名犬アルテミスの奇跡の半生② ロスとオリビア編
「なあアルテミス、どう思う?」
皆が寝てしまった後、客間のソファーでロスがわたしの頭をなでながらそう言った。彼も他の人間と同様、わたしにだけは本音を語る。
「ああ、分かってる。職なし家なし居候のごくつぶしは流石にまずいって言うんだろ。
なし崩し的に世話になっちまってるが、妙に居心地がいいこの場所に、これ以上浸かるのは危険だと俺の本能も言っている。いい加減に出てきかなきゃならん。
だがあいつは、兵士としてしか働いてこなかった俺が、ワッフル屋にでもなればいいと本気で思ってるんだぜ」
それから深いため息をついた。
「この一家は俺を砂糖漬けにして、骨まで溶かす気でいるらしい」
「皆あなたが好きなのよ」
そう声をかけて、入ってきたのはヴェロニカだ。「起きてたのか」とロスは言う。
彼女はロスの隣に座り、彼に体を預ける。彼もその肩を抱いた。そして二人はやっぱりわたしをなでた。
「それに、アルテミスのこともね」
わたしが二人の会話のきっかけになったのは数え切れないほどで、かすがいであるとの自負はあった。もしわたしがいなければ、二人は恋人同士にはならなかっただろう!
「アルテミスといえば、最近元気がない。前は頻繁に遊びたがったが、今じゃすぐ横になりたがるし、だるそうだ」
「アルテミスは何歳?」
「さあな。俺のところに来た時にはもう成犬だったから」
「年なのかしら……?」
ヴェロニカは、心配そうにわたしの顔を見た。
それから、「いてて」とお腹を抱える。「どうした?」とロスが彼女を覗き込む。
「なんだがお腹がヘンだわ」
「食い過ぎじゃねえのか」
そうかしら、とヴェロニカは首を捻った。
*
彼に出会ったのは、訓練場で季節を何回りか過ごした頃だ。
訓練は好きだった。よくできるとおやつを貰えたから。
でも訓練場の人間は、「わたしの女の子たち」のようには接してくれなかった。
彼らにとって、わたしはあくまでも多くの犬の中の一匹で、特別な犬ではなかった。そして彼らも、多くの人間の中の数人で、わたしの特別な人間ではなかった。
それで、ある日突然、訓練場をおさらばした。訓練場を出るときの習わしで「115」という今までの味気ない呼び名から、別の名前を与えられた。
「犬……」
その頃になると人間のことがよく分かるようになっていた。後にロス、と名の分かるその青年はわたしを見ると愕然とした表情になる。ショックを受けているのは明らかだった。
「お前が犬が欲しいと言うから、陛下の命令で、わざわざ国営の訓練場から一番優秀な犬を連れてきてやったんだ」
「だからって、本当に犬だけか。他に、金とか」
「ない。望み通りだ。喜べ」
説明をした男が去った後で、青年はしゃがみ込みわたしをなでた。
「この国の連中はとんでもない阿呆らしい。俺を犬が大好きな純情少年だと思ってるのか? どうせ戦争だって負けるさ。なあ、お前もそう思うだろ?」
それからわたしの首輪についた名札を見る。
「アルテミス……狩りの女神か。いい名をもらったな」
彼が笑ったので、きっと良い人間だと思った。
「お帰りなさい、あたしのかわいい人」
ロスがわたしを連れて彼の住処に戻ると、そこにいた人間が微笑んだ。それは男に対を成す、女という生き物だということを、もうわたしは知っていた。
「オリビア、まだいたのか」
「いつまでもいるわよ」
「いい加減、新しい部屋を見つけて出てってくれ」
オリビアと呼ばれた女は窓辺で匂いの出る細長いものを手に持っていた。
この住処は、「わたしの女の子たち」のベッドのあった部屋よりも随分狭かった。ベッドとごくわずかな家具があるだけ。
「あらその犬、どうしたの?」
ロスはベッドに腰かけ、わたしが彼の犬に、そして彼がわたしの人間になった経緯をオリビアに話した。
オリビアはそれが面白かったのか、また大きな笑い声を上げた。彼女が楽しそうだったので、きっと彼女も良い人間だろうと思った。
「これからは煙草をやめろ」
ロスがオリビアに言う。
「あなただっていつも吸ってるじゃない」
「俺はもう吸わない。犬は人間の一億倍嗅覚が鋭いらしい。アルテミスがかわいそうだろ」
「優しいわね。意外と本気で犬が欲しかったんじゃないの?」
オリビアはからかうようにそう言うと素直に煙草の火を消した。
わたしはロスとオリビアの群れに加わった。二人は多分、恋人なんだろうと思った。一緒に住んでいたし、互いを信頼していたから。
