第八話 疾風参上、即遁走……?
ぶすぶす、と良い音を立ててイカが香ばしい臭いをまき散らし始める。これには俺の口からもじゅるりと涎が垂れるのも仕方がない。
だが、これではせっかくの獣避けの香もあまり意味をなさないかもしれない。独特の鼻をツンと刺激する紫煙が、食欲を促す魚介の香ばしさと打ち消し合っている。かと言ってそのまま齧るには硬すぎるし……。
いやはや、ツクヨバナが指定されていた時点で今日は帰れないと察しておくべきだったな。昨日うまく行ったからと調子に乗っていたのかもしれない。次からは気をつけよう。
「……とりあえず、獣避けをもう少し追加しておくか」
一度干物の串を火の傍から離したところに刺し直し、俺は森の中へ潜っていく。
休息地の周辺にはそれらしく俺が今使っていたケモノクダシが植えられているため、そこから少し拝借しておく。騎士団が植えたものだろうが、こいつらは七日もすればまた生えてくる。三か月刻みで遠征する彼らにとっては何の問題もないだろう。
紫色の葉をぶら下げる太めの茎を掴んで引っこ抜き、その根っこの方を切り落として拾い集める。髭のようになっているそれを捩り合わせて紐にして、端っこから少しずつ燃やしていけば長い時間効果を発揮する獣避けの完成だ。
土から上の部分は食用なのだが、恐ろしく不味いので今は要らない。纏めて地中に埋めておけば、いずれ土の養分になるだろう。
余裕をもって指先から肘の辺りまでのものを七本くらい集めてから、俺は元の休息地に戻った。
だが、そこには新たな客が訪れていたのだった。
火の下に戻った俺の目に映ったのは、膝をついてガサゴソと薪の前で何かをやっている子供だった。長く後ろに伸ばした荒れ放題の金髪を紐で縛っており、埃だらけの襤褸切れで全身を覆っている。
「おい」
念のために右手を剣柄に当てながらそう声をかけると、相手のびくりと体が震える。
恐る恐る振り返ったその頬には、食べカスらしき汚れがこびり付いている。というかその向こうに見えるのはすでに半分以上なくなった哀れなイカの姿である。
だがそこに怒りを表すより先に俺の意識を引きとめたのは、奴の汚れた服装や行動とは真逆に、何処までも透き通る空のようなその青眼だった。
「お前、噂の盗人……【疾風】か?」
見覚えのあるその顔に思わずそう声をかけると、ダッ!!
答えるまでもなく、奴は砂煙を上げてその場から駆け出した。しかも大切そうに俺のイカはその手にしっかりと握りしめている。
「ちっ!」
背中を捉えた時にはまだ【疾風】は食事に夢中でこっちに気づいていなかったんだ。まずはそのまま取り押さえてから事情を聴くべきだったんだ。
俺も慌てて近くの土を火に放り込んでから、奴を捕まえるべくその背中を追いかけ始めた。
しかし、その足は確かにその名の示す通り速い。
森の中は障害物となる木々や蔦が多く存在し直線など存在しないのに、まるで風のようにその間をするすると通り抜けていく。子供ならではの体の小ささと、栄養不足による細い体が今ここでは奴にとって利点になっているということだ。
それでも、この森の歩き方は俺の方が一日の長がある。
同じように森の中を駆け抜ける俺の姿を振り返りざまに確認した【疾風】は、驚いたようにぎょっと目を見開いていた。それどころか、俺たちの体は少しずつその距離を縮めていく。
「逃がすか! 俺の昼飯兼晩飯を返せ!」
「……」
無言で足を速める奴を相手に俺はそれ以上叫ぶ気にならず、その分の怒りを足に込めて俺もまた更にその速度を上げる。
そのまま走り続けていると、やがてこのままでは逃げ切れないと思ったのか奴は近くに落ちていた石や木の枝なんかをしっちゃかめっちゃかに投げてきた。だが、そんなものが森の中で通用すると思っているのか。やはり奴は森を知らないな。
障害物だったはずの木が逆に俺の盾となり、奴からの攻撃をことごとく防いでくれる。
むしろそうやって攻撃することで奴の足は遅くなり、俺たちの距離は更に狭くなっていく。このままでは捕まえられると悟ったのか、ワタワタと慌てている様子が背中からも見て取れる。
そんな風に注意散漫になってしまえば――
「きゃっ!」
男にしては奇妙な叫び声をあげて、足を木の根っこにひっかけて転んでしまった。
速度が速度だけに、その小さな体は急に止まることも出来ず間抜けに転がっていく。しかし、それでも奴は決して話すまいとイカだけは胸元にしっかりと抱きしめていた。……そんなにそれが大切か。
余りに強い食べ物への執着にため息をつきながら、こちらも足を緩めてその後を追う。
気づけば奴は少し離れたところに出来ていた木のうろに、こちらにケツを突き出した状態ですっぽりとその体をはめていたのだった。
その状態のままバタバタと手足をはねさせているあたり、まさにまな板の上のコイという表現が相応しい。
「……なんというか、うん。ここまで来るとこう言うしかないというか。とりあえず、ご愁傷様?」
綺麗に捲り上がった裾の下に見える小ぶりの尻にそう言葉を投げかけられると、一度その動きを止め、その後更に激しくじたばたと足を使ってこちらに土を蹴り飛ばし始めた。
「何言ってんのこのクソやろー! いいからさっさとここからアタシを出しなさいよ!」
「いや出すわけないだろ。お前飯泥棒、俺被害者。分かってんのか? っていうか、アタシだって? その甲高い声といい、もっこりしてない股ぐらといい……お前、女なのか?」
「ぎゃーっ! 見るなこのヘンタイ!」
「いや見えてるんだから仕方ないだろ。それに幾らなんでもお前みたいな子供に欲情する趣味はない」
「うがーっ!」
ダメだ。まったく話を聞く様子がない。
「仕方ないな……とりあえず、このまま衛兵所にいって国のお役人さまを呼んでこようか」
だが、そう囁くと目の前の幼女は一気に静かになった。
さすがに兵士に突き出されるのは恐ろしいのか。
しかし、散々デタラメに走ってくれたおかげで今の場所がどこかも分からないんだ。ここから都市に戻って再び衛兵を連れて戻ってくるのは困難だ。
……さて、この状況。一体どうすればいいのだろう。
思わぬ出会いに俺は途方に暮れたまま、とりあえず減った腹の足しにするためにこの少女の足元に落ちていたイカの残骸を一齧りするのだった。