これが最後の戦いですわ!
カルロがぐでんぐでんに酔っ払い、グレイとヒューに説教をかましているのをチェチーリアと共に止めていると、ふと、ロスの姿が見えなくなったことに気がついた。
ヴェロニカが部屋を見渡すと、なんとアルテミスもいない。
思い至り、急ぎ外に出ると今まさに彼は屋敷を去ろうとしていた。
温かい部屋の中と違い、外はもう暗く、身を切るような寒さに震える。
「ロス!」
彼の背中に声をかける。彼が反応するよりも早く、アルテミスがヴェロニカに駆け寄った。
やや遅れてロスも振り返る。夜の闇より黒いその瞳と目が合う。側に寄り、彼が何かを言う前に急いで冷たい手を掴んだ。
「どこに行くの? 部屋に戻りましょうよ」
「ヴェロニカ、俺は」
「皆、あなたとまだ話がしたいのよ」
嘘だった。
話がしたいのはヴェロニカだった。
「料理だって、まだあるのよ。わたしも少しは作ったの。チェチーリアも、前世のお菓子を作ったのよ。食べないで帰るつもり?」
彼は何かを言いたげだ。言葉にせずとも分かる。
だけどヴェロニカは聞きたくなかった。聞けば確実に何かが終わる。
「じゃあ、ここでいいわ。少しだけよ。本当に、少しだけでいいから……あなたと話したいの」
ヴェロニカがロスの服を引っ張ると、彼も素直に従う。連れ立って玄関の扉の前の階段に腰を下ろした。アルテミスはロスの隣に行儀よく座り、気遣わしげに二人を見ている。
吐く息が白く靄になり、空に昇っていく。隣に彼の体温を感じる。もしかすると、それもこれが最後になるのかもしれなかった。
何から話そう、と考えた。どうすれば、彼を繋ぎ止められるのだろうか。
前にも一度、彼を失った。B国だ。たった一人になった。でも、味方になってくれた人もたくさんいた。“必ず帰る。愛を込めて”その言葉が今だって胸に刻まれている。
だから、その時のことを聞こうと思った。
「……B国にわたしを置いて離れている間、少しでもわたしを思い出した?」
「ああ、悪夢にうなされるほどには」
「あなたって、本当に素直じゃないわね!」
言い返すといつものよく知る笑顔で、ロスは笑った。やっぱり彼が好きだと思った。
初めて会った日、この男が死に神のようで恐ろしかった。こんな気持ちになるなんて、まさか考えてもみなかった。実際、少しでも運命がずれていたら、彼に殺されていてもおかしくはなかったのだ。
「もし、ジョーに命令されてなかったら、あなたはわたしを殺してた?」
聞いたのは自分だが、答えを聞くのが怖くなり、また別の話をした。
「っていうか、今回の始末、周りになんて言い訳したの? 金に目がくらんでA国を裏切ったボクを許してくださいって?」
「俺はジョーの芝居に気づき、伯爵家を守り真相を暴くためにわざと仕事の依頼を受けた……ということにした。納得させるために、聴取してきた奴にはやや大きな小遣いをあげたがな」
「ねえ、ちょっとかっこつけすぎじゃないの?」
「格好も、ないよりはすぎた方がいいだろ」
呆れるヴェロニカに怒るでもなく、平然とそう笑う。じゃあ、とヴェロニカは言う。
「わざわざ国に弁明したってことは、ここに残ることにしたの? 隠居生活は諦めたのね?」
ロスも頷く。
「この国も、悪いことばかりじゃないと考えを改めた。相変わらず、貴族ってのは好きになれねえが……ヴェロニカたちは、別だ。そういう人間がいるのは、俺達のような奴等には救いになる」
貴族とそうじゃない者、彼は明確に線引きをする。彼の言葉はまだ続く。
「お前が一人でジョーに対峙しようとしていると気がついたとき、許せないと思った」
その目が、ヴェロニカに向けられる。
彼の瞳に映る自分は、またしても自信がなさげだった。射貫くような視線を見続けられず、ヴェロニカは目を伏せた。
「許せなかったのは、俺自身だ。お前を一人で危険な渦の中に放り込んだ。
気づくべきだった。ヒントはたくさんあったが、多分、目を背けていたんだ。真実しか好まないお前に、俺の汚さをこれ以上見られるのはやや耐えがたいことだった」
「でも、わたしは生き抜いたわ」
「だが、あと少しで死ぬところだったぞ。首を絞められたときだけじゃない。俺の前であの弾丸を受けたときだって、なんだってあんな馬鹿な真似を……」
ロスはなぜヴェロニカが自分を庇ったのか、本気で不可解そうだった。
ヴェロニカにとっても、単身であの婚約者と向かい合うのは恐ろしいことだった。
だがロスは、森で背中を押してくれた。あの時、彼は自分の思いを断ち切ってまでヴェロニカの幸せを心から願った。それにどれほど勇気を貰ったのか、きっと彼は気づいていない。
「自分を投げ打ってまで守りたい誰かがいるって、とても幸せなことだわ」
ロスだって、いつもヴェロニカをその身をもって守ってくれていた。
彼がしてくれたことを、ヴェロニカもしただけだ。大切な人たちを守りたかった。たとえ自分を犠牲にしても、彼らを愛していたから。
それから、今度ははっきりと、彼の目を見て言った。
「わたし、あなたが大好き」
もう何度目かの告白を、またした。
ロスは黙っている。
――愛なんて、語れば語るほど陳腐になる。
それはヴェロニカがジョーに向けて言ったことだ。ならロスも、ヴェロニカが向ける一方的な愛の言葉を滑稽だと思っているだろうか。
自分で言った言葉に、今更自分で傷ついた。彼がまだ何も言わないまま、なんとも微妙な表情で固まってしまったから、意を決してヴェロニカが言った。
