足跡からいろいろなことが分かるのですわ!
「アルテミス!」
ロスは最愛の犬の体を抱える。体には血が滲み、悲しげな顔を、アルテミスは浮かべた。
「傷の手当をしますわ!」
救急箱を探しに姿を消すチェチーリアを横目に、ロスはいるはずの女の姿がないことに気がついた。
「ヴェロニカはどこだ!」
誰も答えることができない。ヴェロニカはアルテミスと一緒に出て行った。
にも関わらずアルテミスはたった一匹でこの屋敷にやってきた。
「なんだって!」
カルロが驚愕の表情を浮かべる。
犬と一緒に出て行き、犬だけが先に目的地に辿り着いた。しかも怪我を負って。
4号が母親の体の匂いを嗅ぎ、怯えたように尾を下げる。
「大丈夫ですわ! そんなに大きな怪我ではないですもの!」
チェチーリアが目に涙をためながら言う。姉の姿はないが、ひとまずアルテミスの無事に安心したようだ。
「森を抜けたのか?」
アルテミスの体についた枯れた針葉樹の葉を見つける。
いち早く、ロスから遠ざかりたかったのだろうか。ヴェロニカには人気のない場所には近づくなと、いつも言っていたのに。
歯がゆい思いを抱えながら、上着を羽織る。
「ロス君、どこへ!?」
「森に行く。ヴェロニカの身に何かが起きたのかもしれない。カルロとチェチーリアはここで待て、何事もなく現れるかもしれない」
ほんのわずかな間、カルロが何かを言いたげな表情をしたが、次には頷いた。
「分かった。……頼んだよロス君」
カルロが本心からロスを頼りにしていることは知っていた。ロスもまた、信頼に応えるように強く頷いた。
「ロスさん! どうでした? わたしたちのこと、分かってもらえましたか?」
屋敷を出た瞬間、シャルロッテが明るい笑みで駆け寄ってきた。
目眩を覚える。
この少女の存在を忘れていた。
帰れと言ったがまだいたらしい。
目線を合わせないようにしながら脇を抜けようとする。
「俺はこれから行くところがある。君は家に戻れ」
……が、失敗した。
シャルロッテにがっちりと手を掴まれる。無視してそのまま歩く。
「嫌です! 何かあったんですか?」
「君が知る話じゃない」
「もしかして、ヴェロニカさんが行方不明とか?」
ぎょっとして立ち止まった。何か知っているのかと思ったが、当てずっぽうだったらしい。彼女の顔にも焦燥が浮かんでいた。
「だったら、この馬車で行った方がいいです! それに、一人より二人の方が。人手は多い方がいいですよ!」
馬があるのは助かる。シャルロッテをこの屋敷に置いておくわけにもいかない。
そう思い、ロスは提案に乗ることにした。
*
「ここで止めてくれ」
林道の途中で、馬車を降りた。シャルロッテが不思議そうな表情を浮かべる。
「なにもなさそうですよ?」
湿った土の匂いがした。
一見平穏な森の中だ。
だが、違和感はある。
他の場所よりも、奇妙に整理されている。地面も、木々も、まるで一度整えられ、その後再び散らかされたようだ。泥のが他の場所より湿っている。掘り返されたということだろう。
案の定、紅葉を終え落ちた葉の上に、かすかに人間特有の泥の跡がついているのを発見した。
「動物じゃこうは泥が付かない」
泥濘んでいたのが幸いだ。靴の痕跡が、至る所に残っている。
「歩幅からしてこれはヴェロニカだろうな。走って森に入ったようだ」
森の中に伸びていく騒々しい靴の跡を見つけ、ロスは予感が的中しつつあることを悟った。
「足跡でそんなことまで分かるんですか?」
「体格や性格まで分かるさ」
「わあ! さすがロスさんです」
嬉しそうなシャルロッテの顔を見ないようにしながら、ロスは捜索を続ける。
謎は、なぜヴェロニカが森へと迷わず進んだかということだ。彼女の性格的に、トラブルを見つけ、いても立ってもいられなくなったか。
だとして、なぜ帰らない。
彼女の身に何があった。
折れた葉。踏み抜かれた小枝。追跡は容易い。だが同時に思う。
