夫婦喧嘩は犬も食わないのですわ!
「言っとくけど、あなたが先に抱き締めたのよ!」
森の中で、ヴェロニカは叫んだ。対面するロスはうんざりしたように言い返す。
「怪我がないか確かめただけだ」
「はん! よく言うわ!」
先ほどから二人はこのような調子であるため、初めは心配そうに見つめていたアルテミスも飽きたのか丸くなり眠り始めた。
ヴェロニカはまた叫ぶ。
「すごくいやらしい手つきだったわ! 下心がないとは言わせないわよ!」
「首に手を回したのはそっちだ!」
「でも、あなたからキスしたんだわ」
「何でそんなに怒るんだ? まさか初めてだったのか?」
「そんなわけないじゃない!」
ああ言えばこう言い返してくるロスにヴェロニカは怒り心頭に発する。もちろんキスは経験済みだ。小さい時から婚約者がいるのだから当たり前だった。
ロスは頭をかく。
「女に見つめられたら、男は皆そうする」
「アルベルトはそんなことしないもの」
「じゃあアルベルトは男じゃないな」
「馬鹿言わないで! 彼は紳士よ!」
「なら、本当の恋じゃないんだな」
「じゃあ、あなたはわたしに恋をしているのね? 魅力を感じてどきどきしたんでしょう?」
「吊り橋効果って知ってるか? 恐怖や緊張を恋と勘違いするんだ。第一な、お前の方だぞ、先に……いてぇ! 蹴りやがって!」
ヴェロニカはロスのスネを力の限り蹴り上げた。チェチーリア曰く「ベンケイノナキドコロ」という場所だ。ここを蹴られたらどんな大男だって泣くらしい。あいにくロスは泣かなかったが、スネを押さえてうずくまった。
形勢が悪いと思ったヴェロニカは同情を引くことにした。
「わたし、顔に傷があるのよ!? かわいそうだと思って優しくできないわけ!?」
言われて初めて気づいたようにロスはヴェロニカの顔を見つめて目を細めた。
「傷ってまさか、それのことか? 治りかけてる、そのうっすいものを言ってるのか?」
そうよ、とばかりに鼻息をあらくするとロスは舌打ちをした。
「そんな傷がなんだ? 死ぬわけじゃあるまいし」
前に想像したとおりの言葉でヴェロニカは笑いを堪える。それを知らないロスは更に言った。
「だいたい、人間の美しさって言うものはな、見てくれじゃなくて魂に宿るもんだ」
「なるほど、あなたはわたしの魂を美しいと思っているのね」
納得をすると、ロスは今度は感心したように目を大きく見開いた。
「……まったく。大した女だよ、お前は」
*
二人の喧嘩は、一応はヴェロニカの勝利で終わった。一応、というのは最後に言い返せなくなった者の負けであるという独自ルールのためだった。
ロスが心から納得したのかは謎であるが、これ以上の言い争いは無駄だと判断したのか、それでいいと頷いた。
日が暮れ始めて、森の中に闇が迫る。こうして黙って火を見つめていると、ヴェロニカの胸に不安がよぎった。
(いつ兵士たちが襲ってきてもおかしくないわ)
追っ手は、必ずまた来る。それを思うと恐ろしかった。
だから、これからの事を考えないようにロスに話しかけた。
「あなたはいつから狩りを?」
「ガキの頃からだ」
火を見つめたまま、ロスは答える。それきり答える気はないようだったため、ヴェロニカは話題を提供した。
「わたしも野うさぎを獲ったのよ? そして捌いて食べたの」
「ヴェロニカが? まさか」
信じられない、と言いたげな表情でロスが顔を上げる。
「本当よ、アルテミスが証人よ」
「本当か、アルテミス」
アルテミスが答えるわけもないが、二人は尋ねる。ヴェロニカの膝の上に頭を乗せて撫でられていたアルテミスは何度も自分の名前を呼ばれて嬉しくなったのか尾を振った。ロスがそれを見て笑った。
火がぱちぱちと音を立てる。それがロスの顔を照らすのを、ヴェロニカは木に寄りかかりながら見つめていた。彼の顔には滝に落ちたときにできたのか、いくつも細かい傷ができていた。体にもあざがある。満身創痍で、ヴェロニカを助けに来てくれたらしい。
(……ロスはわたしのこと、好きなのかしら?)
