
「そのいいってのはどっちの?」
「さぁね。君もうすうすわかってるんじゃないのかい」
「……まぁ、な」
彼女の指摘は真っ当であり、彼は捕まり刑務所で過ごしても明日は来るだろう。
放浪生活よりかは遥かに楽かも知れない。この生活よりもよっぽど楽しいかもしれない。
けれども彼は未だに逃げ続けている。いまだ彼は公園で座っている。
「じゃ、なんで?」
「さぁな。俺にも分からねぇことだよ」
彼はぶっきらぼうにそう言った。
彼女は体を伸ばしながらそれを聞き、あきれたような親愛に満ちたような不思議な表情で彼を見ていた。
「ふぅん。捕まった方が楽だと思うけどなぁ。それとも今楽になってみる?」
「馬鹿言うんじゃねぇ。それより先にお前を殺してやるよ」
「……やっぱ君は人殺しだ。君の目には躊躇が無い」
「……」
彼女の見透かすように微笑む目に彼は居心地が悪くなり目を逸らす。
彼女はそれを見ておもしろそうに笑う。
「ま、私は教会のシスターじゃないし。じゃあね、暫くはこの街を拠点にするからまた会うかもね」
「会いたかねぇよ」
そのまま去っていく彼女を彼は見えなくなるまで睨み続けた。
彼は彼女が見えなくなるとまたベンチに横になり、太陽を腕で遮り目を閉じた。
そして彼は1人ごちる。
「俺は……何で逃げてんだ……?」
彼にも彼という人間がよくわからなくなっていた。
それから数週間、飲食店に米を届ける仕事をしているうちに店主の老婆とも仲良くなっていた。
たまに老婆の店で食事をして談笑するくらいには仲を深め、彼は楽しくなってしまっていた。この日常が。この日々が。
ある日彼がいつものように老婆の店で食事をしながら設置されているテレビを見ながら談笑をしていると店に入ってくる人間がいた。
扉が開き、老婆が歓迎の声を上げる。
そして彼が来客のほうへと向く。そして顔がゆがむ。
「おや、君は」
「……げ」
「いらっしゃい。あら、知り合い?」
「腐れ縁も腐れ縁。今すぐ縁を切りたいくらいには親しいな」
「そう面と向かって言われると流石の私も悲しいよ?」
入ってきたのは殺人鬼だった。
何人もの人間を殺し、幾つもの死体を埋めてきたあの女だった。
彼は彼女の顔を見た瞬間盛大に舌打ちをしたくなったが、老婆がいる場という事もあり一瞬ものすごい顔で睨みつけるだけで済ませた。
彼女の彼を見つけた時のおもちゃを見つけたような笑みを見て彼は彼女をぶん殴りたくなった。
勿論彼はここでは殴れないためそれを読み取った彼女の笑いの種にしかならないのだが。
それを彼もわかっているため、老婆に見えないようにものすごい形相になった。
「相席失礼するね」
「帰れ。いっそ還れ」
「意味は分かるけど声じゃ分かんないっての」
「何しに来た」
「此処にご飯食べに来る以外あるかな?」
「……チッ」
いっそご飯以外が目的ならばすぐさま蹴り飛ばして追い出すのになんて思いながら彼は味噌汁を啜った。
そして老婆が注文を聞きに来る。孫の友人でも見るかのような慈しみに満ちた顔で彼女を見ている。
「何にしましょうか」
「彼と同じの一つ。ねぇお婆ちゃん彼と仲良いの?」
「分かりました。……そうねぇ、そんなに長い付き合いじゃないけど彼と話すのは楽しいねぇ」
「へぇ、彼にもそんな一面があったんだねぇ。初めて知ったよ」
「……ほっとけ」
彼を悪い笑みで彼女は見つめている。彼は視線を遮るように味噌汁をまたすすった。
老婆が厨房に引っ込み、いなくなった事で彼が重い口を開いた。
未だ彼は彼女を睨み続けてはいる。
「何回やった」
「そうだねぇ。三回くらいやったかな。私四回を目安に拠点を変えるからもうそろそろ拠点を変えなきゃ」
「お前の顔を見られなくなって清々するな。さっさとどっかいけ」
「そっかぁ」
彼女の何か含めるような笑みを見て彼は怪しんだが、出されていた定食をかきこんだ。