(素人が隠したか、あるいは――)
挑発か。
ヴェロニカが森の中へ走って行ったことは間違いない。
彼女が目指したであろう場所に、複数の男たちがいた痕跡があった。
何者かたちがいたこの場所にたどり着くまでは、少なくとも生きていた。だがそれから先、彼女の足跡はない。
地面に這いつくばるようにして調べていたロスは顔を上げる。暗い思いに支配されつつあった。
「……一人、とんでもない精鋭がいるらしい。単なる夜盗じゃねえな」
加えてこいつは用事深い性格だ。用意周到に準備をし、相手が罠にかかるのを待つ。普通の人間ではない。鍛えられた者だ。そいつがリーダー格なのではないか。
それにしても、奇怪な足跡ではある。
「男が少なくとも四人いる。武器を持っているのは確かだ」
「わたしには、なにも分からないです……」
「よく見ろ、つま先を踏み込んでいるだろう。重心を前に倒し歩いているんだ」
「そうすると、どうなるんですか?」
「重量物――長銃を持っているということだ」
「へえ……」
男たちはここで一時間ほどの間、立ち話をしていたらしい。
地面が他よりも沈んでいる。長い間立っていた証拠だ。
――だが左を見た。
つま先が林道の方向に傾いているが、歩いた気配はない。
わずかに落ち葉が踏みしめられている。体勢を変えたか。
この足跡の持ち主は、踏み込み、林道に向けて銃を構えた。
ロスは直線上の木の幹が抉れているのを発見した。
銃弾の跡だ。
狩猟銃じゃない。対人の拳銃だ。
林道側にいた何かに向けて発砲した。
ヴェロニカが走ってきた方向だ。
銃弾の先にいたのが彼女でなければいい。
(くそ)
今更ながら、後悔した。
どんな手を使ってでも、彼女が出て行くのを止めればよかった。泣かれようがわめかれようが殴られようが殺されようが、今よりははるかにましだろう。
気が立っていた。
だからロスの腕にさわりと冷たいものが触れたとき、反射的に振り払った。
「……きゃ!」
勢いでよろめいたのはシャルロッテだった。木の幹に手を付き、眉を下げ、悲しそうな顔をする。
重ねて言うがロスの気は立っていた。自分に触れたシャルロッテに気を回してやるほど優しくはなれない。
既に辺りは暗くなりかけていた。これ以上深追いすると少女の身の安全も保証はできなかった。
「……優先するのは俺と妻の命だ。この森に正体不明の面白くない者たちが潜んでいるのは確からしい。戦闘になったら君を守る余裕は一切ない」
それは知りうる最大限の優しい口調で「邪魔だ失せろ」と言ったのだが、どうやら伝わらなかったようだ。
シャルロッテは即座に言う。
「分かりました。自分の身は、自分で守ります!」
「悪いことは言わんから、あの馬車に乗って帰れ。守れないといったんだ」
「一人では危ないです」
「君を連れている方が危険だ」
「でも」
なおも食い下がるシャルロッテに、遂に本音を隠さず言う。
「分からないのか? 邪魔だ失せろと言っているんだ」
だが彼女の顔に浮かんだのは恐怖ではなく決意だ。何があってもロスにへばりついてくる気でいるらしい。
「――なら、勝手にしろ。俺は止めたからな」
(死んでも恨んだりはするなよ)
木々の間に隠されたようにあるのは、まだできて間もない、道というのもはばかられるほどにわずかな通路だった。
木こりが使用する作業路にしては手狭だが、獣道にしては綺麗すぎる。
草が踏みしめられた後の独特の香りがした。
(まだ新しいな)
追跡に慣れた者でなければ発見するのはまず無理だ。だがロスは、嫌と言うほどこの作業が身についていた。
斥候、歩哨、逃亡、あらゆる場面において地面の痕跡は、命を救う手がかりとなったのだから。
木々の奥で異形の怪物が、口を開けて待ち構えている。さあ来いよと誘い込む。
選択肢はない。だがただで食われてやる気も、さらさらなかった。




