名犬アルテミスの奇跡の半生③ わたしの家族編
朝が来て、ヴェロニカはうろたえていた。
「ロス! どこにいるの!」
ロスが姿を消してしまっていたからだ。何の騒ぎだとチェチーリアが目を覚ます。
「昨日の夕食で、仕事のことをうるさく言ったから怒って出てってしまったのかしら?」
ヴェロニカは動揺していた。
わたしもロスがいなくて不安を感じる。オリビアのことが頭をよぎった。
ロスはあれ以来、大切なものを遠ざけようとしていた。なにも持たず、抱えない。もしかして、この群れが大切だから、去ってしまったのだろうか。
まさか。そうは思えない。だって、ロスはヴェロニカを心の底から愛していたし(それは彼がわたしに本音を語るから知っている。それにヴェロニカに野暮ったさが抜けたと言われて以来、髪の毛を短くしてることも知っている!)、側を離れようとはしていなかった。
「どうしたんだい」と寝ぼけた様子のカルロもやってきた。ヴェロニカがロスの不在を告げると、首を捻る。
「そういえば、早朝一回目が覚めた時に、会ったような……。そしてなにかを言ってたような……。今まで世話になったとかなんとか……」
「それってお別れじゃないの!? きっとわたしに嫌気が差したのよ!」
「き、きっとお散歩ですわよ! 大丈夫ですわ!」
チェチーリアが慰めたとき、ヴェロニカは急に「いたっ」と言って、お腹を抱えてうずくまった。
わたしは心配で側に寄る。彼女の家族も慌てて側に寄る。
ヴェロニカ、大丈夫かしら?
病気?
もしヴェロニカの身に何かがあったら、それはそれはもうロスは大変なことになるだろう。
だってロスとヴェロニカは互いが「わたしの人間」だったから。
ロスにとって、ヴェロニカとの出会いは、まさに奇跡だった。
*
オリビアが去って、春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来て、それを何度か繰り返したある秋の日の夜だった。
「さあ、行こうアルテミス」
ロスが荷を作ってからわたしに声をかけたのだ。
彼はこれから仕事に行く。わたしはびっくりした。だって仕事にわたしを連れて行くのは初めてだったから。
「もうここには戻れないかもしれない。とんでもない奴等が俺に大層愉快な依頼をしてきた。上手く行くか? 分からない。だが、どっちに転んでも――」
大きな手がわたしをなでた。
「お前だけは、変わらず俺の一番大切なものだ。一緒に行こう」
ロスがわたしを愛していること。そんなこと、もちろん知っていた。手を舐めると「いい子だ」とわたしを褒めてくれた。
それから数人の男たちと合流し、「なぜ犬が? それにその荷は?」と訝しがられたが、「俺のことに口出しするな」とロスが言うと、それ以上はなにも聞いてこなかった。
男たちと一緒に森に入り、そして、馬車が見えた。中の一人が馬車に向けて銃を放つと、馬車は止まった。男はそのまま馬車の扉を開ける。
そしてその瞬間、ロスが彼に銃を構えたのが分かった。なるほど、と合点がいった。
合流した男たちは、ロスの敵に違いない。
だから親友を助けてあげようと、わたしは男たちに吠えながら噛みついた。だってわたしは「いい子」だから。
ロスはほんの一瞬だけ面食らったようだったけど、結局は男たちを速やかに始末し、そして――その時わたしは初めて気がついたけれど、馬車の向こうにいる人に声をかけた。
「ヴェロニカ・クオーレツィオーネ。聞こえているのか?」
その名前を聞いた時、なんだかとても懐かしい気分になった。ずっと昔、わたしがまだほんの子犬だった頃、聞いたように思ったからだ。
ロスが馬車を回り込むのと同様に、わたしも反対側から回り込んで、その人を見た。
くんくんと、匂いを嗅ぐ。
ああ、この匂いを知っているわ!
わたしの心は飛び跳ねた。
あの子だ!
背は伸びているけど、きっとそう。
あの柔らかくて、いい匂いがして、かわいくて、おやつをくれて、くすくす笑う――
「わたしの女の子たち」に違いない!!
