その男、怪しいですわ!
怯えるエリザの前に立つと、涙を流して謝ってきた。
「ヴォニー! 本当にごめんなさい。夫と子供たちを人質に取られていたの! あなたが現れたら、兵士を呼べと、そうしなければ家族を殺すと脅されていたのよ……!」
「おばさまは家族を愛しているものね。殺されたくないわよね」
ロスがエリザを椅子に縛り付けている間中、ヴェロニカは銃をおばに向けていた。ロスの言う敵、それはヴェロニカを兵士に売り渡したおばのエリザのことだ。
ヴェロニカの言葉に、エリザは何度も頷く。
「ええ、ええ、ヴォニー、あなたなら分かってくれるでしょう? 家族には死んで欲しくないこの気持ちが……!!」
「わたしは死んでもよかったのね」
言い放つと、エリザは驚愕したような表情を浮かべた後で黙った。
縛られたおば、そして銃を向ける自分。圧倒的に有利な立場にいるヴェロニカは、しかしひどく打ちのめされていた。エリザにとって自分は死んでもよいと切り捨てられる人間だった。残酷だが、変えようのない事実だった。
「おばさまを信じていたわ。だから、この裏切りはとても悲しい」
空虚だった。ヴェロニカのことを本当に心配している人は、この世界にいないのかもしれない。
エリザはすすり泣いていた。縛り終えたロスがヴェロニカの側により、銃を受け取る。そしてまたエリザに向けた。
「お前が望むなら、殺す」
静かにそう言うロスが本気なのは分かった。エリザの顔が再び恐怖に凍り付く。しかしヴェロニカは首を横に振った。
「いいえ。望まないわ」
死んで欲しいわけではない。ましてや、殺したいわけではもっとない。
それでもロスは銃口をエリザに向けたままだ。
「いいのか? 間接的にだが、お前を殺そうとした人間だぞ。放っておけば俺たちのことを兵士に話すだろう」
「ええ、でも、わたしはおばさまの死を望まないもの」
ヴェロニカがそう言うと、エリザは安堵したようにため息をついた。
「ありがとう、ヴォニー、ごめんなさい」
その言葉を扉の向こうに閉じ込めて、二人は屋敷を後にした。兵士がしくじったことは、命令した人物にもすぐに伝わるだろう。
(そうしたら、人質になってしまったおじさまや従兄弟たちは解放されるかしら。それとも……)
庭に縛られたアルテミスを放してやる。彼女は今まで見たこともないほど嬉しそうに何度も何度も喜びの声を上げ、ロスに飛びついた。ロスも笑顔で応じる。
本当に犬は大切なのね、とそれを横目で見た。
「ここを離れるぞ」
ロスはヴェロニカを連れて行くことが当然だという態度だった。
「でもどこへ?」
「森だ」
当たり前のことを聞くなという口調で彼は答えた。
*
紅葉の色が温かかった。木漏れ日が気持ちよかった。
以前、恐ろしいと感じた森の中が、今は自分を守る城壁のように思えた。ロスといるせいかもしれない。
「兵士たちがお前の無事を知った。俺がお前と一緒にいることも。また追ってくるだろう、さらに勢いを増してな」
「そんな……」
ヴェロニカはもう家に帰る手立てはない。ほとぼりが冷めるまで身を寄せようとしていたおばの屋敷は失われた。
家族の無事もわからない。おばに裏切られ、兵士たちに殺されかけた。ヴェロニカは今になって、恐怖を実感する。
「どうしておばさまが……」
「不思議なことじゃない」
ロスは振り向かない。
「誰も信じるな。この世界で信じられるのは、たった一人、自分だけだ」
前を歩く男の背中を見ながら、ヴェロニカはあることに気がついた。
「わたし、もうあなたに払える財産がないわ」
絶望だった。
家に帰る手段を失ったヴェロニカは約束した金を払う宛てがなくなってしまった。彼が自分を守る理由はない。もう、雇用主と使用人ではないのだ。
しかしロスは立ち止まるとヴェロニカを振り返り、真っ直ぐに見つめてきた。
「俺はお前の味方だ。金はいらない」
「味方……?」
ヴェロニカは少なからず動揺した。
ロスの目に、今にも泣き出しそうな弱々しげな少女の姿が映っている。これが自分の姿だとはにわかには信じられない。
伯爵令嬢の自分はいつも強く気高く、こんな正体なく不安そうな女の子ではないのだ。そんなこと、あってはならない。そのはずなのに……。
ヴェロニカは震えていた。恐ろしさと悲しみが蘇ってきた。立っていられなかった。
目の前のロスに、しがみつくように倒れ込む。
ロスは、その体を抱き留めた。
そのまま、彼の手が背に回り、強く抱きしめられる。
アルベルトと全然違う、大きな大人の男の体だった。汗臭いし、泥で汚れている。
「ロス……」
見上げた瞬間、彼の顔が近くにあった。
ヴェロニカはその首にそっと手を回す。
そして、どちらともなく唇を重ねた。
(……ああ、わたし、この男とキスをしているわ)
どこか冷静に、そう思う。
(……誰でもいい。側にいて欲しい)
暗闇の中の微かな光に、ヴェロニカはすがった。焦げるほど熱いその思いに身を委ねていたかった。それが我が身を焼き殺す炎だとしても今は構わない。
両手を更に首に絡めると、体を抱きしめるロスの力が強くなる。――それから、互いを貪り食い尽くすような……長いキスをした。
その温かな腕に強く抱きしめられながらも、ヴェロニカの胸には不安が広がっていた。
……疑問があったのだ。
彼はチェチーリアが妹だと知っていた。脱走兵のはずが、汚れていない軍服を着ていた。予備だと言っていた二人分の毛布。王家直属の兵士が、なぜ彼の名を知っていたのか?
でも、それを言ってしまうとたった一人の味方さえ失ってしまいそうだった。
ヴェロニカはロスの体を抱きしめ返しながら、心の中でそっと、思う。
――……ねえ、ロス。あなたは本当は、何者なの……?




