人間界に帰ってきましたわ!
結果的に、ヴェロニカの読みは当たっていた。一晩眠ったような気がしない夜を明かし、再び歩き始めた後で、森の下に道が見えたのだ。
(林道かしら……)
初めに馬車で通っていたような道だ。いくつか車輪の跡もあり、人間がいるのは確実らしい。
追っ手の兵士たちがいるのではないかと、藪の中から注意深く見回してから、安全そうだと分かるとようやく道に出た。
「兵士たちもまさかわたしが森を抜けたなんて思わないでしょうね? サバイバルしたご令嬢なんて、わたしくらいでしょう。そんなわたしと旅ができたことを、あなたも自慢に思いなさい」
アルテミスにそう言うと、犬は嬉しそうにぴょこんと飛び跳ねた。
しばらくその道を歩いていると、後方から馬車の音が聞こえた。アルテミスを抱えると、急いで藪の中に隠れる。
目の前を通りすぎていくのが本当に農夫で、恐らく空の荷馬車は商品を売りに行った帰りであると確かめた後で、道に出て叫んだ。
「ごめんくださいまし! あの、そこのお方!」
足の太い馬の手綱を握っていた中年の農夫は驚いたように馬車を止めると振り返ってきた。そしてまた目を見開いた。
「驚いたな。こんな場所に女の子がいるとは」
「ハイガルドへ行きたいの。領主の屋敷へ」
彼は突然現れた土と血で汚れた少女を見て何を考えたのか、しばし無言の後、やがて納得したかのように何度か頷いた。
「そしたら、方向は一緒だ。乗っていきな」
仔うしを売りに行った後だという空の荷馬車にアルテミスと一緒に乗り込んだ。
馬車は揺れながら、風景をどんどん変えていく。山道はほどなくして草原となった。
緑の中に点々と見えるのは草を食む飼われた羊の群れだ。農作業用の小屋が時折ぽつぽつとある。平和的な空気にほっと息をつく。ヴェロニカは人のいる場所に帰ってきた。
農夫は明るく気のいい男だった。
妻と六人いるという子供の話を語る。
「子供のためと思っていろいろ仕事を教えるんだが、ちっとも言うことききやしねえ。それどころか、おれが仕事を押しつけてやがると考えてるらしい。たまらんぜ。まったく、親の心、子知らず、ってな」
そう愚痴を言う彼はしかし楽しそうに見えた。
(この人は家族を心から愛しているのね)
ヴェロニカの膝に頭を乗せてぼんやりとするアルテミスを撫でる。
(旅は終わるわ。おばさまの家に着いたら、あなたのご主人を弔いましょう)
ロス……思えば優しい人であったのかもしれない。見ず知らずの人間を助け、そして明らかに訳ありなヴェロニカになんの事情も聞かず、黙って世話を焼いてくれた。
(感謝も言えないままだったわ)
さよなら、と心の中で呟いた。少しだけ涙がにじんだが、風が冷たかったせいだと自分に言い聞かせた。屋敷を出て、十日ほど経っていた。秋はますます深まっていた。
*
やがて見覚えのある道に出た。エリザおばの屋敷が近い。まだ幼い頃、よく家族で訪れたから道は知っていた。
農夫は陽気に口笛を吹きつつ、たまに生活の話や愚痴を語った。
太陽が正午を回った頃、おばの屋敷の前に着いた。
親切な農夫に頭を下げる。
「お礼をさせていただくわ。今はなにもないけど、後で必ず」
そう言うと、農夫は日に焼けた顔に人の良さそうな笑みを浮かべ、顔の前で手を振ってみせた。
「はっはっは、いや、お礼なんていらないよ。こんな場所でオレアデスに出会えたんだから」
「オレアデス?」
「山に住む美しい妖精の名さ」
言われたヴェロニカは思わず顔を赤らめた。
農夫はまた陽気そうに去って行った。ヴェロニカは貴族や使用人ではない人間とこれほどゆっくり話したのは初めてだと思った。
(ああいう親切な方もいるんだわ)
去りゆく荷馬車に、また頭を下げた。
「ヴォニー!!」
と、屋敷の方から大きな声が聞こえた。
よく知る声に振り返る。美しい服を纏った女性がヴェロニカに向かって屋敷の入り口から走ってくる。
「おばさま!!」
ヴェロニカも見えた人物に叫び、駆け寄った。
その人物こそ、父が秘密裏にヴェロニカを匿うように話をつけた人物、おばのエリザだったのだ。張り詰めていた心が、途端にほどける。
「ヴォニー! 心配していたのよ!」
エリザはヴェロニカを愛称である“ヴォニー”と呼び、思い切り抱きしめた。
「いつまで待っても来ないし、あなたの馬車が行方知れずになったと不穏な噂も聞いて……」
「おばさま、本当に大変だったのよ!」
「そうでしょうとも。あなたったら泥だらけじゃないの!」
そう言って、エリザはヴェロニカの頭の上からつま先まで見た。それから悲しそうに顔を歪めた。
「お兄様は、あなたが発った日に逮捕されたのよ……。財産も全て没収されてしまったの」
「お父様が!」
覚悟はしていたこととは言え、ヴェロニカは落胆した。どこかで、あの野心家の父がそう簡単に捕まるわけないと思っていたのだ。
「まあ、顔にそんな大きな傷もできてしまって……。手当するから、お風呂に入ってしまいなさい。準備させるから」
自分にそれほどひどい傷があるなんて、少しだけ不安になる。
「その犬はどうしたの?」
エリザはアルテミスを見て眉を顰める。
「わたしの犬よ。森で出会ったの」
「そう? 汚いから家には入れないでね」
その言葉にヴェロニカはぎょっとする。
言葉が分かるわけでもないが、アルテミスに汚いなどと聞かせたくはない。ロスはいつもアルテミスを「美しい」と褒め称えていたから、彼女は自分を汚いなどとつゆほども思っていないだろう。万が一にも傷ついてしまったのでは、と思ったのだ。
先に屋敷に入ったエリザを見た後で、ヴェロニカはそっとアルテミスを外につないだ。
「……大丈夫よ、あなたほど美しい犬を見たことないもの。おばさまだってあなたの魅力にすぐに気づくわ」
心配そうなアルテミスにそう話しかけて、頭を撫でてやる。この毛皮の友人を蔑んだエリザの言葉に傷ついた自分にも、驚いていた。




