第一話 懐かしき古巣への帰還
夜の帳に包まれたはずの街の中で唯一、煌々と光を放つ扉がある。
ありとあらゆる職種の人々が安眠に身を委ねる中、彼らだけは今日も一日の疲れを吹き飛ばすためにその向こうで大量の酒精と共にどんちゃん騒ぎを繰り広げている。
タイを引き抜き、襟元のボタンを外して身軽になった姿で俺は久々にその扉を押し開けた。
「懐かしい臭いだ」
風通しの悪い石造りの建物の中には、鎧に染みついた汗や獣脂蝋燭の匂いが混ざり合った独特の空気が充満している。
昔は気にならなかったものが、今は妙に鼻につく。その違和感が、俺がこの場所から離れてどれほどの時間が経過したのかを教えてくれていた。
狭い中に敷き詰められたテーブルの隙間を潜り抜け、職員のいるカウンターへと向かう。
「こんばんは。今は大丈夫ですか」
「こんばんは。本日はどのようなご用件ですか、貴族様」
礼儀正しい答えを返す、ブラウンの口髭を生やした男前な中年の職員。場末の酒場もどきには到底似合わないその姿から【支配人】などと呼ばれている彼は、疑わし気にこちらの服装をじろじろと見つめてくる。
――長らく顔を合わせていなかったとはいえ、まさか本当に忘れられてたのか? これでも昔はほぼ専属のような扱いだったのだが。
思わず、これまでに習得した丁寧な言葉遣いが剥がれ落ちる。
「……ホントに忘れちまったのか、マスター。これでも昔は散々世話になったはずなんだけどな。髪の色のついでに記憶までもが抜け落ちたか」
「なんっ……ああ? その生意気な言葉に、黒髪と傷一つないいけ好かない女顔……っ! お前、エフォードか!?」
「ああ。まさかそんなひどい印象を持たれていたとは思わなかったが、何はともあれ久しぶりだな。何とか思い出してくれたか」
驚きと共に昔に思いをはせるマスターに、内心ほっとする。
「突然冒険者の登録証を返してきたときはなんだと思ったが、お貴族様に拾われたって風の噂に聞いたぞ。……なんだ、高そうな匂いのする酒をぶっかけられて。捨てられたのか?」
「別にそういう事じゃない。このワインの染みは別口だ」
「ほー、そうかい。じゃあなんでまた、こんなところにやってきたんだ? お前さん、今なら昔みたいにくいっぱぐれることもなかろうに。ワインかけられた仕返しに裏の依頼でもかけるつもりかね」
裏の依頼だなんて、物騒な話をあっさりと寄せてくるものだ。だが、このギルドは実際そういった汚い話も平然と紛れ込ませているものだから仕方ない。
大層な看板を掲げてはいるものの、その実態は腹を空かせて何をしでかすか分からない貧民を集めて監視するための国のシステム。服飾や商売、宿屋といった一般的な職のギルドにすらつくことの出来ない奴らはごまんといる。そういった出来損ないを、最後に金と言う名の鉄鎖で結び付けておく場所。そのためになら暗殺依頼だって喜んで勧めてくる。
それがこのギルド――【冒険者ギルド】だ。
「冗談はほどほどにな、マスター。んなことはしないさ。アンタらは誰がどういった依頼を受けているのか一つ残らず記録して報告しているってあっちで聞いたからな。後ろ暗い依頼なんてもう関わる気にはならないさ。それに、報復なら自分でやらなきゃダメだ。貧民街じゃあそうだって、マスターも知ってるはずだろう」
「そうだったな。しかしまあ、貴族の所でこっちに耳の痛い知識までも揃えてくるとは相変わらず油断も隙も無い奴だ」
「誉め言葉として受け取っとくよ」
「一応念を押しておくが――」
「話さねぇよ、別に。面倒なことになるのは分かってるからな」
冒険者になれば何にも縛られない――なんて標榜してる奴らがいるが、そういった人間こそお偉いさんの手のひらの上で弄ばれているに過ぎないなんて知ったら手が付けられなくなる。
ギラリと光ったマスターの眼に、俺は肩を竦めて頷いておいた。
「ならいいが。で、それなら何しに来たんだ。依頼するんじゃなきゃ、まさか受けるってのか?」
「いや、そのまさかさ。冒険者に復帰したくてね。ここじゃ基本的に誰だって、それこそ額に刺青を入れられた野郎だって文句なしに受け入れてくれるだろ?」
その肯定の言葉に、再びマスターの顔が驚愕に包まれた。
「まあそうだが……マジなのか」
「大マジさ。ちょっとばかし俺にも引けない理由ってものが出来たからな。なるはやで、お貴族様の前に出ても恥ずかしくないように【級位】を上げなきゃならないんだ。俺の記憶が確かなら、どのギルドでも第二級まで上がればその地を治める主に謁見する栄誉を得られるんだろ? その権利がどうしても必要なんだ」
「ほぅ……よく分からんが、良いだろう。お前の言う通り、このギルドじゃ誰だって受け入れてる。お前さんもその例外には入らないからな。それに、その顔は久々に見る真面目な顔だな。いつも煤けた顔をしていたガキが、いつの間にかそこまで真剣になれるものを見つけていたとはな。儂としても面白くなってきた……ちょっと待ってな」
初めは冗談か何かだと思っていたかもしれないが、俺の顔つきを見てその言葉が嘘ではないと察してくれたようだ。
彼は一度奥へ引っ込んだかと思うと、その手に一枚の書類を持って戻ってきた。
