第十四話 真夜中の密やかなお客さん
一応完成した薬には及第点を貰えたものの、「小鍋をかき回すのがあと三回足りません」や「今の季節のカヅキの種は擦るより潰さねばなりません」などとエフェリー師匠は容赦なく多くの有難いお言葉を狭い研究室の中で俺に突きつけてくれた。
もちろんその関係は俺としても望んでいたものなので感謝こそすれ腹立たしさはないのだが、しかし……「狭いから仕方ありませんね」と言いつつもぐいぐい身体を押し付けてくるのはどうなんですかね、師匠。
確かに以前二人とも子供の姿だったときでさえ手狭に感じられた部屋だったが、だからといって成長した俺にまで体を密着させるのはイロイロと問題があると、弟子として愚考する次第なのですが。しかも「上書きしなければ」とか言ってましたし。
間違った動きを訂正するのに、わざわざその手を掴んで母親みたいに一緒に鍋を搔き回す必要性があったのかは……未熟な俺にはサッパリだった。
そんなこんなで結局、買い入れるだけで済んだはずの増血剤まで手取り足取り修正させられつつ作らされた俺がぐったりと疲れた体で再び見上げた空は既にとっぷりと暮れていた。
――いつの間にかこんな時間にまでなってしまっていたのか。
既に人の影どころか建物の輪郭までもが朧になった街の中を歩いて、俺は冒険者ギルドへと戻る。平民街も貧民街も夜には静まり返っているというのに、そこだけは相も変わらず眩しいばかりの喧騒が扉の隙間から漏れ出ている。
いつも通りやかましい連中の間を、時々飛来してくる空の杯や床のゲロといった罠を回避しつつすり抜けて受付へと辿り着く。
と、ちょうど今の時間を担当していたのは今朝がた俺とマスターとの話を聞いていた女性だった。
「はい、本日はどのようなご用件で……」
綺麗な営業用の笑顔を向け、他の冒険者への対応と同じように要件を尋ねようとした彼女。
しかし、その言葉は俺の顔を認識した途端に途切れてしまった。どうやら彼女も今朝のことを覚えてくれていたようだ。ただ、良い意味と言うよりは――悪い意味で。
「しょ、少々お待ちください!」
ガタリと椅子を倒してまで慌てて駆けだしていった彼女は、そのまま奥の机で資料の整理をしていたらしきマスターを引っ掴んで連れてくる。
「後はこの方が冒険者様のお相手をさせていただきますのでっ。し、失礼します!」
言葉を噛みつつそう告げると、彼女はぴゅーっとこの場から走り去っていった。
巻き込まれたマスターは、一連の流れるような事態を見届けるしかなかったこちらを見て苦笑いしている。
「あの娘は平民街の、貧民街から遠い穏やかな所が出身だからな。今朝の話を冗談と軽く受け止められるほど強く育っていなくとも、そう不思議ではあるまい」
「……そんなに俺の話って怖かったか?」
「少なくとも儂らにとっては普通ではなかったな、うむ。だが、あんな醜態を晒すようでは今後も満足に仕事もこなせんだろうし、後で儂から注意をしておくかね。さてエフォード、彼女の話はもう良いだろう? 終わったのを出してくれ」
マスターがそう言うのなら俺としても特に言うことはない。
別に、依頼満了の確認をしてもらえるのであれば文句をつける気にはならないしな。
言われるがままに依頼書の束を、これまた真新しい肩掛け鞄の中から差し出す。それを軽く捲って確認した彼は、その中身が足りないことに首を傾げる。
「【疾風】の件は今日中に終わりっこないのは当たり前だが、ツクヨバナのはどうした? まさかお前ともあろうものが見つけられなかったなんてことはないだろう? そういえば背負っていた袋もないようだが」
「残念ながらそのまさか、さ。日の出ている内に蕾が見つからなかったんだ。別にあの森は俺だけのものじゃない。誰か他の人間が、根っこごと持っていったのかもな。仕方がないから、明日以降ってことでエフェリー師匠も許してくれてるってさ。あの袋はちょっと別のもので重くなり過ぎたんで、薬屋の所に置いてきたんだ」
「そうか。依頼者がそう言っているのであれば、こちらとしても問題はないんだ」
さらりと嘘をついたことは、もちろん申し訳ないと思う。
だが、誰にだって立場ってものがある。自前で薬屋を営んでいる師匠とは違い、国から派遣されているマスターに話してしまえば【疾風】のことはまず間違いなく上にあげるだろう。なにせ国の大切なお貴族様の血統に関わることなんだからな。
協力を約束した以上、流石にそこまで彼女を危険に晒すことは出来ない。
「ところでその革の鞄はなんだ、婆さんの所で貰ってきたのか?」
さすがにマスターは聖術使いの嗅覚とやらを持っていなかったようで、先ほどのエフェリーと同じように嘘を見破ることは出来なかったようだ。
