ちょい悪に憧れがちですわ!
「目的がなくちゃ人は何もできないけど、逆にそれさえあれば、どんなに最低なこともできるのね! あなたのことよアーサー!」
部屋に戻るなり、ヴェロニカは見張りとして付いてきたアーサーに声を荒げた。
結局ロスはこの男に命じられた仕事を続けることになる。アーサーの目的も、シャルロッテから聞き出せはしなかった。何も進んでいない。ヴェロニカは苛立っていた。
「なにが望みなの?」
「大混乱」
カツ、とアーサーは一歩ヴェロニカに進んだ。
ヴェロニカは逆に一歩下がる。彼のような男は苦手だ。力で全てが解決できると思い込んでいる人間は、他人にどんなひどいことだって躊躇わずできる。
「そういえば、もう少しで建国記念日だな」
アーサーはまた近づき、ヴェロニカは遠ざかった。どうやら彼は、部屋に戻らずヴェロニカと遊ぶことに決めたようだ。
「本当だったら君たち夫婦も出席か? ……いや無理か。平民の男とその妻じゃな」
確かに式典には多くの貴族が出席するが、平民が出るとすれば、限られた一握りの学者か軍人だけだ。
別に出席したいとも思わないが、アーサーがヴェロニカを傷つけようと言っていることは明らかだった。
「ロスと一緒にパーティに出たことは?」
「……ないわ」
「だろうな」
「あなたが言いたいこととは違う理由よ。パーティに、価値を見いだせないからよ」
多くの貴族はロスを嫌ってる。彼を知らない者は身分の低い異国人だと思い、知っている者は冷徹な殺人者だと思っているからだ。
彼を理解しない社交界などこちらから願い下げだ。
「では出ようと思って出られるか? 無理だろう、あいつは平民だから」
アーサーがさらに近づいたので、ヴェロニカはまた下がる。とん、と壁に背をついた。
「君は想像したことがあるかい? 例えば、君の実家の風呂程度の大きさの部屋に、家族四人で住んでいる家だ。
あるいはわずかな塩としなびた葉が入っただけのスープ。前菜じゃないぜ、それが夕食だ。それから生きるために体を売る女。食べるために盗みを働く幼い子供たち。
貴族はこの国の一割にも満たない。多くは貧困で苦しむ人間だ。貧乏人が清らかだという人間もいるがそれは大きな誤解で、彼らは国を憎み、犯罪を悪とも思わない。そういう人がいると想像できるか?」
「知っているわ」
「いいや知識として知っていても、肌で感じたことはない。
だから人の本質は善で、世界は公平だと信じていられるんだ」
体が触れそうな距離に来たアーサーを蹴ろうと足を出したが、ドレスの裾が邪魔をした。
アーサーは小さく笑うと、片方の手でヴェロニカの両腕をつかみ上に拘束する。屈辱で頬は紅潮した。
「そういや、君の家には従者がいないみたいだが、庶民に憧れているのか」
「ロスが、身の回りのことを他人にさせるのを好まないからよ」
買い物や手伝いが必要なときは、実家から信頼できる使用人を呼び寄せていた。初めこそ慣れなかったが、今は誰にも邪魔をされず二人きりで過ごすことの平穏を知った。
「君たちは結婚して一年も経つが、なぜ子供を作らない?」
「彼がまだ望まないからよ」
「そうとも、あいつは自分の子などいらないだろう。だけど君は子供が欲しいと思っている」
「自分の子供を欲しがるのは当然でしょ!」
腕を動かそうとするがびくともしない。
アーサーが顔を近づける。よもやキスでもされるのではあるまいと思いつつ、顔を背けはしなかった。顎を掴まれる。
「君に俺の子供を産ませようか」
冷たい視線に、初めて怯えを見せてしまった。その気になればこの男は、ヴェロニカを殺すことだって簡単にできるのだ。
アーサーは、満足そうに目を細める。だが、屈服してはいけない。
