ハイイロオオカミですわ!
また明くる日もチェチーリアをグレイに任せ一人歩いていたときだ。
遠くに鹿を見つけた。まだ、こちらに気がついていない。角のある、雄の鹿だった。
獲物を見つけてから、気づかれず、または気づかれても逃げる隙を与えずに撃つための時間は、常に秒だ。しかし相手はこちらを少しも見ない。いささかの猶予はあった。
ゆっくりと体勢を低くし、銃を構える。
森に銃声が響く。鹿は倒れる。また肉を得る。
道も間違っていないはずだ。
行程は順調に思えた。
ヴェロニカは、このとき恐らく油断していた。
それは自分だけで苦境を切り抜けたという自負があるためだし、今は妹と、それなりに頼れる青年と、そしてずっと一緒だったアルテミスが側にいたからだ。何があっても生きていけるのではないか、と。
一瞬の気の緩み、それが山においてはいつだって命取りになる。
死が隣り合わせであることを、忘れていたのだ。
*
――追跡者。
ヴェロニカたちが森に入ったときから、音も無くついてきていたに違いない。あの時、目の端に映った気配。小動物の頭蓋骨。気づいてしかるべきことだったのに。
「走って!」
二人に声をかけながら、ヴェロニカは後方に向けて銃弾を浴びせる。グレイも援護するように撃った。
それは追跡者の足にあたり、ギャン、と悲鳴を上げさせることに成功する。一瞬、その獣は足を止めた。
即座に奥から、似たような姿の獣が現れる。追跡者は全部で七頭いた。
――金色の瞳に灰と黒が混ざったような毛皮。それは、間違いなくハイイロオオカミだ。
オオカミは群れで生活する生物だ。
厳格な階級と綿密な伝達能力で獲物を確実に追い詰め、狩る。犬と良く似ているが、アルテミスとは全く別種の生き物だ。
瞳には人間と永遠にわかり合うことができない野生をあふれんばかりに湛えてた。人に向ける愛情を欠片も持ち合わせていない、合理的で冷徹、残酷な獣の目だ。
彼らの狩りは持久戦だ。こちらが弱まるのを待ち、噛みつき首の骨を折る。その強靱な顎で噛みつかれたらひとたまりもない。
森において、彼らほど最強のハンターはいない。出会ったのは最悪と言わざるを得ない。
いつか聞いた遠吠えは彼らのものだ。
獲物がいたとでも仲間に伝えていたのだろうか。あるいは縄張りを荒らす不届き者たちに鉄槌を下そうとしているのか。威嚇を繰り返しながら追ってくるのを見ると、後者が正解だろう。ついでに食事を得るにせよ。
理由がなんであれ、ヴェロニカたちは今オオカミに追われていた。
……鹿肉を持ち帰り、そして彼らがほんの目と鼻の先にいることを知り、威嚇に一発お見舞いした。それがどうやら逆効果、反感を買ったようである。
彼らも銃にひるみ、多少の距離をとっているようだが、それでも着実に詰めてくる。三人と一匹は後方を気にしながらも、走り続けることしかできない。
木々の間をでたらめに走り、土を蹴り抜けていく。囲まれてしまったら、形勢は不利だ。しだいに雪は深まり、足を取られて走りにくくなった。
ヴェロニカはチェチーリアの手を取って走った。が、チェチーリアが木の根に足を取られすっ転ぶ。二人の手は離れた。
「チェチーリア!」
すかさずオオカミがチェチーリアめがけ飛んでくるのが見えた。しかし、獣の牙に愛する人を傷つけさせないとでも言うように、グレイがオオカミと転んだ彼女の間に入り込む。
オオカミの鋭い牙が、グレイの腕にめり込む。グレイが顔を歪める。だが好都合。ヴェロニカは銃を構えた。
「撃つわ! じっとして!」
牙を食い込ませたままであればオオカミは狙いやすい。動かぬように命じ、即座に撃った。オオカミの体に当たる。急所ではない。しかしグレイもわずかに余裕ができたのか、もう片方の手に持っていた長銃を、噛みついたままのオオカミの首にぶちかました。
グレイは赤い血を体に浴びる。地面にオオカミの中身が飛び散る。
噛みつかれてから撃ち抜くまで、ほんの数秒だった。オオカミは地面に倒れ、血を流す。
群れの他の者たちは一定の距離を取り止まる。敵意をむき出しにするように低い声で唸る。勇気ある同胞の死をどう感じているのだろう、じりじりと近づいてくる。
ヴェロニカたちは、再び走り出した。
近づく度に、撃つ。距離を取る。詰められる。また撃つ。
それを繰り返したところで、幅の拾い川に出くわした。迷う暇はなかった。
「渡るのよ!」
間髪容れずに叫ぶ。水は轟音を立てている。冬の川。さぞ冷たいだろう。しかし引き返せばたちまちオオカミの爪に引き裂かれる。入るほかない。
水の中を突き進んでいく。身を切られるような冷たさがあるはずだが、それすら感じないほど必死だった。深い場所では銃だけは濡れないように頭上に掲げる。
グレイはヴェロニカとチェチーリアが流されないように、後ろから二人を包むように進む。アルテミスだけが器用に川の中をすいすいと泳いでいった。
ハイイロオオカミの群れは、一行が川の中腹までさしかかった所でついに全員追い付いた。しかし獲物は轟音を立てる水のうねりの中である。
憎々しげに――少なくともヴェロニカにはそう感じた。憎々しげに、こちらを睨みつけているが、最後まで川にまで入ってくることはなかった。
この川を境にして、縄張りが外れるらしい。
速い流れに足を取られないようにしながら渡る。冷たい水が体を濡らす。
対岸にたどり着いたとき、体はぐったりと疲れていた。
「もう、追ってこないみたいですわ」
顔面をこわばらせながらチェチーリアが言う。彼女は疲れたのか四つん這いになりながら、対岸を振り返る。オオカミはまだこちらを見ているがやはり水に入ろうとはしなかった。
しかし。
この時、もっと深く考えるべきだったのだ。――なぜオオカミが川の手前で立ち止まったのか――について。




