クマの肉は野生の味がしましたわ!
夜になっても、恐怖は解けなかった。いつものようにロスが起こした火を見つめ、黙って座っていた。
もしクロクマを襲ったのがヒグマだったとしたら、匂いを追ってくる可能性がある。出くわすかもな、とロスが言ったのだ。
昼間の会話を思い出す。
「ヒグマの恐ろしさはその学習能力にある、と俺は思っている。恐ろしい思いをした場所には二度と近寄らないが、簡単に食料が手に入ると思ったら、何度もそれを行うんだ。一度、簡単に人間を食べることに成功したヒグマは人間を襲い続けると言うだろう?」
「知らないわよ、そんなこと」
「頭のいい動物だが、それだけじゃない。身体能力が他の奴らとは桁違いだ。嗅覚は犬の二十一倍、山中でも六十キロで走ることができる上、体重は百キロを超える。これに突進でもされたら、列車とぶつかるみたいなもんだ。もし出会ったら……」
「出会ったら?」
「祈るしかない。なるべく痛くないように殺してくれってな」
などと脅すものだから、余計に恐ろしかった。
(もう嫌。こんな森の中の生活! 命がいくつあっても足りないわ!)
それに、さっき、本当に死んでしまってもおかしくなかった。
(もしもこのまま、死んだら?)
そうしたら、ヴェロニカの死は誰も知らないまま、悲しむこともできない。
(なんとしても生きて、そしてまた家族に会いたい)
そう思って驚いた。
(家族に会いたいって、思うなんて)
二人は今、何をしているだろうか。
膝を抱える。ほとんど会話のない家族だったが、今は話したいことがたくさんある。
兵士に襲われたのよ、脱走兵と旅をしているのよ、犬がかわいいわ、木の実は美味しいわ、熊に襲われて生き残ったのよ。
――でも、家族はいない。ヴェロニカは孤独だった。
心細くてまた、目に涙が浮かびそうになる。
一方のロスは熊を捌いて取った肉を偶然見つけた野生のリンゴと一緒に煮込む。
「こうすると肉の臭みが取れるんだ。雑食動物はあんまり美味くはないけどな」
と暢気に言いながらヴェロニカに視線を移して、そしてぎょっとしたような顔になった後、また煮込みに戻す。
ヴェロニカが泣いていたからだ。
そしてぽつりと呟いた。
「……昼間は怒鳴って悪かった」
今度はヴェロニカが驚いた。
なんのことだと思ったが、“犬だとしても気安く触るな”と大声を出されたことを思い出した。
「いいえ、気にしてないわ。わたしも迂闊だったもの」
「じゃあ、なんで泣いている?」
「……家族のことを、思い出していたのよ」
ロスが黙ってこちらを見るので、話せという意味だと受け取った。視線は火を見つめたまま、思考は過去に遡る。
「わたしたち、仲良し家族じゃなかった。会話と言えば、あいさつくらい。学園の寮に入ってからは手紙さえ書かなかった。
お父様って本当に自分のことしか考えてないのよ? 出世が一番、お金が二番。娘のことは……百番目くらいかしら?
褒められたことはもちろんないし、大声で怒られたことだって、ないわ。ねえ、相手を怒るのは、相手を大切に思ってるからなんだって。だとしたら、お父様にとってわたしたちは、本当に、なんだったのかしら? お父様がわたしたちを大事にしたのは、彼にとって必要な道具だからで、個人には無関心なんだわ」
父の眉間にはいつも皺が寄っていた。話すときはこちらを見ようともしなかった。
「……それに、チェチーリアだって、すごくわがままなのよ。感情的だし、貴族として、自覚が足りないのよ。いっつもわたしの物を欲しがって。
お母様が亡くなった翌年だったかしら。珍しくお父様がわたしに買ってくれたの、うさぎのぬいぐるみを。でも、それをチェチーリアは欲しがった」
白くてふわふわしたかわいらしいうさぎのぬいぐるみを思い出した。それを抱いていると、心が慰められるような気がしたのだ。
「あげなさいってお父様が言うのよ。しかたなくあげたけど、そしたらほっぽり出して全然大切にしないのよ! ひどいと思わない? そういう子なの、だらしなくて、長続きしないのよ! わたしは怒って、大げんかして、それがきっかけだったかしら。今日までほとんど話してないわ」
あの時、チェチーリアは泣いて欲しがった。でもヴェロニカだって譲りたくなかった。だけど自分は姉だから、我慢しなきゃいけないと思った。母が亡くなったときだって大泣きする妹の横で、懸命に耐えた。
「……そのうさぎのぬいぐるみ、今も欲しいのか?」
黙って聞いていたロスが何を言うかと思えば、そんなことだった。
「まさか! もう子供じゃないんだもの」
「なら、もう許せばいいじゃねえか。子供の頃の話だろ、妹だって小さかったんじゃねえのか?」
「そう、だけど」
不服を全面に表してみたがロスは本気でわからないようだった。