「お前さんは元々ギルドに所属していた経歴があるからな、新規じゃなくて復帰って形になる。それはいいか?」
「ああ」
「だけどな、ここで一つ問題が出る。止める前のお前さんは下から二つ目、第六級の冒険者だった。見習いを終えてそれなりに形にはなってきたってところだが、お前さんはそっから級位を上げないまま依頼を受け続けてきただろう? その分が積もり積もって、第五級の昇格も受けられるくらいになってるんだ」
「……そう言えばマスターも何回か勧めてきてた気がするな」
「顔が傷つくから危険な依頼は受けたくないとか寝言をほざいて断ってたがな。ま、今のお前を見ればそれもそうだって分かる。まったく、小さいころから自分の商品価値をよく分かってたみたいだな。そのキレーな女顔がなきゃ、見初められやしなかったかもしれないんだからな。今からでも演劇系に就職すればうまく行くんじゃないのかね。おっと、冒険者ギルドに来るなって言ってるわけじゃないぞ?」
ため息をつきながらも苦笑いを浮かべるマスターに、俺は見せつけるように垂れた前髪を掻きあげた。
「そっか、それを聞いて安心したよ。まあ、これでも一日たりとも手入れを怠ったことはないんだぜ? 薬屋のばっちゃんに教えてもらった薬もあったけど、何より大切なのは油断大敵夜更かし厳禁。酒だって日に一杯程度の超健康生活さ。マスターもやってみれば良いんじゃないか」
「今更やったってもう遅いさ。それよりも、そう言えばあのお方も時折ここへきてはお前を探してたぞ。薬草の目利きが出来る冒険者は少ないからってな。明日にでも顔を見せに行ってこい。と、話を戻すぞ。ともかくお前は第五級の試験を今すぐにでも受けたくなるだろうが――」
一般的に、ギルドでは所属する人員の力量を七段階の【級位】に分類している。
新人を意味する【第七級】に始まり、【第五級】まで行けば一人前として認められる。【第三級】以上は特定の貴族に立場を保証されている者がほとんどであり――。
【第二級】になれば、国の貴族もその立場を認めざるを得なくなるとされている。
それはこの貧民の集まりとして忌み嫌われている冒険者ギルドも例外ではなく、俺の狙いはそこで貴族どもに名を売れるだけの機会を掴むことだ。
「別にそこまでうぬぼれてないさ。どうせひとまず第六級の依頼をいくつか受けて、現場から離れてたぶん実力が落ちてないかどうか確認したいって腹だろ、マスター」
以前の俺が持っていたのは、新人卒業の証である【第六級】だった。
それ以上なると危険な仕事も増えるため、体格が不足していた当時はなんやかんやと理由を付けて昇格を断っていた。だが、それから数年たった今ならばその懸念も解決している。
それ以上の依頼だろうと、きちんとこなしてみせる自信がある。
まずはその自信が嘘ではないことを証明しないとな。
「その通りだ。朝になったら幾つか依頼を見繕ってやるから、話はそいつらをこなしてからだ。まさか第六級の依頼も満足にこなせないほどに落ちぶれていたら、容赦なく最下級に落とすこともあるからな」
「ああ、分かってる分かってる。話はそんな所か?」
「そうだ。まだ気になる所はあるか?」
そう尋ねる彼に、俺は「実は……」と切り出した。
「さっきお嬢さまと別れてきたばかりなんだよ」
「つまり?」
「今日寝るところがない。まさか今更屋敷に入れてくれ、なんて言えるわけもないだろ? だから一晩だけ、ここの寝床を貸してくれないか。もちろん金は払う」
「……お前にしては珍しいな、そんな後のことも考えず動くなんて。その服から考えるに、今日のパーティーで何か騒動に巻き込まれたのか?」
「……まあな」
言い淀む俺に、マスターは追撃せんとぐいっと顔を近づけてくる。
「ほうほう、そいつは是非とも拝聴したいもんだ。なんだ、そのお嬢様とやら以外の女の子をその顔で誘惑しちまったのか? で、それを断ってワインをぶっかけられた、と」
「劇の見過ぎだ。そんなどろどろの三文劇になんて、到底身を置く気にはなれないさ。ただ……」
先ほど別れたティアの顔、そして俺にワインを飛ばした白銀の瞳が脳裏をよぎり――。
「誰だって、男を張りたい時があるってマスターも言ってたよな? 俺にとっちゃ、今がまさにその時なのさ」
「……ふん、自分のことばっかり考えてたガキが、そこまで入れ込むか。良いだろう。その成長を記念して、金はタダにしてやる」
ニヤリと笑う彼から鍵を受け取ろうと手を伸ばす。しかしその瞬間、マスターはいきなりそれを引っ込めた。
一体何なんだと顔を顰める俺に、今度はマスターの方がニヤリとその豊かな口ひげの端を歪めて爆弾を放り込んできた。
「ところでその大切なお嬢さんとはもうやることはヤッたのか?」
「ぶっ!! ん、ンな訳ないだろ馬鹿親父! 俺たちの関係は清いままだよくそったれ!」
「なんだ、つまらんな。成長したかと思えば、実は成長してなかったのか。ほれ、もう良いぞ」
つまらなそうに机の上に肘をつくマスターから鍵を引ったくり、俺は赤い顔のままカウンターの奥に備え付けられた職員用の階段へと足を運ぶのだった。