そして水を一気に飲み込むと彼は席を立った。彼女と関わり合いたくないのだろう。
「ゆっくり食べなよ。喉に詰まるよ」
「お前の顔を見ながら食ったら喉に詰まって死にそうだ。じゃあな。婆ちゃん、お代ここに置いとく」
「……ふふふ」
レジにお代を置いて厨房にいる老婆に知らせた。
そしてそのまま足早に出て行った彼を見て彼女は笑った。
何かあるような怪しい笑みだったが、出て行ってしまった彼はそれを見ることも、聞くことも無かった。
彼は公園のベンチで太陽光を浴びていた。
食事をあまり摂らない彼は体調を悪くしないように陽の光を浴びるのが日課になっていた。
やすやすと病院にかかることのできない彼にとって免疫というのは死なないためにも不可欠だった。
「それにしてもアイツ、ホントにたまたま……なのか?」
彼は先ほどの事を思い返していた。
日常を楽しんでいた彼のもとに現れたあの疫病神、先程老婆の店に襲来した殺人鬼の事だ。
彼も人殺しではあるが彼女の考える事は理解し難く頭を捻っていた。
「ま、あんなやつのこと考えてても仕方ねぇか。昼寝でもするか」
そのまま彼は眠りに落ちた。
最近は人と交流する事で逃亡生活という意識も少しずつ薄れ、意識を落とす事くらいは出来るようになっていた。
それでもうなされていない限りは少しの物音で起きる獣のような睡眠であったが。
「誰だ」
ほんの少しの物音を聞いて彼は飛び起きた。
その物音はゆっくりと近づいてきていた彼女の足音だった。
この狩人のように近づいてきた殺人鬼は飛び起きた彼に感心するような表情を向けていた。
「おやおや、警戒心が高いね」
「……テメェ、寝首をかきに来たか」
「信用がないなぁ」
物音に気づき飛び起きると殺人鬼の彼女がいた、そんな状況を彼は寝首をかきに来たと判断した。
忌々しそうに彼女を彼が睨むが気にもされていない。
「じゃあ何しに来た」
「獲物が決まってね。別れを告げに来たよ。この殺しが終わったら私はこの町を出る」
いつものどこか相手を馬鹿にしたような笑みではなく真剣な表情で彼をまっすぐにみてそう言った。
それを眉間にしわを寄せて彼は怪訝に思う。
「そうかよ。じゃ、寝直すからさっさと帰れ。そして出ていけ」
「あはは、じゃあね」
彼はさて寝直そうとまた目を閉じる。が、彼は彼女の先ほどの言動を不思議に思っていた。
そうして直に疑問をぶつけようと目を開くと彼女はもう居なかった。
彼は立ち上がって頭をかきながら目覚めたばかりの頭で何故不思議に思ったのかを改めて考え始めた。ぼんやりと瞬きを多くして考えている。
数分立つと彼は完全に目が覚めて完全に覚醒した頭で、ある事に気付いた。
「獲物?」
獲物が決まった、それが彼には不思議に思えた。そここそが不思議に思った箇所であった。
彼が慌てて公園の時計を見ると先程老婆の店で食事をしてからそこまで時間が経っていなかった。
彼を猛烈に嫌な予感が襲った。
獲物、それは誰の事を指しているのか。それが彼の脳内に浮かんだ。
そして人殺しとしての彼が彼にその答えを囁く。
「アイツ……!」
彼はいてもたってもいられなくなり近くに停めておいた自転車に飛び乗った。
そして全力でこぎ始めた。
「俺なら……俺がやるなら、先に穴を掘る……!」
近くの山に向かって彼は全力で向かった。
「おや、おやおや、おやおやおやぁ? 何のようかなぁ。私今忙しいんだけ、ど」
日が暮れて真上に月が浮かび始める頃彼はそこに着いた。
近くの山、それも深い場所で彼女はシャベルを片手に居た。
彼は息を切らしながらも彼女を睨んだ。
彼女はとても、とても楽しそうに彼を見ている。
「獲物って誰だ。それだけ聞かせろ」
「逆に聞くよ、そんな急いで私を探すくらいなんだし見当はついているんじゃないかな。誰だと思う?」
彼は眼を見開き彼という人殺しが思う答えを言い放つ。
