殺すなんて残酷ですわ!
夜が明け始め辺りが薄く白み始めた頃、ロスは少し先の木の陰に鹿がいるのを見た。ゆっくりと長銃を構える。
そして静かに引き金を引こうとした瞬間、
「ちょっと! なにしてるの!?」
揺さぶられたため銃口が鹿からずれ、しかし指はそのまま動作を続けたため、空に向けて弾を放つ。鹿は音に驚き、後ろ足を素早く蹴り上げると、飛ぶようにその場を去って行った。
アルテミスが見逃さず、それを追いかける。
「戻れアルテミス! 追わなくていい!」
ロスの声には、怒りが含まれていた。矛先は――
「なにしているはこっちの台詞だ! せっかくの獲物が逃げただろう!」
「だって、殺すなんてかわいそうよ!」
鹿を撃つのを遮ったのはヴェロニカだった。命が奪われることが恐ろしかった。しかしロスも引かない。
「かわいそうだと? ならヴェロニカ、お前はステーキも食わんのか? お前たち貴族がいつも口にする肉が、地面から生えてきているとでも思っているのか? 生きるためには、食べなきゃならん。食べるためには、殺さなきゃならん」
「殺すなんて残酷よ! わたしは殺さないものを食べて生きるわ。いいこと? あなたも殺さないで!」
「いいか、ヴェロニカ? 言ったはずだ、俺たちは対等だと。命令するな、俺のやり方に指図するんじゃない。食わずに飢えたきゃ、勝手にそうしてろ!」
さすが元兵士なだけあって、体の大きなロスがすごむと迫力がある。ヴェロニカはそれでも鹿を撃ち殺すことに抵抗があり、止めたことも後悔してはいない。
もちろん、肉も食べるし、それが動物を殺して得たものだということも知っている。
貴族の中にも狩猟を趣味とする者もいて、父であるカルロ・クオーレツィオーネ伯爵など、屋敷が一軒買えるほど高価な猟銃を持っているほどだ。
それでも、命を奪うその行為が、ヴェロニカは好きではなかった。
「チッ」
ロスは不機嫌を隠すことなく舌打ちをすると、「ここで待ってろ、動くなよ」と言ってアルテミスを連れてどこかへ行ってしまった。
一人残されたヴェロニカは立ち尽くす。
(動くなって言われたって、ここがどこかもわからないもの)
夜中、ロスは兵士たちを埋めたり、血の跡を消したり争いの跡を偽装していた。
尋ねると、「こうしておけば、ここであったのは夜盗が御者を殺したあと、ご令嬢を連れ去ったと思うだろう」ということらしい。
結局、その場を離れたのは夜が明ける直前で、ヴェロニカもロスも一睡もしていなかった。
しかし短期的にそれで誤魔化せたとしても、兵士たちが忽然と姿を消してしまったことはいずれ暴かれるはずだ。不安はまだ拭い去れてはいなかった。
(また兵士たちが追ってくるのかしら?)
森の中はまるで知らない場所だった。一人きりでいると、よりそれを感じた。
ロスにしても、どこまで信用していいのか、また何を考えているのかさっぱりわからない。
(お父様は修道院よりはましだと言っていたけど、どう考えても修道院の方がましだわ)
そして思いは、去ってしまったロスに向けられた。
(わたしを一人にするなんて。また兵士が襲ってきたらどうするの? わたしを守るのがあなたの役目なのに。それにあんなに怒るなんて、ひどいわ)
――でも確かに。生きるためには何かを食べなければならない。一理あることはある。
(少し、言い過ぎたかしら?)
帰ってきたら、謝ってやろう。だから、早く帰ってきなさい。
一向に彼は戻らない。
木々はざわめく。
服が汚れる事が嫌で、生粋のお嬢様のヴェロニカは座れない。
木にさえ、寄りかかることができない。
だから突っ立ったまま、心細さは募っていく。
(もし、ロスが怒って去ってしまったのだとしたら? 気が変わって前金だけでよくなってしまっていたら?)