「あなたはそんな人じゃないわ、アーサー。最低なのは否定しないけど、自分を律する立派な人よ」
アーサーが紳士的であることは一貫して変わらない。ヴェロニカの手当をしたことも、ゴシップ記者から庇ったことも、シャルロッテの策略から助け出したこともそうだ。
おぞましい彼の理想に反して、時に見せる優しさは、貴族の長男として礼儀正しく育てられた気品が漏れ出しているようだった。いかに泥臭い男に憧れようとも、それこそが、彼の素なのではないかと、思わずにはいられない。
「俺だってその気になれば、好きでもない女を義務的に抱くことくらいはできるんだ。君を名実ともに俺の妻にしてもいい」
「ロスに言いつけるわ」
アーサーもまた、ヴェロニカから目を反らさない。
「君は彼に言うのか? あなたが側にいなかったせいで、自分がアーサー・ブルースに抱かれたんだと。言えるわけあるまい」
「なぜそうやって悪ぶるの?」
アーサーの美しい瞳の奥が、微かに揺れるのを、ヴェロニカは見た。
「ブルース家は父も息子も人格者だと皆言っているわ。わたしはそんなの、偽りだと思っていたけど、一緒に暮らして分かった。
あなたの心の中には確かに優しさがある。隠しきれない善がある。本来は真面目で誠実な人なんだわ。野望さえ捨てれば、今からだってやり直せる。軍で出世して、国に貢献できるわ。
いいえ、そうじゃなくても、本当に好きな人と結婚して、血を分けた子供を作って、温かな家庭で暮らせばいいのよ」
そんな平凡な生活こそが、本当の幸福なのだとヴェロニカは信じていた。
アーサーの表情が、今度は苦悶に歪んだ。何が彼を傷つけたのかヴェロニカには分からない。だが動揺は一瞬のもので、すぐにまた、何重にも仮面を重ねた固い瞳に戻っていった。
「俺に説教か?」
アーサーはヴェロニカの腕にかけていた手を外し、一歩離れる。自由になったヴェロニカは、雰囲気の変わった彼を見つめた。
「……いいだろう、女に理想は分かるまいと思っていたが、君は賢いし、猫よりも強い好奇心を持っているからな」
いつになく真剣な顔をしていた。これから語るのが、彼の根幹に関わるものなのだと予感させる。
「……王は、生まれながらにして王だ。それは神が王を王としたからだと、大勢の人間はそう思っている。
だが、勘違いだ。貴族を貴族たらしめているのは、神ではなく平民だ。彼らの許しの上で、王侯貴族は存在しているはずなのに、今の世は逆転している。正しい国に戻さなくてはならないと、思っている」
ヴェロニカは驚いた。自由に商売をしたい商人が貴族の支配を嫌うことは知っていたが、優位な立場にある貴族の中にそういう思想を持つ者がいたとは。
だから彼は先ほど、世間知らずの貴族として暮らしてきたヴェロニカを皮肉ることを言ったのか。
「だけど……あなただって貴族じゃない」
「生まれを恥じている」
「ご両親を否定することになるわよ」
「してるんだよ、全力でね。……俺は見てしまった。人間というものが、いかに哀れで馬鹿げた存在か」
アーサーは、悔しそうに拳を握りしめた。
「国を支えるのは平民だ。だが俺たちは彼らを道具のようにしか見ていない。
戦場じゃ、それは顕著だった。彼らの命なんてないに等しい。個人はいない。彼らは皆、俺の命令で疑問なく死んでいく。俺は将校で、貴族で、彼らはそうではなかったからだ。
人間に上下はないと俺は学んできた。おかしいじゃないか。そしたらまるで、人の命に価値の違いが当然のものとして存在しているから、上下はない、平等なのだと必死に説いているようじゃないか。平等で公平だったら、そもそも言い聞かせる必要はないはずだ。息をしている人間に、さあ皆、頑張って呼吸をしましょうと誰が言う?
