ヒグマから走って逃げるのは自殺行為ですわ!
目前のその赤黒い毛を持つ巨体に気がついたのはアルテミスが一番早かった。立ち止まり、尾を丸め動かなくなってしまった。
次いで、ヴェロニカが気がついた。グレイとチェチーリアもそちらを見る。
誰も声を発せず、その獣を見た。
オオカミは、この存在を知っていたに違いない。いつだって、野生の彼らは人間よりも一歩先を行く。
「ヒグマか……!」
グレイの押し殺した声が聞こえた。
まさしく――ヴェロニカにとっては二度目の遭遇となる、ヒグマだった。
全身の毛穴から汗が噴き出す。体は水に濡れて冷たいはずなのに、それすら忘れるほどに駆け巡る血が熱く感じた。あの恐ろしさが、蘇ってくる。
幸い、ヒグマはこちらに気がついていない。ヴェロニカたちは後退する。
“もしヒグマに会ったら、刺激しないようにして、ゆっくりとその場を離れるんだ”
――ロスが言った言葉だった。
あれはエリザの屋敷を後にしてすぐの頃だっただろうか。「またヒグマに出会ったらどうしたらいいの?」となんとはなしに尋ねた。
「前にヴェロニカがやってた悲鳴を上げるってのはまずだめだ、向こうをびびらせちまうからな。出会わないようにするのが一番だが、会っちまった場合は静かに後退しろ。ヒグマにとっても人間は恐怖だ。距離が近いと相手だってストレスにになる。防衛しようと襲ってくる場合があるんだ」
「走って逃げちゃだめなの?」
「そんなの最悪の悪手だ。走るのを追ってくる習性がある。蒸気機関車並みに早いぞ、すぐ追い付かれる」
ふーん、とヴェロニカは納得する。
「逃げるものを追いかけたくなるのは人間と一緒なのね」
からかうように言うと、ロスがなんとも微妙な顔をして押し黙ったのを覚えている。
黒い獣は空中の匂いを嗅いでいる。やがて匂いの変化に気がついたのか、ピクリと止まった。
「ひ……!」
チェチーリアの小さな悲鳴が聞こえる。それをグレイが小声で落ち着かせる。
「大丈夫だ。食料が豊かな森では時たまこうして冬眠が遅い奴もいる。だけど食べ物に困らないヒグマは穏やかで、人間を襲うことはしないはずだから」
ヴェロニカはヒグマを見る。ヒグマの体には、無数の傷がある。固まった血が毛にまとわりつき、どす黒い塊を作っていた。
最悪な予感が胸をよぎる。
あり得ないと打ち消しつつも――。
(――もしかすると、ロスと一緒に滝に落ちたあのヒグマかもしれないわ)
そんな馬鹿な、絶対にあり得ない、そんなこと。でも、あの傷は? あの姿は……。あの時のあいつじゃないのか。
だとしたら、なぜ縄張りを離れたこの場所に。
またゆっくりと一歩後ずさりをしようとしたところで、確かにヒグマと目が合った。
小さな黒い目。
動物にそんな感情があるのか不明だが、そのヒグマは確かに口の端を歪めて極めて凶悪な笑みを作った――ように思えた。
(復讐のためだ……!)