「……………………婆ちゃんか?」
彼女がゆっくりと笑った。
深く、深く、深く。裂けるように、たった今浮かんでいる夜空の月のように。
深い笑みと暗い目、彼女は正真正銘の殺人鬼である事をわからせるとても凄惨な姿だった。
これこそが彼女であり、彼女は人でなしなのだと彼は考えている。
だからこそサプライズのようにゆっくりと、もったいぶって彼女は言うのだ。
「正解」
「てんめぇ……!」
彼は自転車を降りた。こぶしは怒りで握りしめられ、足はしっかりと地面を踏みしめている。
そして彼女に近づき胸ぐらを掴んだ。憤怒に染まった彼と笑みに染まった彼女の顔が限りなく近づく。
けれど彼女の笑みは少したりとも陰らない。
「君さぁ、腑抜けになったよね。忘れちゃいけないよぉ? 君は、人殺しで、気違いで、人でなしなんだからさぁ」
「んなもん分かってる! だがあの人を巻き込む必要はねぇだろ」
「君みたいなのがああいう幸せを掴もうとするとどうなるか教えてやろうと思ってさ。忘れるんじゃないよ、私たちみたいな人でなしが普通の人生を、普通の幸せを過ごせるはずがないだろう」
「殺す。お前だけは、ぶっ殺す」
「良いねぇ、良い面になったじゃ、ない!」
彼女が持っていたスコップを彼に振り下ろす。
彼はそれを見て掴んでいた胸ぐらを放し、距離をとる。
月が雲によって隠され二人を闇が包み込む。
「大丈夫? 武器もないじゃない」
「……心配されなくても大丈夫だよ。昨日髭剃るために剃刀買ったんだ。テメェを殺すにゃコレで十分だ、だろ?」
彼らのような人殺しには人を殺すのにそんな特別な道具は必要ない。そう言外に匂わす彼に彼女は嬉しそうに頷いた。
彼は自転車に括り付けてある荷物から剃刀の歯を取り出した。
そしてそれを持って彼女を殺意の篭った目で見る。
「楽しくなってきたね。いやぁいい夜だ」
「イカレ女が」
「どうした? 人でなし」
彼女の首を切り裂くために彼は駆け出した。
それを見て彼女はバットでもふるように横からシャベルを彼に振った。
彼はその横からの攻撃に当たる、当たると思っていなかったその牽制の一撃が当たったということに彼女は驚く。
けれどそれは首や胴や頭ではなく腕へと当たった。致命傷にはなりえない。
彼はそのシャベルを腕で受け、彼女を殺そうとしたのだ。
シャベルが彼の皮膚にを切り裂き、腕に食い込む。勢いよく血が噴き出るが彼はそんなことを気にしなかった。
「テメェッ研いでやがったな」
「そりゃあね。来ると思ってたし」
シャベルは彼の腕の骨で止まった。だが彼はいまだ殺意のこもった眼で彼女を睨んでいる。
つまりは彼は彼女の攻撃で止まりはしなかった。
彼は自分の体格を生かして彼女を押し倒し、馬乗りになると彼女の首に剃刀の刃を押し当てた。
刃を引いて切り裂いてはいないが、彼女はもう動けない。
その完全に決着のついたその状況で彼は彼女に質問を投げかける。
彼女はこの結果を受け入れて、体の力を抜いていた。
心底穏やかな表情で彼を見つめている。
「テメェ、何でこんな事しやがった」
「……さっき言ったのも本音さ。……もしも、もしものことだよ。もうそろそろさ、殺されたくなったって言ったら……笑うかい」
「そうだなぁ……いつもなら爆笑してやるところだが……お前のその顔を見たら笑う気もなくなったな」
「そっかぁ。そうかぁ。とっても無責任だけど私を殺すのが君で良かったかもしれない」
「はっ、なら安心して死にやがれ。きっちり俺が殺してやる」
彼は彼女の首を切った。
彼女は頸動脈が切られて激しく出血する。
彼女は激しく血液を噴出しながら、自分の思考に落胆しながら、自分に対して呆れながら、霞みきってもうほぼ見えていないその目で彼に微笑みかけた。
「あぁ……やっぱ私は…………ひとで」
