第十二話 師匠の鼻からは逃げられない
壁の上を歩く見張りが背中を向けた隙を見計らって、カタリーナは風を足場にして街を囲う壁を瞬く間に超えていった。そこそこの重さがあるはずなのに、彼女はまるで猿のように素早く消えていく。
森を出てから「どうやって門を突破したのか」と聞こうと思った途端に飛び上がったものだから、声を出して引き留めることは出来なかった。それで兵士に見つかっては元も子もないからな。
だが、あんな大きな背袋を抱えていれば壁の向こう側の誰かに見られる可能性が高い。出てくる時は小さい体は見えづらかったかもしれないけれど、あれでは見てくださいと言ってるようなものだ。
「……せめて、明日からは俺が中で受け渡さないとな」
やってしまったことは仕方がない。次に会った時に注意しておこう。
だが、あれほどの身軽さがあれば森の中でこれまで取りに行きにくかった素材も取れるかもな……そんな事を考えながら、俺は普通に門の前で兵にカードを差し出す。
既に出た時の人間とは交代していたために背負っていた袋がなかったことは見とがめられなかったが、素手で袋から抜き取った素材と依頼書や小道具を入れた小袋を纏めて抱えていたことは流石に不審な目で見られてしまった。……いや、鞄も持たない単なる間抜けに見えたのかもしれないが。
ともかく、今日の依頼の報酬で今度はもう少しちゃんとしたものを見繕おうかね。
あの袋は彼女に譲るとしても、これまで使っていたあれは古着屋の隅に転がっていたタダ同然のものだったからちょっと丈夫さが心配だったんだ。
どんな鞄を買おうかなと考えつつ、平民街の住人に物を何かに入れることも知らない野蛮人を見るような目を向けられながら薬屋へ向かう。
勝手知ったる扉を開けて中に入ると、いつも通り研究室に引きこもっていた師匠がやってきた。音も聞こえないのにこちらの気配を察するのは昔から変わらない。
今日は何やら鼻をひくひくとさせている。間違って粉末にした何かでも吸い込んだのか?
「こんばんは、エフォード。今日はツクヨバナを持ってくるよう申し伝えておいたはずですが……狂い咲きでもしていましたか? やけに早いようですが」
「いえ、これを見れば分かりますよね」
居室の丸机の上にどさりと手に抱えていた素材を乗せる。
それを一瞥した師匠は、眼鏡の奥に潜ませた目を軽く細める。
「ちょっと森の中で不都合が起きたもんで、あの大きな背負い袋が使えなくなっちゃったんです。ツクヨバナの株は見つけてたんですけど、あれも太陽に当てちゃダメなものですから、ね。入れる袋がない以上、また明日にしようかなと。依頼書には急ぎのモノだなんて書かれていませんでしたし……大丈夫ですよね?」
「ええ、それは問題ありませんが……。ともかく、まずは依頼書を出してください」
そう言って依頼書を差し出そうとすると、ふと彼女が顔を近づけてくる。一体なんだろうか。
「――其方の気にするであろう、署名と報酬の件をさっさと済ませてしまおうかの。話はそれからじゃ」
「は? ……い、いえ。なんでもないです、はいっ」
話はそれから、という所に首を傾げると、じろりと有無を言わさぬ瞳で睨みつけられる。
その顔に逆らったらまた毒を盛られると教え込まれているため、俺は訓練を受けた熟練の兵士のように反射的に依頼書を彼女の前に差し出すのだった。
続けて、そのまま目の前にある椅子でなく床に正座する。何故って、そうしなきゃ次は無理やり手足を操ってそうさせてくるからさ。あのしばらくの間残る嫌な痺れをくらうと、この後の繊細な作業にも支障をきたすんだ。そうして出来た失敗作を飲まされる――ああ、今思い出しただけでも顔が紫色になってくる。
彼女は机の上にあった羽ペンで依頼書にサラサラと署名を済ませ、ドスッ! っと音を立てて銀貨の入った袋を机の上に置く。加えて足の届かない高い椅子をその上で跳ねながらなんとかテーブルから横に正座する俺の方に変え、その小っちゃいあんよをこれ見よがしに組んだ。
……これは、大分頭に来てるみたいだな。
エフェリーは見た目がまんま子供だが、中身は種族的に悠久の時を生きるれっきとした大人なんだ。だからこそ子供扱いされることを嫌うし、その為に大人っぽい話し方や子供らしくない丁寧な所作を心掛ける。
それが崩れているという事は、内心かなり激怒しているご様子だ。そんなにも今日ツクヨバナが欲しかったのか?
