お姉様、色々と激やばですわ!
――少し前まで、ヴェロニカの顔には傷があった。誰もが束の間見つめるほどの、大きな傷だ。
ロスにしてもヴェロニカの顔を見る度に、左の頬に視線が止まった。彼がヴェロニカを守り切れなかった証とも言える、醜い裂け目。言葉にせずとも負い目を感じているのは知っていた。
壊死してしまえばいい。
ヴェロニカはそう思っていた。
永遠に癒えない傷跡があれば、彼はずっと見てくれるのだから。
だから傷口が塞がりそうになると、慌ててそれをひっかいた。ピリリとした痛みと滴る血を鏡越しに見て、心は仄暗い幸福に満たされた。
だが無情にも傷は治った。今はうっすらと跡が残るだけだ。
もうロスは、ヴェロニカの傷を見ることはない。彼の視線が頬で止まることはない。あの漆黒の瞳が、悲しげに揺れることもない。
その事実に、たまらなく不安に駆られる。
*
窓辺に蜘蛛がいた。
小指の爪の先ほどの、小さな蜘蛛だ。風向きに逆らうように一本の線を辿って上っていく。だがあっけなく、糸はぷつりと切られる。
蜘蛛が床にたたき落とされる前に、動くのも億劫な手で、そっと受け止めた。
手の中で蜘蛛は戸惑ったようにうごめき、やがてそそくさと、隅に逃げて行った。
「お食べよ」
空中に手を伸ばしたまま動かないヴェロニカを不思議そうに見ながら、ミシェルは言った。
今にも朽ち果てそうな小屋は、かつて猟師が使っていたのだろうか。一体、森のどの辺りなのか、見当もつかない。
確かなことは、それなりに高度のある場所だということだけだ。朝晩は冷え、痛みを増幅させた。
ミシェルによりここに運ばれたらしいヴェロニカは、動くこともままならず寝たまま過ごしていた。
質素な小屋の中には、簡易な寝具があった。どうやらミシェルが度々使っているらしい。その彼は、狭い小屋の中で、しかしヴェロニカからは距離を取りながら様子を見守っていた。
全身が痛い。打ち身が激しい。とりわけ、折れた右足は痛かった。
寝ていても、少しも良くはならない。昨日逃亡を図ったせいで悪化したこともある。今は逃げ出す気力もなかった。
「ここはどこなの? あなたの隠れ家?」
「どうしてあなたは女の格好をしているの?」
「シャルロッテとかいうあの女と知り合いなの?」
「シャルロッテもあなたの仲間なの?」
「あなたは何者なの? 反乱軍なの?」
「それともただの変態?」
ミシェルはそのどの質問にも答えず、笑った。
「相変わらず質問ばかりだね、ヴェロニカ。まるで赤ずきんと狼みたい。知ってる? 赤ずきんが狼に食べられる童話」
「違うわ。狼が腹を割かれて死ぬ話よ」
「どっちでもいいでしょう? せっかくあんたのために食べ物を持ってきたんだ。食べてよ」
「食べたくない」
「食べないと死んでしまうよ」
「死んだ方がましだわ」
「そう言わないで。丸々太った鳥だよ」
手には焼かれた肉を持っていた。
困ったように眉を下げる彼を、横目で見た。
「あんたを心配してるんだよ。元気がないからさ」
本心からの言葉に思えたが、信用など少しもしてはやらない。こちらを気遣うような態度にさえ腹が立った。
「……わたしを襲おうとしたくせに」
ミシェルは素直に頭を下げた。
「謝るよ、ごめん。もうヴェロニカが嫌がることはしないし、傷つけたりもしないよ。けが人を襲う趣味もないし」
「……あなた、男なの? それとも、心だけ女なの?」
相変わらず、ミシェルはドレスを着ている。
「男よ。女の格好が好きなだけ。だってあたし、そこらの女よりかわいいじゃない?」
うふふ、とミシェルは女性の声色で空笑いし、そして真剣な表情をした。
「ねえ。このままオレと暮らそうよ。怪我が治ってもさ」
ヴェロニカは答えない。
ずいっと、ミシェルは顔を近づける。あと数センチで触れあいそうな距離だ。
「浮気した男に貞操を守ってどうすんの? オレはあんたが思ってるよりずっと善人さ。優しくするよ、何より、惚れた女には一途だし」
やはりヴェロニカは答えない。惚れたなど、どの口が言えるのだろう。
見つめ返すと、困ったように肩をすくめ、ミシェルはすっと退いた。
「あなた、何者なの?」
何度聞いたか分からない質問をまたする。
「何者だっていいだろう? あんたを助けたいと思ってることに、変わりは無いんだから」
またしてもはぐらかされた。
どこまでが本心かは知らないが、ミシェルはヴェロニカを健気に看病している。根っからの悪人とも思えない。
これ以上会話を続ける気が失せたのか、ミシェルは立ち上がる。また森の中へ出かけていく気なのだろう。
出て行く間際、心の底から不可解そうに尋ねられた。
「評判悪いぜあんたの旦那。あんな男のどこがいいの?」
「……全部よ」
即答した。
あれほど完璧な男は、世の中どこを探したっていない。
彼が時に悪評を立てられていることは知っていたが、ヴェロニカは、あれ以上素晴らしい男性はいないと、陰口をたたいた人間全員に説教して回る覚悟はある。
ふうん、と曖昧な頷きの後、ミシェルは小屋を出て行った。
ヴェロニカは一人になる。
いつかロスと森で過ごした日々が思い起こされた。あの時は不安で不安でどうしようもなかったのに、それでも大きな何かに守られているかのような幸福を感じていた。
あの男の息づかいを感じるだけで、安心して眠ることができた。
(きっともう、あの頃はロスのことが好きだったんだわ)
今は、ほとんど眠れない。
一日中、ヴェロニカは一人だった。眠りかけると、痛みで目を覚ます。
だから、ずっと、どうしようもないことを考えていた。
(どうしてあの鹿は生きていられたのかしら)
肉は腐り、うじが沸き始めていた。死にかけの存在だったんだろうか。あとは死ぬだけの存在――死ぬだけなのに、どうしてなおも、生きるために草を食べていたりしたんだろう。命はもうすぐ終わるのに。意味がないことだ。
それに、どうしてロスは浮気なんてしたんだろう。
(わたしの何がいけなかったのかしら)
彼の意思を確認せずに勝手に婚姻届を出したから?
軍を辞めさせたから?
人前で強引に手を繋いだから?
毎朝キスをねだるから?
毎日愛していると言えと強要したから?
女の人と話すなと詰め寄ったから?
(でもそんなこと、ささいな要求だわ)
本当は彼を部屋に閉じ込めて、ヴェロニカだけのものにしたい欲望を、堪えて譲歩しているというのに。
(わたしはロスと結婚して、男の人と連絡を取るのをやめたのに。太らないように気をつけたし、いつも綺麗な格好をして、料理も頑張って、ロスの前で他の男の人を褒めたりもしないし、嫌なところがあってもぐっと我慢したのに。良い奥さんになろうって、必死に努力したのよ。なのに、こんな仕打ち、あんまりだわ……)
体が痛い。いつになく弱気だ。
冷たい床は、一層孤独を感じさせる。
別にロスは言わなかった。
男と連絡を取るなとも、綺麗でいろとも、料理をしろとも、何も言わなかった。
彼はヴェロニカに求めなかった。
まるで愛されていないのではないかと、感じていた。




