これが家族の絆ですわ!
もしかすると、ここで死ぬのかもしれない。黒幕も暴けず、地位も財産も名誉も取り戻すことなく。
(でも、それでもいいかもしれないわ)
父と妹は逃げおおせたはずだ。例え自分が道半ばで終わっても、二人が生きて、そして意志を継いでくれればいい。
隣にいるロスの熱いほどの体温を感じながら、ヴェロニカは不思議なほどに充足していた。
でももし、最期の会話になるならば、やはり言っておきたかった。銃声がひっきりなしに響く中、聞こえるか聞こえないかほどの声音で呟いた。
「わたし、あなたと同じように身分と経歴を偽ったわ。あなたと同じように、獣を殺して、食べたわ。あなただったら、どうするかって、いつもそう思って行動したの。
どんなに孤独でも、怖くても、戦う強さがあったのは、神様の声も、あなたの声も、ずっと聞こえていたからよ」
不安で押しつぶされそうな心を奮い立たせることができたのは、ロスという男を知っていたからだ。どんな時でも勝機を見いだす彼という存在を知っていたから、同じ人間である自分にだってそう振る舞うことは不可能ではないと思えた。
しばらく返事はなく、聞こえなかったのだと諦めた時、低い声がした。
「もし、俺の声が聞こえたとしても――」
ヴェロニカは顔を上げる。ロスは前を見たままだ。
「――それは俺じゃない。俺は側にいなかったんだから。そしてもちろん、神でもない。そんなものは存在しないから。
……だからヴェロニカ、もし、誰かの声が聞こえてたとしたら、お前自身の声だ。お前が望んだことが、お前の声として、お前に聞こえた。お前が自分に生きろと命令していたんだよ。他の誰にもできない。お前の強さだ。その手で、切り開いてきた道だ」
ヴェロニカは驚きを持ってロスを見つめる。
彼はこちらを見てはいない。銃を兵士に向けている。
生きろ、といつも誰かがヴェロニカに強く言っていた。それは神か、あるいはこの男だと思っていた。しかしどんなときも、望むのは自分で、突き動かされるような強い熱も、激しい怒りも、逃げるんじゃない戦えと告げ、何かを成せと言っていたその声の主は、他ならぬヴェロニカだと、彼は言っているのだ。
彼は神に祈らない。彼は神を信じない。彼は他人に甘えない。彼が信じているのは、自分自身だけだ。
それこそが、この男の強さの源だった。
「あなたを愛しているわ」
ふいに、言うつもりのなかった言葉が口を出た。真っ直ぐに、彼の直線的な横顔を見つめる。しかし彼はあまりにもそっけない。
「知ってるか、誘拐犯と恋に落ちることがあるんだと。自分を守るために、被害者は犯人と心理的つながりを持とうとするんだ。そいつの許可がなければ生きることもままならないから」
「そんなんじゃないわ」
ロスが何を言おうとしているか分かる。ヴェロニカは言い返すが、聞こえていなかったかのように彼は続ける。
「ああ、俺のせいだな。お前を扱いやすくするために、最初に命を預かると言ったんだった。だからお前は、生き延びるために俺に好意的になるしかなかった。そう自分を責めるな。おかしなことじゃない。生存本能として備わってる、ごく自然な現象だ。だが、勘違いするな、それは愛じゃない」
「……そんなんじゃないわ」
「じゃあ吊り橋効果だ。緊張を恋の……これは前も言ったか?」
「そんなんじゃない!」
我慢できず叫んだ。また銃弾が近くをかすめる。ロスはわざと突き放すような事を言っていると感じる。その無機質な横顔には、愛情の欠片すら滲ませてはくれない。それがいかにもわざとらしく嘘くさいと思った。
ヴェロニカの言葉は止まらない。
「そんなんじゃないわ! あなただって、本当は気づいているんでしょう!? だって触れるだけで、こんなに心臓がときめくんですもの。死んでしまいそうなくらいドキドキするのよ! それがなに!? 生存本能!? 勘違い!? そうじゃないわ。あなたのことが好きだからよ! これを愛と呼ばずに何というの!?」
ロスは黙る。思案しているようだった。次に口を開いたとき、きっとヴェロニカをやり込めようと何かを言ってくるのは知っている。だから隙を与えぬまま次の言葉を言わねばと口を出たのは、子供が言いそうな罵りだった。
「結局、あなたは怖いのよ! 怖がり! 臆病者!」
「いかにも俺は臆病者だ。だから生きてこれた」
ロスは努めて冷静に振る舞うことに決めたようだ。まともに相手にしない。これではこちらが駄々っ子のようだ。
「蛇のような男ね! だけどわたしにはあなたの気持ちが分かってるわ」
ヴェロニカは一発、敵に銃弾をくれた後、ロスに銃を向けて構えた。
「……素直になるチャンスをあげる」
「脅しのつもりか」
苦笑はしたが、しかしロスは本音のひとかけらとも思えることを言った。
