わわっ神さまですわ!
しばらく歩くと坂の下へと続く獣道を見つけた。迷わずそこを行く。
動物は合理的で、無駄なことをしない。きっとこの道は沢に続いているに違いない。肉となる獣に会えなくても、水は確保できそうだった。
朝露に濡れた草をかき分けると、手と服が濡れる。昨日降った雨は、もう既に止んでいた。
と、がさり、と音がした。
見るといたのは数頭の雌のムースたちだ。ヴェロニカに気がつくととたん驚いて逃げていく。
(昨日の群れかしら?)
即座に銃を向け、発砲する。まさか当たるとは思っていなかったが、見事に一頭の後ろ足に当たったようで、そのムースはびくりと妙な動きで跳ねた。
確かに当たったはずだが歩みを止めない。なおも逃げようと跳躍するその背中を、ヴェロニカは追った。
だが洗練された動物の動きについて行けるわけもなく、瞬く間に見失ってしまう。せっかく当たったというのに、残念だと思うと同時に、別の感情が生まれた。
(かわいそうな事をしてしまったわ)
傷を負わせてしまったら、天敵のオオカミにすぐに食べられてしまうだろう。あるいは痛みで動けないか、出血多量で死ぬか。いずれにせよ、いたずらに苦しませてしまうことになる。
「だけど悔しいわ。もう少し早く気づいていたら仕留めていたかもしれないもの」
ムースが去ってしまった後に留まりながら、ヴェロニカは座った。ロスならこんな時、どうするだろうか。彼なら、きっと冷静に周囲を観察し、突破口を見つけるだろう。
そう思い、地面をなんとはなしに見ると、木の根や石の上に点々と血の跡が続いていた。先ほど撃ったムースから出た血だ。
ヴェロニカの心はまたすこし弾む。
(これを辿っていけば、弱ったムースにまた会えるかもしれない)
そうすれば苦しみをなるべく早く終わらせることができ、自分たちも食料を得ることができる。
血の跡を追っていくと、やがて緩やかな崖に出くわした。もしやと思って下を見ると、やはり、と言うべきかムースが倒れていた。慌てて逃げたムースは崖を転落したのだろう。
崖はさほど高くなく、気をつければ降りられそうだ。銃をまた握りしめ、ヴェロニカはゆっくりと下へ降りていった。
ムースに対面すると、驚くことにまだ生きていた。ヴェロニカから逃れようとするように、懸命にもがく。立ち上がる元気も、声を出す力もないようだが、それでも抵抗を続けるように前足を激しくばたつかせた。それにとどめを刺そうと銃を向けたところで、背筋がぞくりとした。
直感だった。
――――誰かが、見ている。
はっとして振り向き、視線の主に銃を向ける。その相手を確かに見つめた瞬間、しかしそれ以上動けなくなった。
少し先、張り出した岩の上に、見たこともないほど美しく巨大な牡鹿がいた。
悠然と構えるその牡鹿は、他の森の住人を圧倒するほど異質な存在感を放っている。
(王者だわ)
その牡鹿はヴェロニカを静かに見つめている。昨日見たムースなど、所詮はただの獣に過ぎない。ロスが語った“神のような獣”という言葉が耳に響く。その通り、神々しさに当てられたヴェロニカは、一歩たりとも動けなくなってしまった。
距離は離れているから分かるはずもないのに、その瞳は確かにヴェロニカに問いかける。
“なぜ、殺すのか”
森の獣を人間は搾取する。
――身勝手。残虐。
一方的な、命を奪う行為だ。
瞳が静かに問いかける。
なぜ。
まるで、世界には牡鹿と自分しかいなくなってしまったような錯覚に陥った。他の世界は遠ざかり、強烈な視線から逃れることはできない。ヴェロニカは、逸らさずに見つめ返した。
銃を、地面に置いた。
ゆっくりとその場に膝をつく。
「わたしは、生きたい。彼を、生かしたい。この行為を、許してください」
答えは出ない。代わりに神にそうするように、その牡鹿にも頭を垂れた。許しを請うように。
永遠とも思える時間が流れたような気がした。だがもしかするとほんの一瞬の出来事だったのかもしれない。もう一度ヴェロニカが視線を岩の上に戻したとき、牡鹿の姿はどこにもなく、ただ朝の光の静寂がそこを照らしているだけだった。
(今のは――)
ヴェロニカは、神を信じていた。
だから、自然と今の獣は神が姿を変えたものではないかと思った。
(わたしを、見定めに来たんだわ。生きる価値のある存在か)
去ったということは、許されたということか。
再び銃を手にとり、ムースに向けた。ムースはそれでも抵抗するように目を剥いてヴェロニカを見つめる。放っておいても死ぬであろうその獣は、なおも生にすがりつく。
そのまま、引き金を引こうと思った。が、思い直してナイフを取り出す。
銃弾にも限りがある。それに。
(簡単に命を奪うのは、やっぱり違うと思うのよ)
最後まで生きようともがきあがくこのムースの命を終わらせるものが、その行為も手に伝わらない銃によってでいいはずがない。
ナイフを取り出すと、ムースは横たわったままでさらに激しく足を動かす。それに蹴られないように細心の注意を払いながら喉元に刃を当てると、ひと思いに切り裂いた。
喉を切られているのだから、声などでないはずだった。
それでもヴェロニカは、確かにその断末魔を聞いた。
恐ろしい悲鳴が、森の中にとどろき渡る。
最後の力を振り絞って、ムースは叫び、絶命した。
命の叫びのように、ヴェロニカには感じられた。
*
ともあれ、肉を得た。横たわる動物からは既に魂は失われている。
問題はここからだ。
ヴェロニカの知識はロスのやり方を見て学んだものだ。実はロスは鹿を捌いていない。だからその方法をは知らなかった。
「でも想像はつくわ! うさぎなんかと一緒でしょう?」
そう思って木に吊そうとするが、重く、動かすことができない。
(それもそうね。ムースの体重は400キロを超えるというもの)
図鑑の知識を思い出しながら、はてどうしたものかと考えた。足の一本くらいなら持ち帰れるかもしれない。
腹を裂き、内臓を取り出す。いかなる時もこの手順を怠ってはいけないらしい。放っておくと発生するガスにより肉の味が落ちるからだ。ロスがするように、やはり心臓には切り込みを入れた。
長い時間をかけて、ムースを解体した。
毛皮がかなり上手に剥がせたので、持って帰ることにした。ロスに自慢してやろうと思ったのだ。前足は筋が外れず諦めた。後ろ足の方はゴリゴリと動かしていたら関節を外すことができたため、比較的簡単に両足を取り出した。
どのように持ち帰ろうかと逡巡した後、スカートの上に肉を乗せ、毛皮は首にかけることにした。これが一番楽に運べる。
残された肉はどうしようかと思ったが、その場にただ放置しておくのは気が引けたため、枯れ葉を体の上にかけた。
「なんだか、ヒグマの土まんじゅうみたいだわ」
そう言って、一人で笑った。
帰りがけに食べられそうな木の実を見つけたため、それもスカートの上に乗せた。
――ロスの元に戻ると、彼は起きて待っていた。ヴェロニカが鹿のももを持っているのを見ると苦笑した。それにまた、安心した。




