世界で一番強い人ですわ!
ようやく帰れるのかと安堵した4号は、一行の中で唯一ご機嫌だった。勝手について来た奴は、やはり勝手だ。
「親父は婿養子で……結婚ってのは、男の自由と自我が消滅する行為だと、よく言ってます。なんでオレは独身主義です」
背負うヒューに、ロスは返す。
「お前は賢い奴だ」
「ロスさんも、同類だと思っていました」
「俺もそう思っていたが――」
ところがある日目の前に、とんでもない女が現れた。
そいつは土足で人の領域を踏み荒らしたあげく、我が物顔で居座り続けた。
たまらず新天地を求めて逃げ出すが、恐ろしいことにどこまでも追いかけてきて、首を縦に振るまで引き下がらない。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸に絡め取られたと気がついた時にはもう遅く、彼女の術中に完全にはまっている。
だが何よりも恐ろしいのは、罠にかかったと気がついてもなお、妙に心地がいいことだ。
それがロスにとっての結婚だった。
「お前もいつかそうなるさ」
「それは楽しみだな……」
ヒューの弱々しい笑いが聞こえた。
話す度にヒューの血が、ロスの服を染めていく。声は先ほどよりも弱い。
「ヒュー、寝てしまえ。もうしゃべるな」
「……いいえ、無性に話したいんです。無言のまま死ぬなんて嫌だ、オレらしくない」
死なないと言い聞かせ続けていたが、少年なりに、自分の状態を悟っているらしい。
下山し、病院に担ぎ込むころは日暮れ時だろう。できる限りの処置はした。それまでヒューの命が持つことを願うしかない。
「何か、話してください」
幼い子供のように、ヒューは言う。話など思い浮かびはしなかったから、代わりに疑問を投げかける。
「亡霊を見たことがあるか?」
わずかな間の後で、不可解そうな声色が返ってきた。
「亡霊……? さあ、オレはあんまり、信じないタイプなんで……。見たことあるんですか?」
「さっきな」
冗談と捉えたのか、へえ、と返事がある。
「オレも、死んだら幽霊になるかな。……へましたオレは、あのまま放っておかれるんだろうと思ってました。ヴェロニカさんを、追わなくていいんですか」
「お前が死んだらそうするよ」
「……平気で人を殺すくせに、オレの兄貴よりも優しいんですね」
言ってから、ヒューははっとしたように謝罪した。
「すみません」
ロスの無言を怒りと感じたのか。
だが、怒りはなかった。
「何の罪もない人間を殺したこともある。お前たちの恐れは正しい。俺は畜生以下のけだものだ」
“自分が生きる唯一の道だった”
そう言えば聞こえはいいが、実際、体には血の匂いが染みついている。
「さっき、銃を撃った時、人を殺すかと思ったら、上手くできなかった。弾は変な方向に飛んでいって……。オレに人なんて、殺せない……」
「人を殺して狂った奴を知っている。殺しに向いてない善人というものはいる」
「人を殺して平気な奴は、皆悪人ですか?」
「例外はあるが、少なくとも俺はそうだ」
ヒューが鼻を啜る音がした。
「……相手はオレを殺すつもりでいたけど、オレは敵を撃たなかったことに心底安堵しました。だけど、死にたいわけじゃなかった。殺さなきゃ死ぬ。でも殺したくない。矛盾だ。それで、分かったんです。
見たくない穢れを全部あなたに押しつけて、自分だけは綺麗なつもりでいる奴らと、結局オレは同じだった。くそのオーエンと……」
吐き出すように、ヒューは言う。
「あなたを悪人だなんて思いません」
正直なところ、善人と悪人に境界があるのかロスは知らない。
殺しに罪悪を感じたことは、今までなかった。
ロスは別に、生来の人殺しではない。
始めの殺しは、兵士になってからだった。
相手は言葉の通じない外国人だった。若い兵士は何事かを叫んで死んだ。
後にそれが母親を表すこと言葉だと知ったが、親を知らないロスは、最期に母を呼ぶということが、いまいち理解できなかった。
以前はそいつは不幸な奴だと思っていた。愛する者に会えずに死んだのだから。
だが今は、幸福だったんだろうと思う。人間のまま、死ねたのだから。
「俺は、あまり良い生き方をしてない。善人か悪人かと問われれば、自明さ――」
ヒューからの返事はない。
心臓が、嫌な鼓動を続けている。
ヒューを死なせてはならない。
チェチーリアの不安げな表情に慰めの言葉を吐いた。
親を殺したシャルロッテを、哀れに思った。
(いつから俺は――)
いつからこれほど弱くなったのか。
いつからこれほど余計な感情を抱えるようになったのか。
哀れみ同情し怒り悲しみ笑い――。
以前の自分と今の自分は、まるで違う生き物だ。
人殺しに罪悪を抱く日が来るとは、思ってもみなかった。
一人、ロスは自嘲した。
(……いつからなんて、分かりきっていることだ)
ヴェロニカに出会って始めて、自分の穢れを知った。
彼女の隣にいる自分が、綺麗だったらどれほどよかっただろうと呪った。
恐れていた。いずれこの穢れが、彼女をも染め上げてしまうのではないかと。
釣り合わないことは、己が一番よく知っている。
それでも彼女を手放せない自分に、嫌気が差す。
「……例外って、どんな人ですか」
突然ヒューの声が聞こえ、息があったかと表に出さずに安堵した。
「世界で一番、強い人間さ」
殺しても、殺されかけても、その美しさに一点の曇りも陰りもない、誇り高い女――。
ヒューが笑った気配がした。
「あなたにそこまで言わせるなんて、すごいですね、ヴェロニカさんは……」
それを最後に、二人の会話は今度こそ途絶えた。




