前夜譚 若き二人の決意と別れ
この小説に触れていただき、ありがとうございます。
――カタン、コトンと揺れながら、箱型の馬車が夜の貴族街をゆっくりと進んでいく。
窓の外には格式高い大屋敷が幾つも立ち並び、煉瓦で舗装された大通りの端に設置された街燈が仄かにそれらの輪郭を浮かび上がらせている。人通りは既になく、がらんとした一帯の中で無機質な豊かさの象徴だけが優雅に佇むその景色は、まさに限られた高貴なる者たちに相応しき世界だと言えるだろう。
しかし、今の俺にはその絵画の如く美しいはずの景色が、いつになく歪んで見えていた。
「ねぇ、落ち着いてちょうだい。わたくしの愛しいエフォード。あなたは気にしなくても良いわ」
柔らかく、どこかゆったりとした気遣いの声と共に、白手袋を纏った彼女の手が膝の上に置いていた俺の武骨な手を絡め取る。
いつの間にか握りしめていたその拳の指が一本ずつ解かれていくと、中からは血で赤く染まった手のひらが姿を見せる。どうやら爪が食い込むほどに力を込めてしまっていたらしく、今更ながらじんわりと生暖かい感触が広がっていくのが分かった。
花模様の透かしをあしらった絹の手袋が汚れるのも厭わず、たおやかなその手はそのまま俺の両手を包み込む。
少々手狭にも感じられるこの暗くて小さな部屋の中にいるのは、俺とその対面に座る声の主だけ。
「――いえ、大丈夫ですよティーティア様。だからそんな悲しそうな顔をなさらないでください。せっかくのお美しい姿が、台無しになってしまいますよ」
窓から差し込む下弦の月が、こちらの様子を憂いているお嬢様――公爵家の一人娘、ティーティア・タレントの姿を照らし出す。
顔の両側で緩くウェーブを描くように整えられた金色の髪を揺らしながら、こちらを覗く双子の紫水晶は今にも涙を流しそうなほどに潤んでいた。
「あら、台無しにしようとしているのはあなたなのよ。そのような、放ってはおけない怖い雰囲気を漂わせて。それに、その他人行儀な呼び方をいつまで続けているつもりかしら? もうここには私たち以外、誰も居ないのよ。さあ、いつも通りの元気な姿に戻ってちょうだい――エフ」
「……ああ。ごめんな、ティア。つい気を張り続けてしまった。ここはもう俺と君の二人だけなのにな。心配をかけてすまなかった。もう、大丈夫だ」
「本当に?」
いくら敬愛する彼女の言葉と言えど、内心は勿論穏やかではいられなかった。
だが、俺にとって何よりも優先されるのは彼女の純粋な善意からくる心配に応えることだった。
先ほどまでの強い感情の波を押し殺し、なんともないように笑顔を作って彼女に微笑む。
「本当だとも。だから君も、いつも通り美しい顔を見せてくれないか、俺のティア」
「嘘はつかないで、エフ。これだけ痛々しい怪我をしているのに自然な笑顔が出てくるなんて、逆に変よ」
だが、そんな俺の嘘も彼女には簡単に見抜かれてしまう。
「……敵わないな」
「いつものあなたなら、それくらい分かるでしょうに。やっぱり、まだシルヴィア様に言われたことを気にしているのね。……んっ」
責めるようにこちらを見た彼女の、俺の両手に重ね合わされた細い手が淡く桃色の光を放ったかと思うと、その内側から透き通った水が染み出していく。どこからともなく出現した不思議な水は、そのまま俺たちの手を薄くゆっくりと覆っていく。
その不思議な力の赴くままに委ねていると、みるみるうちに傷口から走る鈍い痛みが引いていった。
そして、流れ出た血で僅かに赤く染まったその膜が霧散していった後には、既に両手の傷は跡形もなく完治していた。
「……ありがとう、ティア。わざわざ手を煩わせてすまなかったな。その聖術には、本当に世話になっているよ」
聖術。高貴なる方々、支配者たる人間たちが扱うことの出来る人智を超えた聖なる力。
