第十話 母親を想う少女のヒミツ
「さてと、出来ればこのままお前の背景が分かってめでたしめでたし、となれば良かったんだけどな」
とある問題が脳裏を過ぎり、俺はため息を吐いてしまう。
「な、なによ。一体どうしたの?」
「俺は冒険者で採取依頼を受けてこの森にやってきたんだが、依頼の品を詰め込んだ袋をさっきの休憩所に置き忘れてきたんだ。まあそっちは一度森から出れば入り口から大体道は分かるし、ツクヨバナも一日遅れた程度では問題ないだろうさ。でも余計に問題なのはお前だぜ、【疾風】さんよ」
目を狭めてそう名前を呼ぶと、彼女は不安そうに首を傾げる。
「店がお前の盗みを警戒し始めて、仕事がやりにくくなってるんだろ? それじゃ四人分の食料なんて満足に回収できないし、奴らは苛立ってるだろう。この危険な森へ行けって言ったのもそいつらの指示なんじゃないのか」
「……ええ、そうよ。最初は一応ちびちびと食べて残せるものは残しておいたんだけど、それも昨日くらいでなくなって、それであのもやし野郎に森ならなんかあるだろ、って言われたの」
「なら早めに戻らなきゃお前さんの母親が危ないんじゃないのか。八つ当たりで何かされてもおかしくない」
俺の予想を教えると、彼女の顔が急に青ざめる。
「……そ、そうだわっ! どどど、どうしましょう!」
目に見えて再び慌て始める彼女の額に、俺はびしっとデコピンを決めた。
「慌てるな。騒いだところで現状は何も変わらないんだ。むしろ余分に体力と時間を使う。とりあえず今日はこの場所で野営するしかない。明日太陽が昇るのを待って、方角を特定するんだ。太陽の出る東に出れば、人の通る道に出られるだろう。そこから国へ一度戻るんだ。食料の事ならその後で――」
「そんな余裕はないわ! それじゃお母さまが危険な目にあっちゃうじゃない!」
「そうだな。だけど、恐らくは大丈夫だ」
「なんでそう言い切れるのッ!」
今にも噛みつかんとするその姿を手で押さえながら説明する。
しかしまあ、なんとも考えが表に出やすい素直な娘だ。まるで娼婦の娘とは思えない。まあ、そんな仮面を被るような生活を知らなかったんだろうが。ずっと家の中で貧民街の他の人間に悟られないよう隠されていたに違いない。
母親としても、時がくれば彼女だけは真っ当な生活に戻してやりたかったのかもな。言葉づかいだって、あの世界みたいな男に滑らかに落とす淫蕩なものじゃないし。
性格がちょっと荒っぽい、もとい猫っぽいだけで。
「いいか、貧民街に来たばかりなのなら奴らには地の利がないんだ。だからそもそも、奴ら自身で何かを調達するという事が難しい。だからそれを担うお前が逃げるようなことは絶対にしないんだ。だから、母親がもう貴女だけ逃げなさい、と言うような――「お母さまはそんな事は言わないわっ」――たとえ話だよ。ともかく、そういった覚悟を決めるようなことはしでかさないさ。分かりやすく痣を作るくらいで、大きな怪我はさせないよ」
「……それでも。お母さまにそんな事をさせるなんて、許せないわ」
「その気持ちは分かるよ。でも、この森をお前より良く知っている俺だってどうしようもないんだ。それともなんとなくで戻ってみて、更に奥深くに迷い込んでみるか? 人間なんて普段森で暮らしてるわけじゃないんだから、なんとなくじゃどうしようもないんだ」
そう感覚に頼ることの不安性を告げ、ひとまず「火を熾すためのものを集めてくる。そっちは場所を決めて燃え広がらないよう周りの草を引っこ抜いてくれ」と言って周囲を散策しようとする。
「待って」
そんな俺の裾を、彼女がギシッと強く引き留めるように握った。
「どうしたんだ? その後は一応、腹に入れるものも探さなきゃならないんだ。時間はあるようで、ないんだぞ」