「そうだよ。死ぬ瞬間にそんな目をする奴が人であるはずがねぇ。……そんなお前を殺した俺も、な」
彼はそう言うと彼女の目を閉じた。
血の濡れていない地面まで移動し、寝転んで彼は久しぶりに満点の夜空を眺めた。
あの町に定住してから彼はこの空を見ていなかった。
闇に包まれ、遠い遠い彼方にある星々を見て光をうらやむこの感覚は彼にとって久々で二度と味わいたくなかったものだった。
そしてたった今彼が殺した彼女の幻影を彼は夜空に見る。
彼は親しい友人と話すように空に語り掛ける。
「あぁ、そうだなぁ。テメェの分は背負えねぇし、背負わねぇ。だから精々地獄で待ってろ。土産話くらいは持ってってやるよ。……あぁ、それにしても泣きそうなくらいに綺麗だな」
少しぼやけている夜空を見ながら彼はそう呟く。
そしてかろうじて充電が残っていたスマホを手に取ると、ある場所へと電話をかけた。
「人ぶっ殺した。××山だ。早く来い」
ある場所とは警察だった。
彼は人を殺した事を自首し、場所を教えた。ただそれだけをぶっきらぼうに言うとそのまま電話を切ってしまった。
また空を見ると彼は子供のようにいつかの家を捨てる前のように笑った。
彼は面会しに来た弁護士にある事を言った。
「んー、そうだな。最初に殺した被害者の家族に聞きたい事があるんだが、出来るか?」
「……難しいでしょう。私の話を聞いてくれるかすら怪しいでしょうね」
「俺はな、彼らが死刑を望むなら別にそれで良い。出てきて殺されろってんなら減刑を目指す。俺の未来は彼らに任せたい」
「何故、そう思うので?」
「……弁護士さんあんまり他言しないでね? 俺さぁ、自分でも勝手だと思うけど数ヶ月間放浪したり、働いて生きたりしてみたのよ。まるで……普通の人みたいにさ」
「まるで自分が普通の人じゃないみたいに言いますね」
「そりゃ俺人殺しだもん。人でなしだろ? まぁそんなどうでもいいことはいいんだよ。それでさ……不謹慎だけど楽しかった、あの日々がさ。バイト先の人と話すのは楽しかったし、働いた後に食べる飯は美味かった。バイト先の婆ちゃんと一緒に食べると尚更、な。でも、同じだけキツかったし、難しかった。逃亡生活じゃなきゃ俺は耐えきれなかっだろうな。実際、耐えきれなくて逃げたこともいっぱいあった。でもさ、それがまともに生きるって事なんだろうなぁって」
彼はそう言った。
後悔を言葉の節々ににじませ、反省できない己を嘲笑って彼は語った。
「弁護士さんみたいにまともに生きている人ってスゲェよなぁ。俺にはできなかったことだ。……なんだかなぁ。もしも神様がいるんなら、ひっでぇよなぁ。俺、人殺してからの人生のほうが充実してたんだよなぁ……もうそんな資格なんざねぇのによう。だからこそ……だからこそあんたらみたいな普通の人たちを俺は称賛する。そして俺みたいな人でなしを許せない」
彼はまるで懺悔するかのように泣きそうになりながらもそう語った。
弁護士は静かにそれを聞いた。
「そうかな。君みたいに何ヶ月も逃げる方が僕には難しく見えるけど」
「そうかなぁ。人殺すより、死体を隠すより、そして逃げ続けるより、難しいさ。毎日勉強して、毎日仕事に行く。俺にはそれが出来なかった。道を違えて、逃げた。そうして疲れて捕まった」
「そうなのかなぁ」
「そうだよ。人殺して逃げた俺が言うんだから」
彼はやっと気付けたもう遅い事実を遠い目で言った。
今にも泣きだしそうな顔で彼はどこでもない所を見ている。
きっと彼は己の脳髄にしまってある思い出、というものを見ているのだろう。
彼の見ているものは彼にしかわからない。弁護士はどこか切なそうに彼を見つめている。
「だから、罪悪感が芽生えたと?」
「罪悪感なんかじゃねぇよ。ある時俺がそれを奪ったんだって自覚させられて、ね。もはや俺の命は俺の所有物じゃないって、俺の懐からこぼれ落ちたんだって事に気付いたんだよ。ただ……ただその事実に気付いただけだ。だからこそ彼らはその権利がある、だろ?」