炎や水を生き物のように操り、時にはそれらで傷を癒し、また敵対するものを破壊することも出来る、神が一部の血族にのみ与えた特別な力だ。
「どういたしまして。いつもわたくしを守ってくれているあなたへの、ささやかなお礼よ」
感謝の言葉を述べる俺に、彼女はそれでも少し疑惑の目をこちらへ向けていた。だが、その頭を、汚れた手袋を外して傷の塞がった手で軽く撫でてあげると、瞬く間に表情を崩してえへへ、といつもの彼女らしい華やかな笑顔を取り戻してくれた。
機嫌よさげに弾む髪の隙間から、うなじに潜む彼女特有の甘い砂糖菓子のような香りが馬車の中に広がっていく。
「――やっぱり、ティアには笑っている顔がよく似合っている。さっきの遊宴といい、今といい。続けて迷惑をかけてすまなかった。だから君は、今日の夜のことは気にしなくても良い。暖かいミルクを飲んでぐっすりと寝れば、明日には元通りのゆったりとした生活に戻れるさ。そうだろう、ティア」
落ち着かせるために言ったその一言だったが、彼女には逆効果だったらしい。
誤魔化されることなく、言葉の中に含まれていたもう一つの意味を耳聡く聞き取ってしまったのだろう。
――そうだ。彼女はもう、気にしなくても良い。
――だけど俺は絶対に、今夜あった出来事を忘れて元の生活に戻ることなんてことは。彼女に恥をかかせたままでいるなんてことは……到底、出来やしないんだ。
猫のように愛撫を楽しんでいたその目を開けて、彼女は再び心配を浮かべた顔で俺を見る。
「エフ、あなたは気にしないでって言ったのに。どうしてそんな、思いつめた顔をしているの? まるで私と出会ったあの時のような……飢えた狼のような怖い顔をして。どこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな気がするのは、気のせいなのかしら?」
「ごめんな。君は気にしなくていい……いや、優しいティアにそう言っても、無理な話だったな。心配してくれてありがとう。だけど、もし俺の事を気遣ってくれるのなら、一つだけ許してほしいことがあるんだ。――俺に、恥を雪ぐ機会をくれないか」
穏やかになりつつあった俺の頭の中であの光景が思い返され、再び激情が燃え盛る。だけど、これ以上彼女に心配をかけさせたくはない。
いくら見抜かれてしまうとはいえ、なるべく彼女に心配をかけないように感情の昂りを心の中に押し込めながら、俺はつい先ほど体験した出来事を思い返す。
――そう。
あの、貴族街の中央に聳え立つ白亜の王城での一幕を。
―――――――――
絢爛豪華という言葉に相応しく、白地の上に深紅の布が敷かれ、至る所に金銀が踊るアルゲントゥム王城の大広間。城専属の音楽隊が優美な音色を奏で、真昼と見間違えんばかりに光に照らされたその空間の中で、人々が宝石の輝きを持つ液体の入った酒杯を片手に談笑する――そのさなか。
ばしゃり、と場に似つかわしくない乱暴な水音が、ティアの背後に控えていた俺の頭の上に迸った。
たったそれだけの事なのに、この場の空気は水を打ったかのように凍り付いた。高価な楽器を携えた楽師も、華やかな装いをした男女も。誰も彼もが動きを止め、音の中心たる俺とティア、そしてもう一人へと意識を集中させた。
あまりに突然の出来事に、俺はぽたぽたと前髪から滴り落ちる赤い雫の奥に映るそのもう一人――俺に葡萄酒を被せた彼女を、見つめ返すことしか出来なかった。
そして彼女は空になった杯の口をこちらへ向けたまま、雪のように白く凍えた眼差しで俺をねめつけていた。
「――なぜ、この高貴なる者たちが集う場に相応しくない者がおるのだ?」
何もかもを貫き通す名剣の如き声に答えることが出来る者は、一人も居なかった。
「――もう一度問うぞ。何故、わらわの瞳に映すに値しないものが映っているのだ」