だけど、彼女は怯えていた。ロスと言葉を交わしていたが、緊張は解けていない。
だからなんとか慰めてあげたくて、「大丈夫よ、彼は良い人間だから」と言いながら、その手を舐めてあげたのだ。
それからわたしは、ヴェロニカを助けてあげたり、足を一本失ったり、もう一人の「わたしの女の子たち」に出会ったりするのだけれど、そのお話は今はよしておきましょう。
*
わたしはチェチーリアとともにヴェロニカに付き添い、医者のところに行って、診てもらってから屋敷に帰ってきた。
すると、当然のようにロスがいた。
やっぱり、彼が姿を消すわけないとほっとする。
ヴェロニカも同じだったようで、ロスを見ると安心したように微笑んだ。
「朝からどこに行ってたの? 心配したわ」
「軍部に呼ばれて行ってきたんだ。ついでに職を見つけてきた。兵士じゃない。指導者側に回ることになった」
「じゃあ、戦場には行かないのね?」
「ああ、多分な」
「でもひどいわ。ひと言くらい伝言を残してもよかったんじゃないの?」
言われたロスはカルロを見た。
「カルロには言ったが」
そこでようやくカルロは思い出したようだ。
「ああ、『今まで世話になったな。軍部に呼ばれたんで、これからは俺も仕事をして金を入れる』って言ったんだった」
チェチーリアが「もう、お父様ったら」とカルロを小突く。カルロはすまんすまんと笑う。お茶目なおじさんだった。でもヴェロニカがギロリと睨んだ瞬間「ひぃ」と小さな悲鳴をあげた。
「それよりも」
とロスが言う。
「医者に行ったんだって? 具合はどうなんだ」
ヴェロニカはうふふ、と笑い、そして次に発した言葉でロスとカルロを凍り付かせた。
「ええ。妊娠してたわ」
永遠のような間。
冷たい静寂。
誰も言葉を発しなかった。
ロスは驚愕している。
カルロが「ごほ」と咳払いをしたとき、ようやく氷が溶けたかのようにロスが口を開いた。
「そんなはずない」
「なんでそんなこと言うのよ?」
ヴェロニカは不思議そうだ。
「俺の子だというのか?」
「んん? まあ、広義ではそうかもしれないわ。中にはそう言う人もいるでしょうね」
雲行きが怪しいと思ったのか、カルロははらはらと二人の様子を見守り、チェチーリアはぷぷぷと笑いを堪えるような声を発した。
ロスは言葉をゆっくりと告げる。渋い顔をしているし、ひどく言いにくそうだ。
「ヴェロニカ、お前、どうやって赤ん坊ができるか知ってるか?
その、なんというか、コウノトリは運んで来ないんだ。それからキャベツ畑からも生えてこない……。
つまり、なんというか……男と女が……。いや、何が言いたいかというと、俺とお前は、まだ、その、そういうことを……」
「馬鹿!!」
ヴェロニカは何かに気がついたのか顔を真っ赤にして叫んだ。そしてわたしを抱える。
「わたしじゃないわよ! 妊娠してるのはアルテミスよ!」
「アルテミスが!?」
ロスは間抜けな声を出した。カルロの緊張は解け、チェチーリアは遂に吹き出した。
「お医者様についでに診てもらったの! 最近調子が悪かったでしょう? そしたら、子犬がいるみたいだって!」
「いや待てよ、どこのどいつが俺のアルテミスに手を出したんだ?」
ロスは少し怒っているようだった。
わたしにそのぎょろっとした目が向けられたが黙っていた。わたしとして、心当たりはなくはないが、女の秘密だったから。
それにしても、わたしに赤ちゃんができたなんて! 嬉しかったけれど、怖くなった。
だって、妊娠した犬は森に捨てられるって、すごく昔に聞いたことがあったから。
だけど、「わたしの人間たち」は順番にわたしをなでた。
「アルテミスの子じゃ、きっとかわいいんだろうなあ」カルロがしみじみと言う。
「頭がいいに決まってる」ロスが自慢げに言う。
「何匹かしら? 全部飼いましょう」ヴェロニカが楽しそうに言う。
「名前はどうしましょう。ポチ、ハチ、ウィード……」チェチーリアが悩むように言う。
ああ、わたしはこの群れに加わることができて本当によかった、と心から思った。
「というか、お前の腹痛はなんだったんだ」
「食べ過ぎだったわ」
ヴェロニカの返答にロスは呆れと安堵の中間のような顔をして黙った。他の三人はその反応が面白かったのか笑い出した。
わたしも楽しくなって、何度も吠える。
出会いは奇跡のようで、幸福は贈り物のようだった。きっとまだまだ、素晴らしいことが待っているに違いない。
――これからも、騒々しい日々は続きそうだわ!
〈おしまい〉