何もかも仮定だ。だが、ヒグマに執着心があるというのもまた事実。
もし怪我を負わせた者たちの匂いを辿ってここまでやってきたのだとしたら。
ついにそのうちの一人を見つけたのだとしたら。それは自分の敵への復讐だ。
「きゃあああああ!」
チェチーリアが耐えかねて叫ぶ。
それが合図だったかのように、瞬間、そのヒグマは恐るべき瞬発力と早さで、こちらめがけて走ってきた。
「グ、グレイ! 凶暴じゃないって言ってたじゃないですかぁ!」
「け、怪我をしてるみたいだから、それで凶暴になってるのかもしれない!」
チェチーリアとグレイが叫びながら会話する。
――最悪の悪手。
しかし、相手がこちらを殺そうと追ってくる場合、背を向けて全速力で逃げる以外、他にどんな戦法が取れるというのだろうか。
*
雪は、その深さを更に増していく。
ヴェロニカたちは、またしても走り、そして開けた斜面に出た。白い雪の上に三人と一匹の姿は何よりも目立つ。ヒグマはその速度を緩めることなく弾丸のように走ってくる。下方にヴェロニカたち。上方にヒグマ。
絶体絶命だった。
「神様!」
チェチーリアは神に祈る。神は乗り越えられる試練しか与えないというが、乗り越えなくても特に問題のない試練は気まぐれに与えるようだ。
――ここまでか。
諦めかけるヴェロニカの頭に、最適解が浮かぶ。
ヒグマの狙いはヴェロニカだ。そうでなくとも、一人おとりになれば時間は稼げるはずだ。
一か八か。
「お姉様!?」
突然立ち止まったヴェロニカにチェチーリアが悲鳴に似た声を上げる。次の行動を察したのだ。
「二人は行って! 走り続けるのよ!!」
背中越しに二人に声をかける。
「嫌です!」
「グレイ! チェチーリアを連れてって! 守るんでしょう!?」
グレイはほんの一瞬だけ迷ったようだが、即座にチェチーリアの体を抱えると、雪積もる地面の上を走り始めた。チェチーリアのわめき声が聞こえるが、グレイは無視して走っているようだ。
ヴェロニカは向かってくるヒグマと対峙する。いつの間にか、アルテミスも隣に寄り添う。それにまた強さを貰う。
(死ぬ気はない。迎え撃つ!)
自己犠牲などなる気はなかった。
しかし、今はこれが最善だ。
馬鹿みたいに三人で力を合わせて立ち向かったところで、ヒグマに勝てるとは思えない。もし自分がここで死んでも、一人欠けるだけだ。二人は生き延びる。生存者は限りなく多い方がいい。
何を選び、何を捨てるか、それをやっているだけだ。そしてあの日、ロスが身を挺してヴェロニカを守った意味が分かったように思えた。それが正解だったか分からない。しかし彼は最善だと判断した。
(――頭を狙うのはだめだ。頭蓋は硬い)
狙うのは、心臓か肺……!
瞬間、世界の時が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。向かってくるヒグマのスピードは、ひどくのろく感じる。
声が、聞こえた気がした。
――「集中しろ。確実に敵の心臓に撃ち込め」
煩わしい。偉そうな。
――「生き延びるんだ」
ヴェロニカはとにかく腹が立っていた。猛然と向かってくるヒグマに対してだ。
この獣が、あの日現れなかったら。
そうしたらヴェロニカを助けようとしたロスが滝へ落ちることもなく、再会した彼の姿をあれほど嬉しく思ったこともないだろう。
そうであれば……きっとこんな感情抱かなかったはずだ。苛立ち、焦り、はしたなく取り乱し、あまりにも無力な自分を思い知らされるこんな感情を。まるで自分らしくない、いち早く捨て去ってしまいたいこんな感情を……。
あの日々において、ヴェロニカにはロスが必要だった。そしてロスにもヴェロニカが絶対に必要だったはずだ。
だけど、男はいつもそうだった。ヴェロニカに決して殺人をさせなかったロスのように、守ることが、女のためになると本気で勘違いをしている。だが断言するが、それは間違いだ。少なくともヴェロニカは、いつだって彼の横で一緒に戦いたかったし、そのつもりだった。何を考えているか話して欲しかったし、どんな真実でも受け入れるつもりだった。
そのことを余すことなく全て真っ直ぐに伝えたつもりだった。
それでもロスは去った。たった一人で、何も語らずに、何も分け合うことなく。
だから、ひどく腹立たしい。
「あなたに言われなくても生き延びて見せるわ!!」
叫び、ヴェロニカの指が、引き金を引く。
残りの弾は何発か。計算する。三発。
ポケットに入れている弾薬を取り出し装填している時間はない。チャンスは少ない。ここで確実に殺す。
ついに目前のこの凶悪な獣に引導を渡すときが来たのだ。――他の誰でもない、ヴェロニカ自身の手によって。




