首つり革
つり革が、するすると下りてくる。
ウチはいつも座っているドア近くの席で、そのようすを見ていた。
目の前まで来たつり革は、持ち手が丸い輪の形で、とても普通の形だ。
さっきまでは長さも普通だった。
でも今は通常より垂れ下がっている。
座っているウチでさえ、手を伸ばせば届くくらいに。
どういう原理なのかなぁ?
ごおぉぉぉ、ひゅうぅぅぅ……。
もうすぐ次の駅だ。
減速するときの音が聞こえた。
輪の向こうにある窓は、真っ暗の中に、線状の光が上部を走る。
その光も徐々にぶつぶつ切れ、高速で横切っていく。
光も真っ暗な背景も薄くなると、一瞬で駅の色へと変わった。
駅名がはっきり見えると、ウチの横のドアが開く。でもそのドアからは誰も降りない。
両隣の車両からは、次々人が降りていくのに。
ひととおり待つと、いつものようにドアが閉まり、地上へとのぼる人たちの靴音は聞こえなくなる。
「席空いてる~」
「……サキ美! ここ、ヤベェ車両だ」
「あっ、そうだったね。イッくんごめんね~」
今乗ってきた二人は、何かに気づくとこの車両から逃げるようにして遠ざかった。静かなこの車両から、人の多い車両へ。
その二人だけじゃない。さっきから他のお客さんも、うっかりこの車両に乗り込むようなら隣の車両に移っていた。
実はね。
この車両、“人が首つりした”っていう噂がある車両なんだよね。
だからここの車両だけいつも人が少ないんだ。
座っているのは、そんな噂なんてまったく信じない人だけ。
ウチもその一人。
だって地下鉄に乗ってて首つりなんて、できるわけないじゃん。
どこに縄かけるの?
つり革がついている棒?
座席に足がついて踏ん張れちゃうじゃん。
そもそも人がいっぱい乗っているから、首つりしようとしてもすぐ阻止されるはずだよ。
ねっ? バカバカしい。
ウチは信じないよ。
さっきのサキ美みたく慌てて逃げるなんてダサ~い。
てか、そのサキ美たち……サキ美とイッくんだけどさ。ウチと同じクラスなのに、二人ともウチのこと気づかないで行っちゃった。
サキ美だけ離れてくれればよかったのに。
イッくんと話すチャンスだったのになぁ。
……あれ、そういえばつり革の長さが元に戻ってる。
自動で長さが変わるつり革なんてすごい。
この車両に人が乗らなすぎるから、子供とか背の低い人のためにサービスとして置いてるのかな。
でも逆効果じゃないのかな。
インスタで不気味なつり革があるって広まっちゃうんじゃない?
それならそれで人が見に来るか。それを狙ってんのかなぁ。
――あ、隣の車両にいるイッくんとサキ美の姿が見えるようになった。
ちょっとサキ美、くっつきすぎだよ。
ムカつく~~!!
|
○
――ひゅうぅぅぅ、ごおぉぉぉぉぉ……。
ウチは今日も同じ席に座っていたよ。
地下鉄が走り出して、加速していく音がする。見慣れた駅の色も過ぎ去った。
今乗ってきたお客さんが数人、前の車両まで歩いていく。
この車両に座りたくないってこともあるんだろうけど、たぶん駅に着いてドアが開いたら、すぐ階段を上がれる位置にいたいんだ。
降りたらすぐ階段が混雑しちゃうもんね。混む前にすぐ上がったほうがいいに決まってる。
それにしても、どの人もかたくなにこの車両に座ろうとしないなぁ。
「――もっと前行こうぜ。カラオケある駅だと、前のほうがすぐ上がれるしさ」
「わかった~。あ、またこの車両じゃーん、こわ~い。イッくん、早く行こ!」
サキ美とイッくんだ。後ろの車両から乗ってきたようで、前に移動しようとしている。
サキ美ったら、イッくんの腕を掴んで「こわーい!」だって。
前からああいうところ気に入らなかったんだよね。
あ、もうすぐウチの目の前を通る。
二人とも前方を見ていて、ウチが座っていることに気づかない。
ひど~い!
イッくん、こっち向いて~! ウチを誘って!
