捕食者の頂点は人間ではないのですわ!
紅葉しかけの木の葉に日差しがおしげもなく降り注ぐ。森の中は明るかった。
歩くとぱきりと鳴る落ちた枝も、鳥の鳴き声も、慣れれば意外にも心地の良いものだ。
轟々と水の流れる音が聞こえる。小さな小川がこの近くで合流し、大きな流れとなっているらしい。
深呼吸し、森の匂いを思い切り嗅ぐ。土、葉、木、それから獣たちの息づかいを感じる。そうすると、本来の自分を取り戻せたように思え、心が落ち着いてきた。
(あり得ないわ! わたしがあんな男に、一瞬でもどきっとするなんて!)
ロスの手は大きくて温かかった。だがそれだけだ。突然のことに、心臓が驚いただけ。死んでも恋のときめきではない。
「むさい、男臭い、髭が汚い、気が利かない、怖い、背が高い、犬にしか愛情が持てない……あら?」
ロスの嫌いなところをひとつずつ挙げながら歩いていた時だ。あるものが目に入った。
(すごいわ……)
巨大な滝があった。
近くに寄り、のぞき込む。山中の水がここに集まり、出口となっているようだった。
ヴェロニカがいるのは滝の落ちる上方で、遙か下では大量の水が滝壺に流れ落ちていた。落ちながら白く水しぶきをあげるその姿は、まるで質量を持った大きな生物のようだった。
「昔の人は川をドラゴンに例えたようだけど、納得ね」
そう独り言を言いながら、さらに近づいていこうとする。と、アルテミスがヴェロニカの服を噛んで止めようとしてきた。
「クーン」
白い犬は怯えたように尾を丸め不安げに鳴き、上目遣いで見つめてくる。
「大丈夫よ、落ちたりしないわ。ちょっと見るだけ。だって、こんなに素晴らしい滝、今まで見たことある?」
止めるのを無視して滝に近寄っていく。アルテミスは付いてこず、代わりに大きく吠え始めた。
そして滝の手前のある一点だけ、土の色が違うことに気がついた。
「何かしら?」
土は掘り返されているようだ。だから、そこだけ葉がないことや湿った土により色が違う。
不思議に思ってさらに近づく。
側によると、その異様さがより分かった。
そこから、細長い獣の手足が飛び出していたのだ。
「鹿……?」
ヴェロニカは目を細める。
死んだ鹿が、木の葉と土の中に埋められている。
一番やわらかい腹の部分が、ごっそりない。死体はちぎられたように乱暴に傷ついていた。
「なによこれ……一体、誰が?」
何のためにこんなことをしているのか、その意図が全く掴めない。
急に不安になった。なにか、よくないことが起こっているのでは。不気味に思い、周りを見る。そしてあるものを発見してしまった。
巨大な動物の足跡だ。ぬかるんだ地面の上に、くっきりとした五本指。ヴェロニカの手と同じくらいか、やや大きい。
――ヒグマの気性は荒い。もし出会っていたらお前は即死だっただろう。
ロスの言葉を思い出す。あのクロクマは、何かに追われているようだった。近くに、それよりも強い動物がいる。
(まさか。でも)
もしやヒグマの足跡ではないのか?
アルテミスが更に大きく吠える。
急に背筋が凍り付き、引き返そうとした瞬間だった。対岸に、何かいるのが目に入った。それはヴェロニカを見て、真っ直ぐに向かってくる。
猛スピードでこちらに向かってくる巨大な黒い塊。クロクマとは比べものにならないほど、醜悪だった。
――ヒグマだ。
獲物を横取りされたと思った獣が、敵を排除するため殺しに来る。ヒグマとの距離は、十五メートル。殺されるまでの時間は……
「きゃああああああ!!」
ありったけの力を持ってヴェロニカは叫ぶ。
「ヴェロニカ伏せろ!!」
その声が聞こえた刹那、ヴェロニカは考えるよりも前に地面に伏せた。
遠くから聞こえたのはロスの声で、自分を助けに来たのだと、瞬時に判断したのだ。
銃声が轟く。
確かに銃弾はヒグマの胸に当たったように思えた。しかし、ヒグマは止まるどころかますます勢いをましたようだ。激流の川を意に介さず直線に走る。
瞬く間にヴェロニカの前まで来ると、後ろ足で立ち上がった。巨大なその猛獣は片手を上げ即座に振り下ろと、いとも簡単にヴェロニカの体を弾き飛ばした。衝撃を感じた時には体が宙に浮いていた。
「うぐ……!」
背中を木に強打し、視界が赤く染まる。額が割れて血が流れているためだ。ドレスが邪魔をして、ヒグマの爪はヴェロニカには届かなかった。しかし打ち所が悪かったのか、呼吸が苦しい。息が浅くしかできずに、頭はくらくらとした。ロスはまだ遠いのか、姿は見えない。
ヒグマの目が、ヴェロニカを捕らえた。獲物を横取りしようとする不成者を成敗しようとしているらしい。
逃げようとするが、体が動かない。目を見開くと野生の獣特有の凶悪な瞳が見つめ返していた。
あの鹿のように、自分のやわらかな腹部も切り取られるのだろうか。
感じた恐ろしい予感に、助けを求めたのは、神にでも、そして婚約者にでもなかった。
……なぜなら、そう言ったのは彼だからだ。助けが欲しいときは言えと――だから、必死で叫んだ。
「――ロス! ロス、助けて!」
ヒグマが突進してくる。ヴェロニカの視界を白いものがかすめる。
アルテミスがヒグマの目前で吠え立てる。一瞬だけ、ヒグマはひるんだように見えた。
そしてその隙を見逃さないとでも言うように、二度目の銃声が聞こえる。
銃弾はヒグマの体のどこかに当たったようだが、倒れない。
「化け物め……!」
ロスの声が聞こえる。もう近くまで来ているらしい。ヴェロニカは安心した。
体勢を立て直したヒグマが今度はアルテミスの体に爪を立てる。「ギャン」という大きな叫びが聞こえ、吠える声は聞こえなくなった。
白い毛皮を持つ友人の安否を確認する間もなく、再度、ヒグマがヴェロニカを見る。体中が痛くてヴェロニカは動けない。
だからヒグマが目前に来て、手を上げ命にとどめを刺す瞬間も、目を見開き見つめていた。
だが、またしてもヒグマの爪は届かなかった。
黒い獣に体当たりをかました者があったためだ。彼もまた地面に倒れるが、即座に立ち上がるとヒグマに向かい合う。
ぼんやりとしていた思考がふいにはっきりと彼を認識した。
「くそったれ! 死ぬなヴェロニカ!!」
自分をちらりと見るロスの顔が見える。その顔には見たこともないほど必死の形相が浮かんでいた。
ロスが銃を構え、撃つ。
響く銃声。放った弾はヒグマの頭蓋に当たったが跳ね返される。ヒグマはロスに怒りをぶつけんと突進する。ロスは再度引き金を引くが、不発だった。
「こんな時に……!」
悪態をついた後、銃を捨て、今度はナイフを取り出す。それを至近距離まで来たヒグマの目に突き立てた。だが恐るべきことに、それはヒグマの怒りを頂点にしただけのようだった。
ヒグマはロスに飛びかかる。
ロスはその体の下に潜り込み、そして――確かにヴェロニカを見た。
一瞬、彼が微笑んだような気がした。
そして次の瞬間、彼はヒグマを抱えて、濁流が流れる滝の下に転落していった。




