うさぎさんと遭遇ですわ!
「ち、怪しくなってきたな」
ロスが空を見て舌打ちをした。ヴェロニカもつられて上を見る。
昨日の夜から空を覆っていた分厚い雲は、ついにその包含する水分を地上めがけて放出しようとしていた。
朝になって、昨晩の謎のパンといつの間にかロスが日干ししていた魚を食べた。そして再び歩き始めたところ、雲行きが怪しくなってきたのだ。
「雨が降るのかしら?」
そう言ったとき、鼻先にぽつりと水滴が落ちてきた。
「ロス、もちろん傘は持っているんでしょうね?」
「傘は持っているかだと?」
問いを繰り返すロスはひどく不愉快そうだ。
「ああ、もちろん持ってねえよ。俺は雨の中歩けないほどか弱いご令嬢じゃないんでね」
「ええ、上流階級出身だと雨の一滴でも浴びたくないのよ。あなたのような誠実さも忠実さもない脱走兵には分からないでしょうけど」
「土の上で寝てた奴が今更なに言ってんだか」
とはいえロスも雨の中、文句を言い続けるヴェロニカを連れて歩く気はないようで、荷から大きな布のようなものを取り出した。
「簡易屋根だ。張ってしばらくしのごう」
そう言いながら手早く二本の木の間にロープを張り、そこにその布のような物を被せる。布の先にもロープを結び、それを近くの石に結びつけた。
あっという間に雨をしのげる屋根ができあがる。
「これはなんの素材でできているの?」
見たこともない未知の布に触れないようにして注意深く下に潜り込みながら尋ねた。白くそれなりの厚みがある。
「羊の毛だ。平地の遊牧民はそれを家の壁にしているらしい。羊の油がそのままついてるんで、水を防ぐ優れものだぜ。軍でも重宝してる」
「ふうん。みすぼらしいけど、まあまあいいわね」
「手伝いもしないで、口だけは達者だな」
ロスは深いため息をついた。
いよいよ雨は本降りになった。
二人の間に会話はなく、黙って並んで座っていた。ロスの見込みでは、そう遠くなく止むだろうということだ。
アルテミスは雨も厭わず濡れながら懸命に地面の匂いを嗅いでる。と、ふいに何かに気づいたようにピクリと反応した。
ヴェロニカもそちらを見ると、かわいらしい野うさぎの姿が見えた。
「あ! うさぎだ、わたし、うさぎ好きなのよね、かわいいわ!」
思いがけない出会いに喜んでいると、ロスは手元にあった長銃を手に取り、素早く撃った。
ばん、と大きな音が森の中に響く。
あまりにも一瞬の出来事に、止める暇さえなかった。ヴェロニカはぽかんと口を開けて目をしばたく。
銃口から立ち上った煙だけその場に残し、ロスは屋根の下を出ると、雨の中倒れた獲物に向かっていく。
それよりも早くアルテミスがうさぎを咥え、ロスの元に持ってきた。それを、手に取った石で数回殴り、とどめをさす。
ヴェロニカは顔をしかめる。
「……残酷だわ」
「だが獲れるときに獲っておかなきゃならん。俺が持ってる食料もそれほど多いわけじゃない。基本、現地調達、自給自足だ」
ロスの言っていることが分からないわけではない。それでも、死んだうさぎが哀れであった。
「わたし昔、うさぎのぬいぐるみ持ってたのよね」
「ほーん」
興味なさげな返答をした後で、彼はナイフを手に持った。そして視線に気づくと立ち上がり去ろうとする。
しかしヴェロニカは言った。
「気遣わなくてもよくってよ。わたしも見て良いかしら?」
ロスは意外そうな顔をする。
殺生への恐怖も嫌悪もヴェロニカは持っていた。
それでもこの同行者のことを少しでも理解しておきたいと考えたのだ。
もし喜んで殺しをするような輩であれば、少し距離を置こうと思った。
ロスはうさぎを木に逆さに吊し、器用にうさぎの皮を剥いだ。まるで服を脱がせるように簡単に皮が離れ、ピンク色の肉が露わになる。
ナイフがうさぎの腹に入れられる。裂かれ、赤い血が地面にぱっと飛び散った。思いがけずはっとする。
先ほどまでうさぎの命を巡っていた血は、鮮やかな命の色彩をしいてた。美しいと思った。
アルテミスがその血の匂いを興味深そうに嗅ぐ。
「よしよし、お前にもやるからな」
ロスはアルテミスの頭を撫でる。
「犬には優しいのね」
「人間よりはるかに信頼できるからな」
白い美しい犬は誇らしげに撫でられている。
(……そういえば小さいとき、犬が欲しかったっけ)
迷子の子犬を保護したことがある。でも、父は頑として飼うことを認めなかった。与えられるものはいつだって、娘が欲しいものではなく、父が必要とするものだった。
ヴェロニカが手を伸ばすと、アルテミスは寄ってきた。素直なその態度に思わず笑みがこぼれる。やわらかなアルテミスの体に触れる。
「毛皮を売ればそれなりの金になるがな、もったいないが、暇がねえ。今は捨てておこう」
肉を解体し終えたロスが言った。足と体、内臓、毛皮が部分ごと見事にわけられている。
もはや、かわいらしいうさぎ時代の姿は想像すらできない。
そこにあるのは魂の抜けた、ただの物体だ。
それからロスはうさぎの小さな心臓に十字の切り込みを入れた。
食べるために小さくするのかと思いきや、切り込みを入れられた心臓は木の幹と枝の間に置かれる。
「食べないの?」
「食べるが、その前にこうして神に命を捧げる」
ロスが心臓を見つめるので、ヴェロニカも見た。雨を浴びて、それは更にぬらぬらと光って見えた。
「狩猟は命と命のやりとりだ。食わなきゃ俺たちは生きられないが、獣も喜んで命を差しだしてくれるわけじゃない。だからこうして、命への感謝を忘れないようにするんだ」
語る彼の横顔を、ヴェロニカは見た。
ロスは快楽や残酷さを求めて獲物を殺すのではない。ただ生物の営みの中に自分を置いているだけだった。
ふと感じた疑問を口にする。
「ロスはもしかして、山の出身なのかしら?」
「……ああ、そうだ。親父もじいさんもこうして山で生活していた」
「じゃあ、それは、猟銃?」
ロスの背にかかる長銃に向けて尋ねた。
「いや、対人用だ」
平然と答えられる。兵士時代のものをそのまま持っているのだろう。
最初に兵士に襲われた際も、いくつも銃声がした。――その銃で、今まで一体何人殺してきたのか。
「……人も、そう?」
「人? 感謝をしろと言う意味か?」
ヴェロニカは頷く。獲物と同じように、殺した人間にも、敬意を払っているのだろうか。
ロスは少し黙った後で、慎重そうに答えた。
「信じられるのも、大切なのも、自分だけだ。俺は俺の命を守るためなら人を殺す。そこには感謝も喜びもない」
「……生きるためには、殺すこともためらわない?」
「ためらっていたら、生きていられない」
厳しい表情だった。それが、ロスの考え方らしかった。
*
焼けた肉をすすめられたが、やはり断った。
しばらくして雨が止んだので、二人と一匹はまた歩き始めた。