「俺は、きっとお前から何もかも奪ってしまう。気高さも、美しさも、命も……」
それから、ようやくヴェロニカに顔を向けた。意外なことに怒ってはおらず、ただその黒い瞳が柔らかにヴェロニカを見つめ返す。
しかし瞳に宿る感情を否定するが如く、口調は厳しかった。
「俺じゃない。俺じゃないんだ。間違えるなヴェロニカ」
その態度はやはり気にくわない。
だがやっと、彼は話す気になったようだ。ヴェロニカはずい、と顔を更に近づけて、それからぴしゃりと言った。
「おだまり! 何が正しくて間違っているのか、決めるのはわたしよ! 誰になんと言われようとも、わたしは強い。わたしは美しい。わたしは生きてる! たとえ全部あなたに捧げたって、だからって何一つ奪えるものですか! だって内側から、無限にあふれ出てくるのよ。真の淑女というものは、誰かに幸せにして貰うんじゃない。自分で自分を幸せにするものよ!」
それから今度は銃を兵士に向けて引き金を引く。乾いた音の先で、人のうめき声が聞こえた。ロスも撃つ。顔はこちらに向いていた。
「……銃なんぞぶっ放して、本当に淑女かよ」
ヴェロニカは知っていた。人の感情は言葉ではなく、その態度に現れるものだと。いつだってロスがヴェロニカを見つめる目には、そっと触れる手には、発せられる声色には、それが宿っていると気がついていた。
ついにロスの片手がヴェロニカの背に触れ、そのまま更に引き寄せられる。二人の顔は近い。照れを隠すように、ヴェロニカは言った。
「そういえば、わたし、髪の毛切ったのよ」
「ああ」
ロスはその髪を撫でる。それがたまらなく嬉しい。
「あなたも切ったのね」
「ああ」
「わたしの真似でしょ?」
「ああ……いや、違う」
「似合ってるわ。野暮ったさが少し抜けたもの」
「そりゃどうも」
言いながら、ロスは更にヴェロニカを側に寄せる。顔が迫る。
鼻先が触れた瞬間に、彼が何をしようとしているか悟ったヴェロニカはそっと目を閉じた。夜で良かった。赤い顔を見られずにすむから。
しかし唇に熱が触れることはついになく、ロスの手はぱっと離れる。なぜ、疑問に思う。が、すぐに知ることになった。
「お姉様!」
「ヴェロニカ! ロス君!」
逃げたはずの二人。
声は家族のものだった。
アルテミスが吠える声もする。
ダン、と火花を散らしたのはグレイが持つ銃だった。
「すみません。オレには二人を止められませんでした」
少年は言葉では申し訳なさそうに、しかし少しも反省はしていなさそうな声色で言う。彼はクオーレツィオーネ一家と運命を共にすることに決めたらしい。彼とヴェロニカの間にしたって、チェチーリアを守るという共通の意識があり、そこに奇妙な絆が生まれていて、一種の同士のようなものだった。
「わたくしも戦いますわ! 大切なお姉様と、あと知らない人ですけど、そちらの殿方だけ残して逃げられません!」
「そうだとも! 大切な娘を置いていけるわけがない!」
チェチーリアとカルロが交互に言う。カルロの手には拳銃が、チェチーリアの手には木の棒が握られていた。
「木の棒でどうやって戦うのよ!」
チェチーリアはてへ、と舌先を出して笑う。
「わ、私は撃つぞ!」
そう言って引き金を引いたカルロの銃から発せられた弾丸は、兵士たちに届くどころかロスの頬をかすめ彼の後ろの木に当たった。
「ド下手くそが!! 撃たねえ方がましだ!!」
殺されかけたロスが本気で焦った声を出す。すまない、とカルロがしょんぼりと謝っている。
兵士達からしてみれば、ターゲットが一堂に集まってくれた。ロスにすれば、足手まといが倍々に増えただけだ。
しかし、ヴェロニカは喜びを感じていた。父も、妹も、ヴェロニカを大切な家族だと言ってくれた。平素家族の中にいても、ろくな会話もなく絆すらないと思っていたが、孤独だと思っていた日々の中にあっても、本当は互いをとても気にかけていた。いつだって、深い愛情の中にヴェロニカはいて、そして自分の中にもそれがあるのだと、はっきりと知った。父と妹を心の底から愛している。
またロスにしても、言葉にせずともヴェロニカを深く愛しているということを十分すぎるほど感じ取った。思い込みではないはずだ。
もう、寡黙はいらない。これ以上なにも求めない。何も取り返してはいなくとも、全て手に入れていた。ヴェロニカの心は満ち足りていた。
「お父様、チェチーリア! ついでにロスとグレイとアルテミスも! 切り抜けるわよ! 家族の絆で!」
おー! とカルロとチェチーリアが返事をした時だった。以前に増して激しい銃声が木々の間に何十発も反響する。
それは追っ手の兵のものではない。そしてこちらが放ったものでもない。
突如現れた第三者の軍勢が、凄まじい威力を持って追っ手の兵士達を一掃し始めたのである。




