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襲われる馬車ですわ！

　カラカラと、馬車が走る。

　森の中の道は路面状況がすこぶる悪く、安定せずに車輪は揺れる。揺れる度にヴェロニカの気分は悪くなった。

（どうしてこのわたしが、こんな道を通らなきゃならないのよ！）

　広い道は見張りがいる可能性があると、父の案で森の中を抜けることになったのだ。

　だからヴェロニカはたった一人で馬車の中にいる。他の人間といえば外で馬の手綱を握る御者だけで、もちろん会話などない。誰もいないのをいいことに、ヴェロニカは盛大なため息をつき、先ほどの父親との会話を思い出していた。

　＊

　父の提案はこうだった。

「ヴェロニカ、お前はエ(・)リ(・)ザ(・)のところへ行きなさい。話は既につけてある」

　提案、というのはいささかの語弊があるかもしれない。

　クオーレツィオーネ伯爵が何か娘に言葉を告げるとき、それは提案ではなく決定事項であり、断る余地はないのだから。

　父は、娘二人のことを少しも愛していない、とヴェロニカとチェチーリアは思っていた。

　記憶にある限りヴェロニカが褒められたのはたった一度だけ。アルベルトと婚約を決めたときだけだ。

　婚約者のアルベルト・アルフォルトは言わずと知れた名家であるアルフォルト公爵家の嫡男で、王家の分家にあたる、Ａ国有力者というわけだ。婚約は娘の幸せを祈ってなされたわけではなく、父の出世のためだった。

　今でこそヴェロニカはアルベルトのことを好ましく思っていたし、義父となる人も良くしてくれ、交際は順調で、婚約自体に不満はなかったが。

　母が亡くなってからは、家族の会話はほとんどない。先ほどの没落云々のそれが、最近で最長だった。

　エリザというのは、クオーレツィオーネ伯爵の妹、ヴェロニカにとってのおばの名だ。ハイガルドという領地に嫁いでいる。

　父との関係の一方でおばとのそれは良好で、クリスマスには毎年プレゼントを渡し合うほどだ。

　そのおばに、秘密裏に匿ってもらうことを父が決めたのだ。

　とはいえ、ヴェロニカもこれには異議はない。修道院暮らしも、逮捕されるのもまっぴらごめんであるからだ。

　＊

　ガタン、と一際大きく揺れ、馬車は唐突に止まった。

　ぬかるみにでも乗り上げたのか、と思って待っているが、一向に動き始める気配はない。様子がおかしいことに気がつき、前の御者を見ると、彼は座ったまま俯いて動かない。

「……あの、もし？」

　たまらず声をかけると、彼の体は力なく地に落ちた。驚いていると、数人の男の話し声と靴音が聞こえる。

「この馬車か」

「間違いない」

「山道を通るとはな」

「手間取らせやがって」

　ぞっとした。声の主が誰かは知らない。だが、狙いは明らかに自分だ。

　足音は瞬く間に近づき、そして馬車の扉が乱暴に開けられる。開けたのは知らぬ男で、軍服から兵士だと分かった。

「ヴェロニカ・クオーレツィオーネだな？」

「だったらなんだと言うのです？」

　内心怖かったが、毅然と言い返す。兵士は半身だけ馬車に乗り込むと無機質に言った。

「さ(・)る(・)お(・)方(・)から、殺せとのご命令だ」

　言った瞬間、男が銃を構える。

　気丈に振る舞っていたヴェロニカの顔も、恐怖に引きつった。

（――死にたくない！）

　神に祈りが届いたのか。

　刹那、けたたましい犬の鳴き声が聞こえた。

　兵士の気がわずかな間、それる。

　その瞬間を見逃さず、兵士の体を思い切り蹴り飛ばし馬車の外へ追いやった。それから即座に反対側の扉から脱出する。

「な、なぜだ……！」

　困惑気味の声が聞こえ、銃声が暗い森に響いた。今度こそ殺されると身を硬直させたが、待てども痛みは襲ってこない。

　そしてようやく彼らの目線の先にあるのがヴェロニカの姿ではないらしいと気がつく。

　馬車の向こう側の窓の先の景色を見る。

　――犬だ。

　白い犬が、兵士に噛みついている。

　兵士はそれに怯えている。

　いや、それだけではない。

　闇に紛れるようにして、黒い何かが兵士たちを殺していた。銃声と悲鳴。察するにかなり一方的な様子だ。しかし窓枠に邪魔されて、何が起こっているのか全貌ははっきりとは分からない。

「貴様！」

　兵士はその黒いものに向けて叫び銃を構えて、銃声が一つ。しかし、次の瞬間倒れたのは叫んだ兵士の方だった。

　その黒い何かもまた銃を構えていた。煙が上っている。そこから発された弾が、兵士の命を奪ったらしい。

　そして、静寂が訪れた。

　気づいてしまった。馬車の下から、大量の血がこちらに流れてきていることに。

　向こうに人の死体がある。

「ひっ……」

　貼り付いた悲鳴をひとつ上げると、ようやくこちらに気がついたのか、その黒い何かがヴェロニカを見る。漆黒の闇の中に、その者の瞳だけが生々しくぬらぬらと光っていた。一瞬にして数人の兵士を殺した化け物。

　今度はそれに恐怖した。

　――ああ、きっとこの黒いものは、死に神に違いない。自分を殺しに来たのだ。