だめそうかな……あれ? また例のつり革が伸び始めた。
人の流れを感知して伸びるのかなぁ。
なんならもっと伸びて、サキ美の足を引っかけてくれればいいのに。
――そんなことを思っていたら、本当につり革がすごい速度で伸び始めた。
つり革の持ち手が床に着いてもまだ伸びる。
つり革のベルト部分がどんどん、巻き尺を伸ばすみたいに伸びていく……。
すごい仕掛けだ、どうなっているんだろう、と真上を見てもわからない。
しょうがなく視線を元に戻すと、伸びる硬いベルトによって持ち手が押し出されていくところだった。
向かいの座席へ――サキ美たちが通りすぎようとしているほうへと伸びていく。
すると、イッくんの顔に夢中だったサキ美がつまづいた。
「きゃあっ!」
サキ美はイッくんの隣でびたーんとハデに転んだ。
この車両は閑散としているから音が大きく響く。
しかもサキ美ってば、前のめりに顔から転んでんの。
制服のスカートも見事に捲れちゃって、パンツが丸見え!
ただイッくんは、スカートの状態にすぐ気づいて目をそらしつつ、サキ美を助け起こしてた。
「大丈夫か? と、とりあえずあっち行こう」
イッくんはサキ美の肩を支えて行ってしまった。
ウチの隣が空いてるんだから座ればいいのに。なんでわざわざ隣の車両まで行くんだか。
しかも残念なことに一席だけ空いてて、サキ美は座ることができた。イッくんはその正面に立ったよ。
でもサキ美、あのこっぱずかしいカッコ、マジざまぁ!
……んん?
サキ美が膝に絆創膏貼ろうとして、イッくんが膝のようすを見てる……ちょっと! 顔が近いんじゃない!?
もっと離れてよ!
――――カツン。
いたっ。何?
ウチがイライラしていると、頭頂部に固いのが当たった。
さっきのつり革だ。短くなってウチの頭くらいにまで戻っている。
実は伸びたつり革は、サキ美を転ばせてすぐ短くなったことで、二人に気づかれることはなかったんだよね。
それにしても、なんであんなに伸びたのかな。何かの故障?
……まっ、それはもういいや。
隣の車両にいる二人をもっとよく見ないと!
ウチは身を乗り出した。
――サキ美がほっぺをピンクにしてイッくんと話してた。
むかつくーっ。
えー、結局二人でカラオケ行くのかなぁ。
サキ美め、今日は行くのやめようって言えばいいのに。てか言え。
このつり革も、早く短くならないかな。
二人を観察してるのに、頭に当たって邪魔だよ。
そもそもこれ、サキ美の足を引っかけないで、首に巻きついてくれればよかったのに。
せっかく首つり自殺の噂で有名なんだから、サキ美くらい殺してよね。
――ごおぉぉぉ、ごおぉぉぉ。
……あれ、変なの。
もうすぐ次の駅に到着するんじゃないのかな。
どんどん加速していくような……。
どうでもいいや。
それよりも、サキ美とイッくん近すぎ!
もっとよく見……もうっ客が移動して、ウチの邪魔をするよ。
だからウチは座りながら上半身を、さらに横に――向かいの座席のほうに倒した。
よし、前の車両にいる二人が、これで見えるようになった。
頭に当たっていた持ち手の部分も、もうその感触がないし、これでゆっくり見られそう。
でも、あれ?
ウチの目の前に白い筋が見える。
白くて硬い……。
え。
この目の前にあるのって、…………つり革の持ち手?
ウチはびっくりして、そのつり革の持ち手から頭を引いた。
ウチの真正面に、大きく開いた、丸い持ち手が垂れ下がっている。
『ウチの頭が入りそうなくらい』大きく広がっている。
まるでウチの頭が持ち手の中に収まるのを待っている……みたいな……。
「えっ、そうなの、イッくん! ……やだぁ! ふふふ」
驚いて頭を引いたのもつかの間、隣の車両からサキ美の楽しそうな声が聞こえた。
ウチは何を話しているのか気になって、思わず横を見た。
そのときだ。
ひゅうぅぅぅ……、ぅぅぅぅぅ――――!
急に右曲がりになるような進路に入った。
この地下鉄って右に曲がることあったっけ。
てか! ちょっ、やめて~!!
サキ美たちのことはよく見えるけど、輪の中にウチの首が入っていっちゃうよ!
やだやだ~!