再び放たれた問いに、慌てて近場にいた青年貴族の一人が答える。
「そ、それはあのタレント家の娘が招き入れたからにございます、王女殿下」
「ふむ。左様であるか。聞けば騎士でも何でもない平民――いや。それにすら満たぬ、貧民街の生まれに過ぎぬとか」
「はっ。おっしゃる通りでございます」
「下等で賤しい非人を側付として迎え入れるとは、さて。その生まれ持った端整な容貌で取り入ったか。なるほど、確かにそれだけは、この場にいる他の者たちよりも一段優れていると認めてやろう。不吉とされる黒髪さえも黒曜石の如く魅せる、その鋭利な美しさは珍しい。……ま、わらわには及ばぬがな。お年頃の娘であれば、あとは言葉の一つ二つもあれば落とすのも容易かろう。ン?」
その言葉に、俺は何も答えを返さない。返せる道理が、ないのだ。
なにせ目の前に立つ彼女こそ、この宴の主役にしてこの王国の頂点に名を連ねる者。
【白銀乙女】と謳われる、シルヴィア・アルゲントゥムその人なのだから。
彼女の言う通り人以下の存在である俺には、異論を唱えるどころか、はいと答える事すら烏滸がましい行為に他ならない。
「だが、そんなものはわらわには通用せぬぞ? 天からの授かりものだけで、誰も彼もを騙せるとでも思うたか。疾く失せよ下郎――所詮、顔だけの俗物であろう。見るにも堪えぬ愚か者よ」
それだけ言って彼女は踵を返し、広間の中央へと戻っていった。
あとに残されたのは、彼女の威圧に流されるままだった俺とティアの二人だけだった。
「っ、エフはそんな――、お待ちくださ――」
去り行くシルヴィア王女の背中を、そう引き留めようとしたティアの手を俺は一瞬だけ掴んで留めさせた。ただでさえ王家の不興を買ったのだ。これ以上俺のことで彼女の心に負担をかけるわけにはいかない。
だが、その言葉にならない訴えが王女の背中に届いたのか。
僅かに顔だけを振り返らせた彼女は、何かを訴えようとしていたティアに向けてその淡い桃色の唇を開く。
「恋とは甘い毒のようなもの。タレント家の娘よ、妄りに夢へと身を任せていると、やがて悲劇の少女と同じくその身を亡ぼすことになるのだ。精々覚えておくがいい」
それっきり、王女が再びこちらの方へ顔を戻すことはなかった。
いたたまれなくなった彼女は、やがて溶けた場の空気が好奇の目線で俺たちを見つめ始めることに耐え切れなくなったのか、俺の手を引いて一直線に宴の外、馬車が待っている王城前の広場へと飛び出したのだった。
―――――――――
「なあ、ティア。これは、優しい君には答えるのが辛い質問かもしれない。だが、それでも問おう。王女様のおっしゃった通り、俺は……君の隣に並び立つには相応しくない存在だ。そうだろう?」
心優しい彼女に投げかけたその確認は、正しい答えを口にすることが厳しいに違いない。
「――っ、そんなことはないわ! 私は知っているもの、エフ、あなたが決して見た目だけじゃないってことを! あなたはいつだって、努力を重ねることを忘れてはいないのに!」
予想通りの間違った答えと共に口調を僅かに荒げた彼女を落ち着かせるように、再び頭を撫でながら俺は改めて問いかける。
「俺の事をよく知っている君にとってはそうだろうな。だけど、貴族としてはどうなんだい? 君個人としてではなく、立場と責任が伴うティーティア・タレントとしてなら、今の答えは正しいものじゃないだろう。違うか?」
「……それは」
彼女はこれ以上、答えを返さなかった。だが、その無言こそが何よりも正確に彼女の返事の意味を示している。
彼女だって本来ならば、あのような身分がそのまま規律となる場所に俺のような平民ですらない貧民街出身の者を連れ立って行くべきではないと知っているのだ。