そういうことじゃないのよ、とヴェロニカは思った。
いつも我慢してきた。
伯爵令嬢として、ふさわしい自分になるために。
だから奔放な妹とは反りが合わなかった。
チェチーリアを見ると、自分の振る舞いが無意味な気さえした。
……だって、本当は母が死んで悲しかった。妹と一緒に大泣きしたかった。父に甘えたかった。婚約だって、初めは嫌だった。決められたレールの上にいることに、疑問を抱いたこともあった。
妹は自由だった。いつまでも泣く妹を、父は叱った。甘えてくる妹を、ヴェロニカは疎ましく思った。
うさぎのぬいぐるみなんて、きっかけにしたに過ぎない。
弱さを見せてはいけないと、治らない傷口を無理矢理塞いだのだ。傷は癒えないまま、静かに膿んでいった。
家族が嫌いだと思っていた。でも、今ひたすら渇望するのは彼らだった。
(わたしが二人を大切に思ってるって知ったら、なんて思うのかな。同じように、思ってくれるかしら……)
――ヴェロニカは膝に顔をうずめてすすり泣いた。後悔しかなかった。
いつもの自分は、人前で泣いたりしない。誰かに弱音を吐くことも、子供のように怒ることも、はしゃぐこともない。森の中で、自分の心すら見失ってしまったようだった。
「……明日生きているかも分からないこんな森の中でやっと後悔するなんて、わたしは大馬鹿だわ」
黙って鍋をかき回すロスに、話題を変えるようにヴェロニカは尋ねた。
「ねえロス。あなたは、山に住んでたって言ってたわね? 家族はいるの?」
「いや……」
ロスは浮いた灰汁を掬って捨ててから、ヴェロニカを見た。その夜空のような黒い瞳に思わず吸い込まれそうになる。
「俺に家族はいない」
「どうして?」
「普通、聞くか?」
踏み込まない礼儀があるだろ、ということだろうか。苦笑いしつつもロスは話し始めた。
「……俺の故郷は、A国とB国の間にあった。ひっそりとした山の中で、一族の数は多くなく、まあいわゆる少数民族ってやつだ。男も女も山で生まれ、暮らし、死んだ。両国には忌み嫌われることもあったが、たいていは干渉してこない。
森は美しかった。季節ごとに温かさがあり、厳しさがあり、そこで命を学んだ。……ああ、そこで木に登って夕陽を見るのが好きだったな」
ロスは懐かしむように目を細める。今まで見たこともない穏やかな表情に、ヴェロニカは家族を思う自分を重ねた。
「滅んでしまったの?」
「おそらくな……」
「おそらく?」
「俺は外の世界が見たかった。まだ十代初めだったか、兵士に志願した。そして帰ったときには、山は焼かれ、跡形もなくなっていた。一族もどこにもいない。後で聞いた話じゃ、戦地になって、皆死んだそうだ」
「ひどい……」
ヴェロニカは両手で口を覆った。そんな野蛮なことが実際に行われていたとは信じがたい。
「珍しい話じゃない。戦争があったんだ。今もだが……。A国人もB国人も大事なのは自分の国民だ。他で何が起ころうと重要じゃない。そういう悲劇は他にもあるだろうよ、それこそ掃いて捨てるほどな」
語るロスの顔はA国人でもB国人でもない。
ヴェロニカは遠い民族を思った。山で暮らし、自然と共に生きる人々のことを。
今まではそんな人たちがいることを想像すらしなかった。でも、生きるために本当に必要な強さは、彼らこそ持っているのかもしれない、と思った。
それきりロスは黙り、手元の料理に視線を落とした。ヴェロニカも話しかけはしない。
沈黙が流れるが、嫌な空気ではなかった。アルテミスがヴェロニカの側に寄り眠った。その白い柔らかな毛に触れると、あのうさぎのぬいぐるみを思い出した。
穏やかなひとときだった。
*
やがて肉が煮込まれる。
「食うか?」
ロスが尋ねる。どうせ食べはしないだろうが儀式的にいつも聞いてきていた。
しかし。
「じゃあ、いただこうかしら?」
「あ、ああ」
やや面食らったようにロスは返事をして、肉を汁ごと器によそって寄越した。
一口食べる。
固く弾力があるその肉は、臭みもあり、お世辞にも美味しいとは言えなかった。それでも食べたのは、命に対して真摯に向き合おうと思ったからだ。
この行為は決して残酷ではない。ヴェロニカが死んだら熊が、熊が死んだらヴェロニカが、それぞれ互いを食べる。そこに憎悪はない。だた、生きる営みがあるだけだ。
「美味しいわ」
食べて、不思議と力が沸いてきた。
ヴェロニカを殺そうとしていた熊はヴェロニカの体の一部になった。これからは、この体として命を巡らせていく。
少し元気になり、あることを思ってロスに注意しておいた。
「ねえ、わたしが泣いたこと、誰かに言ったら承知しないわよ?」
苦笑い浮かべるロスに、思ったことがある。
話の流れで分かったのか、それとも前に言ったことがあっただろうか。
(よくチェチーリアが妹だって分かったわね……?)