「言いたいことは主に二つあるが……まず、エフォード。其方、私に嘘をついたな?」
「え、いやそんな事は……」
「違うか。では先ほどの報告の際、何かを隠していたであろう?」
「……はい。とは言っても、隠すというより言う必要がないと言いますか……」
組まれた足が跳ねて、ビシッ! そのつま先がちょうど俺の額を蹴り上げた。
「言え」
「はい」
命令された俺に、もはや断るという選択肢はなかった。
さすがに聖術関連の事は伏せておいて、森の中で【疾風】と呼ばれる最近頭角を現した盗賊に出会ったことと、彼女が背負っていたこと。また今後取ることになる協力関係についてまるっと俺は師匠へと説明するのだった。
「ほぉ、なるほど。其方が不注意で袋を壊すか失くすなんてあり得ないとは思ったが、そんなことがあったのでは仕方ないかの。災難であったなと言いたいところじゃが、逆に協力体制を敷くことが出来たのは不幸中の幸いといったところか」
「理解していただけたようで、なによりです師匠。ところで口調崩れてますよ」
なっ、と彼女は問い詰める際の厳しい顔を崩して瞬く間に赤面する。
「――ええい、気のせいではないですか、ええ。きっとそうです。ところでエフォード、耳が遠くなったというのなら、専用の薬がそこに――」
「いえ、なんでもないです、はい。俺の聞き間違いでした」
「ゴホン。よろしい。では、その件については分かりましたとも。して、まだ隠していることがあるでしょう。さっさと吐いて楽になりなさい」
赤く取り乱した顔をそっぽを向いて隠しながら、彼女はまだ隠していることがあるだろうと一方的に決めつける。
確かにあるのだが、それにしても何故そこまで確定した物言いが出来るのか。
「いえ、ないですよ? 師匠の勘違いではないでしょうか?」
「よくそこまで綺麗な仮面を被られるものですね。一切表情を変えぬままさらりと嘘を吐けるのは昔も今も変わらぬままですか。まったく、貴方はまた私を裏切るのですか?」
そう言って悲しそうな顔をするエフェリーに、俺は思わずそれは違う、と言いたかった。しかしカタリーナとの約束を破る訳にも行かない。
その気の迷いを見咎められてしまったようだ。
「おや、その端整な顔立ちに歪みが出ていますよ。流石に今の一言で動じないほど、その仮面は頑丈ではないようですね。しかしなぜそこまで話したがらないのです? 私はただ、貴方がどんな聖術使いに出会ったのかを聞きたいだけなのですが」
その言葉に、今度こそ俺の被っていた仮面がはっきりと崩れ落ちる音が聞こえた。
「な、なんで分かったんです? 俺が聖術使いと出会った、なんて……」
「貴方には分からないでしょうが、聖術の素となる力には同じ聖術を扱うことの出来る者にしか分からない独特の匂いがあるのです。貴方の体からはあの貴族――ティーティア・タレントとやらでしたか――彼女の甘ったるい匂いの他に新しく、リンゴのような甘酸っぱい香りが非常に強く漂ってきています。で、誰なのです?」
まさかそんな理由で気づかれるとは思ってもみなかった。
だが、気づかれたからと言って素直に話すわけにも行かないんだ。
「……師匠。元々この国の外からやってきたという貴方が知っているかどうかは分かりませんが、この国には貴族くらいしか聖術使いが居ないんです」
「そうですね。私も以前貴方のような弟子を探そうとしたときに、聖術を使えることを条件に探そうとしたものですが、どうにも見つかりませんでしたし」
「そうだったんですか? じゃあなんで聖術の使えない俺なんかを迎え入れたんです?」
「……五日間も玄関先で地面に頭を擦り付けられた挙句、大勢の耳のある通りの前で全身全霊を以てお返しさせていただきますなんて叫ぶような馬鹿なことをされたら、誰だって迎え入れないわけにはいかないでしょう」