どうしてキスをしたのか、彼の本心は分からない。
「ねえ、ロス」
また話しかける。ロスはアルテミスから視線を戻す。
「あなたは、どんな獣でも殺せるの?」
当然、そうだ、と答えが返ってくるものと考えていた。彼には実力に基づいた自信があり、ヴェロニカが邪魔した時以外、ほとんど的確に銃弾を放っていた。しかし意外にも彼は否定した。
「いや、時折、いる。殺すことのできない、神のような獣が……」
「神?」
ヴェロニカを見るロスの目が、少し細まる。
「威厳のある王のようなものだ。その目に見つめられると、俺は一歩も動けなくなる」
ロスの目があまりにも真っ直ぐにヴェロニカを見つめるものだから、逸らすことができなかった。
ヴェロニカは思う。――ロスにも殺すことができない獣、それはどんなものなのかしら?
と、ロスが不意に視線を外した。その目がぎょろりと木々の間の何かを見る。
次の瞬間、たき火を素早く消した。
「何を? きゃ!」
疑問を口にしたヴェロニカの体は乱暴に地面に押し倒された。体の上にはロスが覆い被さっている。
「ちょ、ちょっと!!」
「黙れ!」
叫ぼうとした口を手で塞がれる。心臓が早鐘のように鳴った。
(いきなりすぎるわ! 展開が、は、早すぎる……!!)
……が、ロスがヴェロニカを襲おうとしたわけではないことがすぐに分かる。
バン、と大きな音の後で、先ほどまでヴェロニカがもたれかかっていた木がえぐれたのだ。表皮がはじけ飛び、破片が顔に当たる。目を見開いた。
銃弾によるものだと理解したとき、続けて数回、発砲音とそれがどこかに当たってはじける音が聞こえた。ロスはヴェロニカを庇うように地面に伏せる。銃声が止んだ隙を突いてヴェロニカを木の陰に引きずり込んだ。
「夜の闇の中、気づかれずに近づき、これほど正確に撃ってくるとはな。今回に限って狩られる獲物はこちらのようだ」
苦々しげに言うロスの言葉を聞いて、ヴェロニカは暗闇に目をこらす。しかし何も見えない。もっと見ようと木の陰から顔を出そうとした瞬間、銃弾が鼻先をかすめた。慌てて顔を引っ込める。
ロスが長銃を構えるが、取り落とした。いつもと様子が違うことにヴェロニカは気がつく。彼の肩は赤く濡れていた。それが当たった銃弾のためであると、やや遅れて気がつく。
「あなた、怪我を……!」
先ほどヴェロニカを庇ったときに、傷を負ったらしい。血が止めどなくあふれているのが暗い闇の中でも分かった。
胸が激しくざわついた。
だがそれから、ヴェロニカにとっては悪夢のようなことが続く。アルテミスが激しく吠え立て、あろうことか敵のいる方向に走り出したのだ。
「アルテミス! 戻れ!!」
ロスのひどく焦った声の後、銃声が数発聞こえた。
悲鳴すらなく、白い犬は地面に倒れた。毛皮が赤い。
ヴェロニカは口を手で覆った。けれど声は出なかった。震える喉から出たのは、小刻みに虚空を震わす空気だけだった。
――アルテミス! あの子が……!
彼女は孤独に寄り添ってくれた大切な友人だった。その彼女が倒れているというのに、銃弾が怖くて近寄れもしない自分が歯がゆい。
ロスを見ると、彼は目を大きく見開き、呆けたように彼の犬を見つめている。そして目の前の光景がようやく現実だと理解したように歯を食いしばった次の瞬間、殺気がその全身を覆った。