「自分でも変だって思うわ。だって出会って日は浅いし、全然好みのタイプじゃないもの。でも、困ったことに、あなたを愛してるの。もしあなたが、愛なんてくだらないと思っていても」
「待て。いつ俺が愛なんてくだらないと言ったんだ?」
遮るようにロスが口を開く。
意外だった。
確かに彼が言ったことではない。ヴェロニカがそう思っていただけだ。
「じゃあ、なんでそんな表情してるの?」
未だ固い表情のロスは、言葉を考えるように、ゆっくりと言った。
「……初めに関係は対等だと言ったのは俺だが、そうじゃないのはもちろん知っていた。
お前は何もかも持っている貴族のご令嬢で、俺は財産を犬しか持たない偏屈な軍人だ。周囲に愛されて育ったお前と、親の顔すら知らない俺。対等どころか、天国と地獄だ。それでどうして俺がお前に愛を語れる? 実のところ、愛など理解すらしていない」
やっと笑ったが、ひどく自嘲気味だった。
脳裏に浮かんだのは、彼が以前言ったことだ。
「あなたは、間違えるな、って言ったけど」
ヴェロニカに相応しいのは自分ではない、と彼は言っていた。それは本心だったのだろう。
「……わたし、人生において正解し続けることが、それほど正しいことだとは思えない」
その時の言葉に答えるように、言った。しかしロスは、それでも首を横に振る。
「俺は多分、いい恋人にはなれない。それからいい夫にも。どう見ても家庭向きの男じゃないだろ」
「あなたを確かに真人間とは思わないけど……別にわたしだって、たまたま貴族に生まれただけで、それほど崇高ではないわ。
人間って、誰だってそうじゃないかしら? 嫌なところも、いいところも一緒に混ざり合ってるものだわ。でも、友人でも、恋人でも家族でも、たった一人に出会ってしまったら、全部ひっくるめてその人が大切になってしまうのよ。あなたの汚れをあますところなく見たって、軽蔑したりしないわ」
「俺の何を知ってる? もうとうに分かってると思うが、語った故郷の話など、全部嘘だ」
もちろん当然分かってる。承知の上でヴェロニカはこうして食い下がっているのだ。
「今までのことが全部嘘だというのなら、これから本当のあなたを教えてくれればいいだけの話よ。また、今日から新しく二人を始めればいいじゃない」
しかしロスは沈黙する。
それが答えだと、ヴェロニカは絶望的にも悟ってしまった。
「恋人は作らない主義なの?」
ロスは困ったように少しだけ笑うと、ヴェロニカの頭をぽんと撫でた。
ヴェロニカの胸はずきりと痛む。互いを深く思い合っていても、一緒にいることを選ばないという事実が苦しかった。
「わたしを愛してるんじゃないの?」
ダメ押しとばかりに口にする。
「……いいや、愛していない」
ロスは、バサリと言い切った。ヴェロニカは泣くまいと思う。
自分で思っているよりも遙かに嘘が下手くそな、彼の望みは知っている。守るために、身を引く。いつだってそれが、彼という人間だった。
いい女なら、または人間として誇り高くいるなら、彼の考えを尊重するべきだ。それでも、悲しいことは事実だった。
今度はヴェロニカが黙った。伝えることは伝えきったし、切り札は全て使ってしまった。これ以上、彼をここに留まらせるカードを持っていない。
「じゃあ、そろそろ行く」というロスの声が聞こえても、何も言えなかった。
それからロスはやや遠慮気味に――さながら友人にそうするように――俯くヴェロニカの背を慰めるように軽く叩いた。
そして名残惜しそうなアルテミスを抱きかかえると、遂に去って行く。
黒い曇天の空から、白い氷の結晶がゆっくりと落ちてくる。初雪だ、とぼんやりと思った。
(行ってしまう、遂に彼は。もう二度と戻らない)
ただその大きな背を見守ることしかできない。
永遠の別れだ。
これから先の長い人生で、二人の道が交差することは、二度とない。
うっすらと積もった雪の上に残っていく彼のたった一人分の足跡が、言外にそれを物語る。
しかし、ロスは数歩歩いたところで、何かに思い至ったかのように振り返った。
「さっきの答えだが――」
聞こえた声に顔を上げる。
彼に投げかけた疑問は多い。どれのことだろうと考えあぐねていると言葉が続けられた。
「――どの道、殺すことはできなかったと思う。おかしな話だが、その大きな瞳に見つめられると、俺は途端一歩も動けなくなる。お前はまさに、神のような獣だった」
それから、微笑んだ。
「お前なら大丈夫だ。どんな男だって、お前を見たら好きになる。俺はずっと、人間なぞさして価値などないと思っていたが、お前に出会ってどうやら勘違いだったと知った。お前は幸せになるために生まれてきた人間だ。ヴェロニカ、必ず、そうなれ」
ヴェロニカの目はきっと赤いだろう。
(あなただって、幸せにならなきゃいけない人よ)
声を出そうとしたが、喉に詰まってなにも出てこない。
満足したのか、ヴェロニカの言葉を聞かないまま、彼は再び歩いて行く。
彼の犬の、悲痛な声がする。それが、予期せずヴェロニカの心と重なった。
――彼が行く?
男は英雄を夢見る。
全てを救い、一人いずこかへ去る……女を一人残して。残された女は、この先誰を愛そうとも、永遠に彼を思い続ける。切なく美しい物語。
――――――ありえない!!
またしても、心に闘争の炎が宿る。