小さく心の中で一息ついた俺の前で、マスターの目が先ほど依頼書を引っ張り出した茶色の鞄へと向けられる。
「ああ。薬の入った容器が簡単に割れないようになってる特別製の奴らしいんだ。これからは荒っぽい依頼も受けるだろうから、こういうのが必要になってくるんだと」
「なるほど。その発想はもっともだ。が……しかし、こっちからはあまりそいつを勧めんぞ」
そう眉を顰めるマスターは、続けてその理由を説明した。
「薬屋が期待するような探索系ならともかく、この先お前はこれまで避けてきた戦闘系の依頼も受注することになる。その際には咄嗟の事態に動ける能力が要求されるが、しっかりと体に固定できないそいつでは邪魔にならないか?」
「……あー、そこまでは考えてなかったな」
「ただでさえお前は動き回ってかく乱する戦型を取るんだ。前のと同じ、背負い型に仕立て直した方が良いのではないか」
「そうかもなぁ……」
ぽりぽりと頭を掻きながら、指摘された欠点に俺は頷く。
帰り際は積もり積もった疲労と貰えることそのものを喜んでいたせいで、実際の立ち回りでの都合まで頭が回らかなったことに今更ながら気づかされた。
「確かにマスターの言うとおりだ、ちょっと油断してた。それじゃ明日にでも、師匠に断わってから整備屋に頼んでくることにするか。どうせ元の袋も取りに行かなきゃならないんだ」
「そうしておけ。……よし、依頼者の名前も全て書かれているな。これにて依頼は終了だ。今日もよく頑張ったな」
とんとん、と依頼書の束の端を整えるマスターが顔をそう顔を綻ばせる。
「このまま晩飯を……と思ったが。気づいてるか、エフォード」
その柔らかい表情を変えぬまま、一瞬だけ僅かに視線を逸らした彼はそう呟いた。口元の動きが発音と違う。唇の動きから言葉を読み解かれないために――誰かに見られているのか?
「……いや。誰だ?」
驚いたことに、俺はその何者かに気づけなかった。そしてその存在を知った今も、背中に刺さるはずの視線が全く分からない。
かつて住んでいた地区では不用意に手を出す事態は少なかったものの、誰もが他人に対しては警戒の視線を向けていた。ひりつく様な悪意が蔓延する中で、否が応でも『誰かに見られている』ことに対しては敏感だったんだ。
もちろんその感覚はティアの屋敷の中でも、使用人や来客から絶えず受け続けてきた。だからこそ、まさか鈍っているとは思えないのだが――。
振り返って自分の目で確認したい気持ちを押さえながら、俺は唯一誰が見ているのかに気づいているマスターに問う。
「お前より先に【疾風】の捕縛依頼を受けた女だ。日が沈む前からちびちびと安酒を呑みながら酒場の様子を窺っていたから注意していたのだが、お前が入ってきた途端ずっと目を離さない。どうやらお前のお客さんみたいだな」
「ってことは、尾けられていたわけじゃないんだな」
とすれば、森の中での一件まで見られていたわけじゃなさそうだ。
そんな俺の内心を知らぬまま、マスターはその女の情報を続けて教えてくれた。
「冒険者ギルドに来たのは一月前で、特に支障もなくサクサクと依頼をこなして一気に第六級に上がったのは良かったが、その後は不思議と大人しくチマチマとどうでも良い依頼をこなすだけだ。ただ、単なるお小遣い稼ぎかと思えば、違うらしい。【疾風】の依頼が出た時には真っ先にそれを取って、それ以降他の依頼は全く受けようとしない。他に受けた奴らがすぐに諦める中でも、彼女だけはずっとその依頼を受注したままだ。――奇妙だとは思わないか?」
「確かにな。稼いだ金をその日に使う冒険者らしくない動きだ」
「ギルド側から第五級へ上げるための依頼を勧めても一顧だにしないと聞く。どうやら金稼ぎよりは、【疾風】そのものにご執心のようだな。具体的な目的までは、話したこともないから予想出来ないが」
「……なるほど。それじゃ、とりあえず目当ては依頼が被った俺から情報を吸い上げたいってところか。少なくとも向こうからいきなり襲ってきたりはしないだろ。ところで、見た目はどんな感じなんだ?」
そう尋ねると、マスターは答えようとして――首を振った。
「すまん、気づかれたようだ。今席を立って、こっちへ近づいてきた」
彼が口の動きを元に戻したのとほぼ同時に、背後からコツッ、コツッとわざとらしい女性の足音が聞こえてくる。
いったい、誰なんだ?
「こんばんわぁ」
振り返った俺の耳に届いてきたのは、聞き覚えのあるねっとりと纏わりつくような声。
その主――ジェーンと名乗っていた女は、今朝見たのと同じ縮れた赤毛を気まぐれな猫のようにゆらりゆらりとさせながら、獲物を見定めた蛇のような細い瞳でこちらを見ている。
「良い夜ねぇ、エフォードくん。ちょっとだけ貴方の時間を貰っても、良いかしらぁ?」