ウチはそれを阻止しようと左手で持ち手の部分を掴んで、自分の体を支えるために右手で手すりを掴んだ。
端っこの席に座っててよかった。
でも、これからは席を変えようかな。
つり革が伸びるのってこういう危ないこともあるようだし。
――って! ウチの首元から持ち手が離れないよ。
左手で一生懸命、前に押し出しているのに!
右に曲がってばかりだから、ウチがどんどん前へ――向かいの座席に向かう力が強くなっているよ!
イッくんの顔がよく見えるのはいいけど、そろそろどうにかして~!
…………あれっ……おかしいよ。
あっちの二人は普通に座ってるし立ってる。
ウチだけ向かい側に押されてるってこと?!
どうして!?
でも、とにかく早く抜け出さないと!
ウチは手すりを掴んでいた右手も離して、持ち手を掴むことにした。
それでわかった。
右手の感触から……、どうも……さっきまで大きく広がっていた持ち手が縮まってきている気がするってこと。
う、うそだよね?!
た、助けて!
――そうだ! イッくん。イッくん! こっち見て!
助けてよ!
サキ美のほうばっかり見てないで、ウチを助けてよ!
そうだ、もっともっと大きな声で叫ばなきゃ!
――イ……っく…………
声が、出ない、よ!
息も、吐けないよ……!
ねえ! ねえ――!!
二人とも、ちょっとでいいから横向いてよ!
いやっ、誰でもいいよ!
こっちを、見て!
ウチに気づいて!
ああっ!
指が!
指をっ、持ち手から離しちゃったよ!
だって、苦しくて。指を入れていた部分くらい浮かしたら、苦しくなくなるかなって思って!
でも、だめだよ。
持ち手部分がさらに縮まったよ!
あれっ!?
お尻も浮いていく!
あっ、つり革だ、長さも元の長さに戻っていくんだ!
ちょっと!
設計ミスでしょ!
地下鉄の人――!!
やだ~!!!
お尻どころか足まで浮いてるけど!
そうだっ、座席に足を乗せればいいんだ。
足、あし。
……足が、足がつかないよ!
違う。足はつくけど、変だ。踏ん張れない!
座席が、足が、透明になってるみたいだよ!
じ、じゃ、足がつかないなら手すり!
手すりを掴んで引き寄せて、手すりに足を絡ませれば……!
だめだ、手すりがすり抜けるよ!
あ、もっかい指は?!
指を持ち手の中に入れて、どうにかして壊すのは……。
だめだ……。ウチの首の肉のほうが盛り上がってる。
指が入らないよ……!
イッくん……イッくん……!
サキ美……。
サ、
サキ美、
サキ美~!
こっち見ろよ、ブリッコ!
サキ美が、サキ美が……、イッくんをとったから!
サキ美のほうが死ねばいいのに……!
そうすればウチが、イッくんと付き合えるのに!
サキ美……、
サキ美が首つって死んでよ!
ウチじゃなくて、
サキ美が!
死んで!
サキ美……が死……んで……!
ウチはやだ…………!
ねえ、
ねえ、
ねえ――!
なんで、
なんで誰もウチのこと気づかないのっ!?
誰か……!
ウチを見て……!!
ウチを助けてよ……!!!
誰か…………
だ…………か…………
……れ…………
おねが…………
…………てっ
…………
……
……
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○
「――サキ美、今日は彼と一緒に帰らないんだね」
「イッくん、委員会なんだよね」
地下鉄に女子高生二人が乗車した。
二人は空いている座席の車両ではなく、その隣の車両で立って話し込む。
「……ねえ、サキ美のクラスメートがそこの車両で自殺したって噂、ホントかな~?」
サキ美の友人がわくわくした声で、隣の車両を指さした。
「くっだらな~。そんなとこで死のうとしたら誰か気づくじゃん。つか、ウチさ、あそこでコケたし。マジ最悪~」
サキ美は鏡を取り出して、地下に下りる途中で乱れた髪を整えている。
「うっそ! あの子の恨みじゃん?! 噂じゃアンタのカレシのこと好きだったっていうし」
「はあ? 知らね。それにイッくんがあんなブス、相手にするわけないじゃん。逆恨みしないでほしいわ」
イラついて自身の髪の乱れを直したサキ美は、鏡をしまうときに件の車両を恨めし気に見た。
すると一点、奇妙な現象を発見する。
「ん? 隣の車両、よっぽど人を入れたいのかな。あそこのつり革、子供でも使いやすいように伸ばしてる」