「……うー」
見れば、その顔は何か迷っていることがあるらしい。眉間にしわを寄せて、それでいてチラチラとこちらの様子を窺っている。それでいて何かを言おうと、魚のように口をパクパクと開けたり閉めたりしている。
「何か言いたい事があるのか? 言いたいのならさっさと言ったらどうなんだ」
「あうっ。なんで分かるのよっ。この変態っ」
「それくらい見たらだれでも分かるわ。少しは隠せ。後変態言うな、あれはどう見ても事故だったろうが」
「事故でも変態は変態よっ。いえ、そうじゃなくて……。これはお母さまにも口止めされてるんだけど……」
大切な母親の言いつけ、それを破る覚悟を決めるためにか口の端を一度キッと結び、彼女は告げた。
「アタシには分かるわ。さっきいた場所が。アンタはあそこに戻れればいいのよね?」
「……さっきも言ったが、人間の感覚は信じられないんだぞ」
「ええ。でもこんな力は普通の人間にはないんでしょ?」
そう言うと彼女は、俺の服を握るのと反対の手の人差し指で近くに落ちていた枯葉を指さした。
いったい、それが何だと思いながらその様子を見守っていると――。
その枯葉が、ふっと何かに吹き飛ばされたかのようにふわっと浮かび上がる。
「今の、見えたわね? アタシは今やって見せたみたいに風を操れるの。この力を使えば、さっきの風の流れを辿って帰れるわ」
「……」
「……なによ。驚いたの?」
「いや。お前の母親のしつけが正しかったと分かってな」
それともう一つ分かったことがある――彼女の母親がこの娘の力を隠したかった理由がな。
別に俺にとっては珍しいものではなく、むしろ非常に親しみ深いものだ。しかし、これは彼女の今の立場からすれば、公になると大変な事になることは間違いない。
「とりあえず、それならさっさと元居た場所へ戻してくれ。後、ついでに俺からも言っておくが、それは絶対に他の人間に見せるんじゃないぞ」
「……分かってるわよ、アンタは特別よ」
真剣に顔を近づけてそう伝えると、彼女はなぜか顔を赤くしながらも、コクコクと激しく頷いた。
「ええっと、それじゃ着いてきて」
はぐれないように手を握りながら、俺たちは来た道らしき道を戻っていく。
俺には本当に来た道なのかは分からないが、彼女は一切迷う様子を見せずするすると森の中を進んでいく。
その間、話すことがなかった俺は頭の中で彼女の事を考えていた。
彼女が使っていた力をよく知られている言葉で言えば――【聖術】だ。
この世を作った神の血を持つ者にしか扱うことが出来ない自然を操る力だと、昔教会で神父が言っていた。残念ながら当人は使えないらしいが、かつて学んだ神国とやらで見せてもらったその【聖術】を、大げさな身振り手振りと共に話してくれたのを覚えている。
そしてその力を扱えるのはいわゆるド偉い聖職者と、国のお貴族様だけだとも。
ティアも風を操れるかどうかは知らないが、手をかざしただけでグラスの水を冷たくすることが出来ていた。夏場にはその力を最大限に発揮し、氷と言う冷やし固めた水を削って食べて一緒に頭を痛めたものだ。
とどのつまり、彼女はそのどっちかの血を引いているんだろう。
貴族か聖職者が多くの男と関わる娼婦と情を交わしたなんて話だけでも一大事なのに、その落胤がいるとすれば更なる騒ぎに見舞われることは想像に難くない。
そしてその当事者たちが真っ先に考えるのは、「裏で黙らせればどうということはない」という事だ。つまり、冒険者ギルドにも時々掲げられる暗殺依頼だ。そりゃ、黙っていろと母親が言明する訳だ。
だけど母親も想像してなかっただろうな。
まさかこんな森の中で出会った得体も知れない男についそれを明かしてしまうほどの――母親を思う娘の気持ちってやつの深さを。