なら自分は、ここで死ぬしかない。父にも妹にも知られないまま。
「おい」
ふいに声をかけられ振り向く。不機嫌は相変わらずのロスがそこにいた。
「な、なによ、急に声をかけないで! 遅かったじゃないの! まったく、どこで何をしていたの?」
安堵と共に不安をぶつけると、ロスはますます仏頂面になった。アルテミスがヴェロニカに駆け寄り前足で飛びつこうとしたので、思わず避けた。
「怒られるとは心外だな。肉がお嫌いなヴェロニカお嬢さまのために、とってきたんだ」
そう言って、肩に背負っていた麻袋を開けるとそこには小さな木の実がたくさん入っている。
「わたしのために?」
ヴェロニカが驚いて尋ねると
「死なれちゃ困るからな」
とぶっきらぼうな返事が返ってきた。
ロスはその場に座り込み、袋から木の実を取り出して食べ始めた。どうやら鹿を取り損なった彼の分も入っているようだ。
そして立ったままのヴェロニカに不審な目を向けた。
「どうした? 座らんのか?」
地面はややぬかるんでいて、落ちた葉が湿っている。そこに直に座り服を濡らすことはためらわれた。そうでなくとも、淑女として育てられたヴェロニカにとってはあまりにもはしたないことだった。
それでも。
ずっと立ちっぱなしで、足は棒のようだった。
ここには叱る父も、いいところを見せたい婚約者もいない。いるのは野人のような男と犬だけだ。
「座るわ」
ハンカチを取り出すとそれを地面の上に広げそこに座った。
ヴェロニカにとっては貴族の令嬢であることを捨てるような決死の覚悟であったが、ハンカチを見たロスは「さすがご令嬢だな」と納得したように頷いた。
麻袋の中には青緑色の実と小ぶりのブドウが入っていた。
ひとまず、信頼できるであろうブドウの方を一口食べてみる。
「すっぱいわ!! 腐ってる!!」
思わず叫び、それを地面に落とす。アルテミスが、おちたブドウの実の匂いを嗅ぎ、いくつか口に入れた。
「腐ってるわけねえだろうが。山に生えてるブドウは大体こんなもんだ。すっぱいんだよ」
ロスはそう言い、落ちたブドウでアルテミスに食べられていないものを拾い上げるとためらいなく口に放り込んだ。
「うわあ。よく食べられるわね」
いろんな意味で。
「食べれるものは食べとくのが山で生き残るこつだ。お前のように好き嫌いばかりしていると、すぐ死ぬだろうな」
言い返そうとしたが、またへそを曲げられて置き去りも嫌だと思い直し、今度は別の実を指して尋ねた。
「ブドウは見たことあるけど、これはなに?」
青緑の見たこともない木の実だった。掌の関節一つ分ほどの大きさでふぞろいな円形をしており、見た目からは熟しているようには見えない。
「サルナシだ」
「サルナシ?」
「猿が好んで食べる梨、という意味だ。だから美味いぞ」
“猿が食べる=美味い”という方程式はヴェロニカの中にはなかったが、ともあれ一口食べてみる。
それは甘いブドウのようで、その中にわずかに酸味があり、疲れが取れていくように感じた。そして自分の腹が思ったよりも空いていたことを知った。
夢中になって、サルナシを食べる。
その様子を見ながら、ロスが言った。
「腹も満たされたところで、お前のおばさんとやらの屋敷の場所をもう一度確認してもいいか」
満たされたとは言いがたいが、少し回復したヴェロニカは頷いた。
「ハイガルドに近いわ」
「ハイガルド? 馬車で行くつもりだったのか?」
ハイガルドは遠い。
「ええ、他に行き方がないし、途中で乗り継ぐつもりだったのよ」
ロスは持っていた地図を広げた。軍事用の地図らしく、右上にA国の刻印がなされている。
「今はこのあたりか」
地図の上にロスは小石を置いた。
クオーレツィオーネの屋敷からまだそう離れていない山の中だ。A国のほぼ中心に位置するこの山はそのまま山脈に続いている。
ハイガルドというのは、「高い壁」という意味で、山脈を抜けた先にあるひっそりとした田舎だ。そこの領主にヴェロニカのおばは嫁いでいた。
馬車でも数日はかかるであろうその地に歩いて行くとなると、さらに時間は要する。
「七日ほどかかるな」
ロスは地図を見ながら呟く。
「公道が使えないことを思えば、もっとかかるかもしれんな」
「山道を行くの?」
「ああ」
同意するロスに、ヴェロニカは斜面を見た。この道なき道をどうにか進んでいかなければならない。信頼していいのか分からない男とともに。
でも、道はそこしかない。
「分かったわ」
「安心しろ、俺はこの辺りの地形は熟知している。食料の確保のしかたもな」
その声を聞きながら、ヴェロニカは別の袋に入ったサルナシにまた手を伸ばした。しかし。
「すっぱい!」
口に含んだそれは、先ほどと違いすっぱかった。ロスが笑う。
「はは、食い意地が張ってるな。
それは木になっているものを熟させようと思って取ってきたやつだ。まだ実が固いし酸っぱい。さっき食べたもののような地面に落ちているものは熟してるんで甘いだろう」
「え? 地面に落ちてたの?」
「そうだ」
「わたしが食べたやつも?」
「そうだ」
「おええ」
――淑女であるわたしが地面に落ちたものを食べるなんて!
聞かなければ良かった、と思った。