ロスは時々思い出したかのようにオリビアに「出て行け」というが、本気で追い出そうとはしていなかった。オリビアはそんなロスを「かわいい人」と呼んでいた。多分オリビアは、ロスよりいくつか歳が上だった。
いい予感は的中し、わたしはすぐ二人のことが好きになった。
だっておやつをくれるし、交互に散歩をしてくれるし、「いい子」と褒めてくれるから。わたしは「二人の犬」で、二人は「わたしの人間」だった。
ロスは長期間帰らないことがあり、そんなとき、わたしはオリビアと一緒にいた。
「あたしが道端で店の男に殴られたとき、ロスが助けてくれて、それからの縁。軍人と、あたしみたいな職業の女の組み合わせは意外と多いのよ」
その日もロスは不在にしていて、彼女はわたしをなでながらそう言った。
だけど彼女はいつも寂しそうだった。
「実を言うと恋人じゃないの。近い関係だけどね、お互い口にできないわ。
だって、言える? 愛してるって。一生、側で生きていこうって。まさか、言えないわよ、そんなこと。
彼が何歳かも知らないし、軍人だって言っていたけど、どんな仕事かも知らないのよ。本当のところ、あたしをどう思っているのかも」
多くの人間がそうであるように、彼女も犬には本音を語る。
「あたしが彼を愛してるって言ったら……一緒に生きてくれるかしら、これからもずっと。あなたはどう思う、アルテミス……?」
犬のわたしには、人間の複雑すぎる感情はよく分からない。好きなら一緒にいればいいと思う、それだけ。
それを伝えるために彼女の顔を舐めると、やっぱり寂しそうに微笑んだだけだった。
――突然、部屋の扉が叩かれて、数人の男たちが入ってきた。
オリビアは驚いたようで、だけどすぐにわたしを窓から外に放り出した。
二階から犬が降ってくるなんて、ほとんどの人間は思っていない。わたしが運良く藁を積んだ荷馬車に着地したとき、往来の人間たちはみんな驚いていた。
そしてさらに、わたしが落ちてきた先の部屋でいくつもの鋭い大きな音がしたことも、彼らを驚かせたのだ。
「銃声だ!」
誰かが大声を出して、悲鳴をあげる。
銃声が何かは知らなかったが、オリビアの身に、恐ろしいことが起こっているのは分かった。だからはわたしはまた建物の中に入り、階段を駆け上がる。
住処にたどり着いた時には、ツンとする火薬の匂いと、血の匂いがしていた。不愉快な香りだ。男たちはいなかった。
匂いの中心に、オリビアが寝転がっていた。
目を開いていたが、その中に光はない。
これは知っていた。お母さんと同じだったから。
彼女はもうわたしに「いい子」と言ってくれることはないし、ロスのことを「かわいい人」と呼ぶこともない。
わたしは吠えた。何度も吠えた。
やがて異変を感じた別の人間が来るまで、わたしは吠え続けた。オリビアの体は人間たちによりどこかへと連れて行かれ、そうして、二度と帰ってくることはなかった。
ロスは帰ってきて、事態を把握している人から事情を聞くなり、わたしをその人に預けて、一人でどこかに行ってしまった。
そして数日姿を消し、再び帰ってきたときには大量の血の匂いと、それから、冷たい死の匂いを漂わせていた。
彼は疲れていた。
いつものようにベッドに腰掛けると、わたしを抱き寄せる。
「……オリビアの報復をしてきた」
そしてやはり彼もわたしに本音を語る。
「アルテミス。誰のせいか知ってるか」
ロスは震えていた。
わたしはあの日、部屋に乱暴に入ってきた男たちを思い浮かべた。だけど、ロスが言ったのは違うことだった。
「あいつらは、俺を殺しに来たらしい。
俺のせいだ。オリビアは俺を好きだと言った。愚かにも、その好意に甘えたんだ。側にいるべきじゃなかった。俺が、オリビアの、全てを奪ったんだ……。
……ああ、分かってるさアルテミス。俺はなにもかも、間違ってた。
そうだ、そうだったら、今もあいつは生きていたはずなのに……。俺と関わったばかりに、死んだ」
彼が悲しんでいても、わたしは寄り添う事しかできない。
「笑える。俺はオリビアの本名すら知らなかった」
ロスが抱えるもの。それは計り知れぬ悲しみと絶望、そして深い後悔だった。
だけど、とわたしは思う。
だけど、ロスもオリビアも間違ってはいなかった。
だって、お互いに好きだから側にいたんだもの。
二人にとっての二人は、いわゆる「わたしの人間」だったから、一緒にいたことは正しいはずだったし、オリビアの生き方は少しだって間違っていなかったと「彼女の犬」だったわたしは思いたかった。