「なるほど、殺されたいのか。君は」
弁護士は話を聞いて導き出した彼の心根を話した。
けれど彼はそれを笑った。
それが見当はずれだと思ったからだ。
「ハハハッあいつの言う通りだな。ちげぇよ。全く違う。勝手にしろって言われたら富士の樹海にでも行って首括ってくるし、生きろって言われたら頑張って生きてみるよ。……あぁ、別に死にたい訳でもないぜ?」
「なら、なんだい?」
「そうだなぁ。結局わがままなんだと思う。許されようとは思わないけど……贖罪はしたい。そして自分が人でなしって事を痛感した俺はもう生きたくないんだよ」
「特殊だね、君は」
弁護士は彼の話を聞いて驚いたようにしみじみと言った。
そして彼はあきらめたように笑って言った。
「そりゃ……俺は人殺しで、人でなしだからなぁ。あぁ、時間みたいだ。じゃ、頼んだぜ、弁護士サン。返事貰えなかったら俺は先生に任せるよ」
そう言って彼は牢屋に帰って行った。
弁護士は頭を抱えた。
舞い込んできた難解すぎる仕事に彼は悩んでいた。
「…………怒られるの私なんだけどなぁ」
ため息を一つだけついて弁護士は面会室を出た。
数日後、また彼は面会室に呼び出され、座っていた。
彼は暗い顔の弁護士が入ってくると手を振って迎えた。
すべてを受け入れている彼は余裕を持っていた。
「お、話せた?」
「……あぁ話せたよ」
「なんだ、暗い顔だから返事貰えなかったと思ったよ。どうしたのさ」
「ここに来る途中で二人僕に話しかけてくる人がいてね」
「ッ……まさか」
「察したようだね。お医者さんに飲食店をしてるっておばあさんだったよ」
「二人は……なんて」
彼は悲痛な顔でそう聞いた。
彼は成長したからこその痛みを受けていた。
それは心が砕けそうなほどの痛みであった。
そして弁護士は話し始めた。
「どうにか、減刑させてあげてくれってさ」
「……は? な、なんで」
彼は糾弾されると思っていた。
裏切り者、外道、人殺し。彼らの思いつく限りの誹謗中傷を受けると思っていた。
だからこそ彼は警察によって手錠をかけられてから初めて動揺した。
「二人とも君はそんな凶悪殺人犯じゃないって言ってたよ。愛されてたんだね」
「は……はは……そっかぁ。こんな俺でも、俺みたいな人でなしでも愛してくれる、信じてくれる人はいたんだなぁ……クソッ俺みたいなやつが幸せになっちまった」
彼は大粒の涙を流した。
ボロボロ、ボロボロと少年のように泣き出した。
弁護士は彼が泣き止むまで静かに彼を見つめていた。
数分後泣き止んだ彼は荒く目元をこすりながら弁護士に話しかけた。
「弁護士さん、どんな返事でも受け入れる心の準備はとっくの昔に出来てる。ちょっと今揺らぎかけたけどな」
「君はもう、救えないんだろうね」
「救われる気がねぇからな。救われる気がない奴はどうやっても救われない。弁護士さんもわかるだろ」
「うん、わかる。私も弁護士になって長いからね。じゃあ……言うよ」
「おう!」
彼は気持ちの良い笑顔で答えた。
そして彼らは決めたのだ。
彼はすべてを受け入れる覚悟を。
弁護士は彼に伝言を伝える覚悟を。
二人は各々違うものではあるものの、覚悟を決めた。
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初見の方は初めまして、私を知っているお方はまた読んでいただき感謝します。
KURAです。
発作で書きました。
人でなしのお話です。もともと頭の中のあったアイデアを放出しただけなので荒いところはありますが二回ほど添削をしましたので見れるものになっていると信じます。
久しぶりに書いた短編でしたがどうだったでしょうか。
楽しんでいただけたなら私としても最上の喜びであります。