そう言って斜め上に視線を外し、懐かしそうな顔をするエフェリー。それを裏切ったのだから、俺としてはなんとも気まずいことこの上ない。
当時の俺は薬草の採取が知識の伝授のお返しになっていると考えていたのだが。彼女が俺にかけていた期待と言うのは、そんな簡単なやり取りで終わるものではなかったのだろう。
「……その節は本当にご迷惑をおかけしました。ええと、話を戻すと、つまり聖術使いってのは貴族の証でもあるんです。そんな中、もし平民に聖術を使える者がいる、なんてなったらどうなると思います?」
そこまで言われて俺の言いたいことを悟ったようで、彼女ははっと眉毛を上げた。
「廃嫡された元貴族なら大した問題ではありませんね……とすると考えられるのは……出会ったのは表向き純粋な平民の聖術使いでしたか。で、実態は貴族の血を引いていると」
頷いてその考えを肯定する。
「てっきり私はまた貴方がまた貴族の聖術使い、ついでに女性でもある誰かをひっかけたのかと思っていましたが。なるほど、それでは私にも話すことを躊躇するのも仕方のないことですね。その人のことを公にしたらその身が危険に晒される、ということですか。相手のことを慮って隠そうとするあなたのことを試してしまった私が悪かったのですね」
「いえ、女の子ってところはあってますが」
「……前言撤回します。やはり貴方は相手を慮る気持ちのないクズです」
「なんでそうなるんですか!?」
極端に裏返った評価に、思わず衝撃を受ける。そんな俺の様子を見てフンスと鼻を鳴らし、彼女は言葉を続ける。
「それだけ匂いが強く染みついているってことは、密着したか聖術をぶつけられたかのどちらかです。そんなことを教えられては、誰だってイラっとくるものです。ええ、それは貴方の愛する御令嬢のティーティアとやらも同じことです」
「うぐっ……」
「ま、それは今更なので構いません。どうせどっちもでしょうし。で、その聖術を使えるのは誰だったのですか?」
「……そこまで知る必要ってありますかね?」
「あります。貴方は聖術を使えませんからね。聖術を使えるというのなら改めてその方を弟子に迎え入れたいのです」
エフェリーの調合する薬の内、【秘薬】と称されるものの類は聖術を使わなければ完成させることが出来ない。だからこそ俺はそれらについては一切知らされていない。
だが、彼女からしてみればせっかく完成したものを誰にも知られないままでいられるというのは寂しいことなのかもしれない。
「……残念ながら彼女は犯罪者として扱われてるんで、見られたら大変なことになりますよ。この辺りは人目が多いんですから」
「その点は貴方が気にしなくてもよろしい。どうせこの家の中にずっと居てもらうことになりますからね」
「それって監禁……イエ、ナンデモナイデス。あと、彼女自身今は母親の下から離れられない危険な
状況にありましてね。その条件だとどうせ無理です」
そこまで言えば、エフェリーも完全に話の流れを理解したようだ。俺が最後に隠したかったものについて、聡明な彼女が分からぬはずもない。
「……【疾風】、ですか。女の子で盗賊で貴族の血を引いていて、聖術まで扱えると?」
「はい」
「なんともまあ、色々面倒な事情を背負っている子ですね」
そう呟いて、彼女はため息をつく。
そしてもう一度、彼女は俺の顔を見て大きく、重く鉛のようなため息をついた。
「……なんで俺に対しての方が酷いんです?」
「それはもちろん。そんな厄介な女の子をちゃんとひっかけてくるような、貴方の釣り針の大きさについて呆れていただけです」