なぜ皆、不思議に思わない。俺とザッカリー・ウォーカーに、どんな違いがあるっていうんだ? あいつは俺より、遙かに優れていた。なのに、皆、あいつを見下していた。肌の色や顔立ちが、俺たちとは違うから。
……分かるかヴェロニカ。貴族が平民を見下し、平民もまた、自分よりも弱者を攻撃するんだ。平民の中に、貴族の支配を嫌がる者はいたよ。だがそういう奴こそ別の者を蔑んでいたんだ! 弱者を殺し、奪うことが当然の権利であるかのように振る舞っていた。どいつもこいつも腐ってる。それが栄華を極めたこの国の正体なんだよ」
熱弁に、圧倒されたのはヴェロニカの方だった。驚くべきことに、アーサーはやはり大真面目に国を憂いているらしい。
アーサーの思想は戦場において醸成されたものであることは間違いない。熾烈な戦争体験が人を変えると聞いたことがあるが、真面目すぎる人格者は想像を絶する悪意に触れ、狂ってしまったのか。
言いたいことは言ったのか、彼は一つため息を吐き、静かな声色で言った。
「君も無意識に奴を下に見ている。哀れみ同情することで、自分の欲を満たしている。彼といると自分が聖女になったような気になるか? 自分が正しくいるために、彼を側に置いているんだろう」
「わたしがロスと一緒にいるのは、彼を愛しているからよ」
さっきまでの勢いがないことは自分でも気付いていた。
アーサーは長い息を吐く。
「君は俺が誰かと結婚し、家庭を持つことができると言ったな。だが、無理だ」
ヴェロニカの感情の変化を感じ取ったのか、彼は悲しげに微笑んだ。
「――俺は、ソドムの住人さ」
心臓の鼓動が、耳にまで聞こえるかと思った。
何もかも、ヴェロニカは理解した。
アーサーがなぜヴェロニカを嫌っているのか、なぜロスにそれほど固執するのか。
あの輝くようなまなざしの意味は。
ソドムはかつて、罪により神に滅ぼされた都市の名だ。
罪とは多くの場合――……同性愛を差す。
震える声で問いかける。
「あなたは、ロスを、愛しているの?」
ヴェロニカだって、手に入らないものは山ほどある。どうしようもないもどかしさに、一人悲しんだこともある。時に自分の力ではどうしようもない運命の中に放り出されることだって往々にしてあるのだ。
胸が苦しくなった。
「愛に、飢えているのアーサー?」
だがアーサーは、ヴェロニカより遙かに冷静だった。
「俺が欲しい愛は、君には与えられない。俺は、普通の幸せを享受するのに向いていなかった。それだけの話だ。
戦果を挙げれば、父は認めてくれるかと思ったが、結局兵士は野蛮だと信じたまま逝った。母も、父の死後すぐに自分で吊ったよ。自分の人生を哀れんでな」
「男女の間の愛だけが、人の愛じゃないでしょう? どうしてお母様を殺しただなんて嘘を吐いたの?」
「同情などするな。君に哀れみを向けられる度、どんなに惨めになるか考えたことがあるのか?」
「どうしたって同情するし、心配するわ」
「なぜだ、俺を憎んでいるだろう」
そうだ、彼を憎んでいた。つい、先ほどまでは。
「だって、知ってしまったから」
ヴェロニカは、アーサーの苦しみを感じた。人であれば当然持っている孤独や悲しみを、彼も持っているのだと知った。
同時に、救えなかった大切な人のことを思い出した。あの婚約者も、どうにもならない世の常に堕ち、救いを求めていたはずなのだ。
アーサーはヴェロニカに近づくと、拒む間も与えず口づけをした。
驚きつつもヴェロニカは、唇が触れ合う柔らかな感触を感じた。
「君が、男だったらよかったのに」
顔を離したアーサーは言う。
「……さあ、もう遅い。おやすみ、ヴェロニカ」
ヴェロニカは、呼吸が早くなっていくのを感じた。人と人との間に生じる情が、二人を確かに結びつけた。ヴェロニカはアーサーに同情し、アーサーは同情をよしとしたのだ。
アーサーが部屋を出て行った後、ヴェロニカは、唇を撫でた。余韻が残るかのように、そこは微かに濡れていた。