ああ、そうだ。そんな事は俺でも分かる。俺でも分かる答えを、彼女が知らぬはずがない。
「王侯貴族の集まる場に、勲章の一つもない馬の骨を持ち込むことなど、あってはならないことだったんだ。どうしてこんな当たり前のことを考えないでいたんだか、情けない。貴族らしくないティアの優しさに触れている内に、身分への警戒心が解けてしまっていたのかもな。まったく、この体と首が繋がっているだけ良かったよ」
「きゃっ……」
俺の言葉からそのまま残酷な光景を想像してしまったのか、彼女は青ざめた顔でその口元を押さえてしまう。
「そう考えれば、あのお姫様の対応は随分と慈悲深いさ。ワインをかけただけで済ましてくれたからな。あの場で最高位の人間が罰を下したんだ、それ以上の事をすれば王族の権威にケチをつけることになる――ま、そこまで考えてくれていたかどうかはさておいて。深呼吸をするんだ、ティア。ほら、この首はまだ確かに繋がっているだろ?」
彼女の手をとって、俺の首筋に添わせる。どくん、どくんと心臓が脈打つ音が手袋越しに彼女へと伝わり、安心したのかそのままこちらへ体を預けるように抱き着いてくる。
その柔らかな年頃の女性の体に、恥ずかしいが落ち着きを取り戻してもらうためにと敢えてぎゅっと抱きしめながら、俺は彼女の耳元にそっと口を近づける。
そして言い聞かせるように次の言葉を、これ以上彼女に心労をかけないように選びながら、出来る限り優しく紡いだ。
「だからこそ、俺に機会をくれないか。君の隣に並んでも恥ずかしくない実績を手に入れるために。ティアが決して、側付きの愚民の生まれ持った容貌に誑かされているだけの可哀そうな悲劇の少女なんて呼ばれないために。ティアに、俺が侮辱されたからと気配りをさせないために。そしてティアをあの場で嗤った、他の奴らを見返すために」
今俺の中で荒れ狂う感情の波濤。それは決して、あの姫様から向けられた言葉によるものではない。無論、生まれ持った顔という才能に甘えただけの愚か者などという言い分には、許されるならばどれだけでも反論を述べたくなってくる。
――それよりも俺を腹立たせるのは、ワインを被った自分に向けられる視線と同等に、いや、それ以上に深く、ティーティアに突き刺さる嘲笑や侮蔑の視線だった。
彼女に批判の目が向けられるのは当然のことだ。
貴族たる在り方を忘れていたのは、彼女だって分かっている。
しかし、あの場で多く彼女に突き刺さったのは、そんな高貴なる者の義憤によるものではなかった。
三日月を描くように歪められた口元、狸よりもふっくらと吊り上がった頬、悪魔のように細められた目。それらのただ見下し、嘲笑い、貶めるような悪意に満ち溢れた、心への攻撃だった。
俺のことを心配しながらも自分はなんてこともないかのように振る舞う、ティアの暖かい素振り。その裏には、一体どれほどの心無い視線による見えない傷が刻み込まれているのだろうか。
――俺は、それが許せなかった。
あの貧民街という先の見えない暗い世界の中から、俺を見出してくれた彼女の輝きが悪意によって汚されることが――俺そのものが、彼女の弱点となっていることが。
俺と言う存在が、彼女を傷付ける最大の要因になってしまっていることが。
一瞬だけ、エフォードという存在が居なくなってしまえば、その弱点はなくなるかもしれないとの考えも頭に過ぎる。だが、優しい彼女はそんなことをすれば自分のせいでエフォードが居なくなってしまったのだと心を痛めてしまうかもしれない。
――だからこそ、俺自身が彼女の傍に立っていても誰も否定しないほどの力を持たなければならない。
「エフ……」
「平民が貴族に認められるほどの栄誉を得られる方法なんてのは、正直に言って狭い門だ。まずその門すら中々見つからない。だけど幸いなことに、俺には一つ、心当たりがある。もちろん相応に危険が伴うし、君には更なる心配をかけてしまうかもしれない。でも、それでも。このまま今日あったことを忘れて、俺のせいで君が侮辱され続けるなんてことが、俺は許せないんだ」
「……」
「許してくれないか、ティア」
彼女は暗に「放したくない」と、両腕を俺の背中へ回して更に強く二つの体を引き寄せる。青いドレスの隙間から覗く柔らかな双丘が、俺の胸板の上でゆったりと押し潰される。
未婚の淑女にはあるまじき行為だが、決してその中に邪な気持ちが入る余地はない。
その胸の奥から伝わってくるのは、とくん、とくんと奏でられる慈しみの鐘の音。
「……たとえ私が行かないでと言っても、あなたは行ってしまうのでしょう?」
俺を見上げるそのつぶらな瞳に、俺は苦笑して答える。
「どうだろうな。この五年で俺の知ったティアは、ここでそんなことを言うほど弱い女性じゃないからな。君は優しいが、それと同時に強い女の子だ。俺の心を汲んでくれる、そう信じているよ」
「強いだなんて、もう……乙女にはあまり良くない言葉よ。でも、あなたがそう信じてくれるのなら、不思議と悪い心地はしないわ。――でも、これだけは約束してちょうだい。無事に帰ってくるのよ。今も、この先あなたに襲い掛かる試練の事を想像して胸が張り裂けそう。でも、せっかくエフが私の為に勇気を出してくれるのだもの。だったらその背中を押してあげるのが、あなたを侍らせる女に相応しい役目でしょう」
「……ありがとう。しばし寂しい思いをさせることになるけれど、ちゃんと定期的に元気な顔を見せに戻るから。そうだな、次の満月の日にでも。だから、安心して……いや。期待して待っていてくれ」
狭い馬車の中、彼女の頬を伝う一滴を親指でそっと拭ってから、俺は一度彼女の体を元の対面の座席に座らせた。
続けて狭い足場に膝をつき、彼女の細い手をゆっくりと下から持ち上げる。
「さて、と。それじゃ、もう行くよ」
「えっ、も、もう?」
そこまで早いとは想定していなかったのか、彼女の眼が驚きに染まった。
「ああ。思い立ったが吉日って言うだろう? そろそろ馬車も俺の行きたい場所への道に差し掛かる頃合いだからな、ちょうど良いのさ。それに、夜風に当たってこの体の熱を少し冷ましたいんだ」
そのまま彼女の手の甲に静かに唇を重ねたのも束の間。彼女の瞳を見つめながら、俺は立ち上がって後ろ手で馬車の扉を静かに開く。
ティアの見据える扉の向こう側に広がるのは、星明りが僅かに差し込むだけの静寂に満ちた真夜中の街並み。
正反対に、俺の視線の先には、ちょうど馬車の窓から半月を背景に暗く輝く白亜の居城が覗いていた。身分の高い者たちが今もなお遊興を楽しんでいるであろう王城の方向とは真逆の――暴力と貧困に満ちた闇の街こそ、俺がこれから、長い年月を経て再び帰ることになる貧民街。
これから俺はその中で、機会の限られた栄光を掴むために奔走しなければならないのだ。
「それじゃあ、暫しの別れだティア。俺がいない間も元気でいてくれよ」
「……」
だが、苦労こそすれ、その道を歩むことを決して俺は後悔したりしないだろう。
一瞬、雲に隠れた月の下で彼女の顔がどのように変化したかは分からない。
だが、次に見えたティーティアの顔は、少し泣きそうになりながらも――俺を安心して送り出さんとするはかなくも美しい笑顔だった。
その顔を思い出す度、俺は苦労を苦労とは思わないだろう。行く先々に立ち塞がる難題を乗り越えて、必ず彼女の下へ胸を張って戻るんだ。
その決意と共に、とんっ、と床を軽く蹴って俺は馬車の外へ飛び出した。
「――待っていますわ、エフ!」
徐々に遠くなる黄金と紫の輝きに、とっさに伸ばしかけた手。
それを押さえつけ、俺は黒い夜会服の裾を翻して懐かしい臭いの漂う街の中へと再び飛び込むのだった。