第16話 疑問
◇
お葉見会がお開きとなり、桜際公園から離れた俺は望月と喫茶店に戻ってきていた。
今日は店を開けていないため、店内には俺と望月だけだ。
他のメンバーはお葉見会が終了するなりバラバラに散っていった。それからここに戻ってきていないのを見るに、皆用事があるのだろう。
「ねぇ、コーヒー入れてよ。冷たいやつ」
望月はカウンター席に座ると、当たり前のように要求してきた。
今日は店を閉めているとはいえ、店に入って早々図々しいやつだ。
俺はジトっとした目で望月を睨む。
「今日は休業日なんだけど……」
「お願い。恭介君の作るコーヒーすっごく美味しくて。……そう! まるでコーヒーの歴史が頭の中に直接流れ込んでくるような感じ!」
「え? なに? そんな褒め方あんの? めちゃくちゃ嘘っぽいんだけど」
「お願い!」
望月は顔の前で手を合わせると、片目を瞑った。
しょうがないやつだ。
「……まあ、一般家庭でも飲み物ぐらいは出すしな……作ってやるよ」
「やった!」
望月は小さくガッツポーズをすると、そのまま両手で頬杖をついて鼻歌を歌い始めた。
そんな彼女に軽くため息をつくと、コーヒーを作る。
「ほら、出来たぞ」
「ありがと」
望月は短くお礼を言うと、コーヒーカップを受け取り手元にあった角砂糖を大量にいれる。
その味を思わず想像してしまい「うっ……」と口元を押さえる。
「お前、そんなに入れたら体に悪いぞ」
「んー、大丈夫だよ。あたし甘いの好きだし」
「いや、好きとか嫌いとかは関係ないと思うんだが……。だいたい、コーヒーである意味があるのかそれ?」
自分の分のコーヒーを注ぎながら言うと、そのまま望月の正面に腰を下ろした。
するとスプーンをかき回す望月の手元からシャリシャリと砂のような音が聞こえてくる。明らかに溶けきれてない証拠だ。
「恭介君は分かってない……全然分かってないよ!」
俺が微妙な表情をしていると、望月は目を見開いた。
「あ、ああ……確かに分かってないかも。つか、分かりたくない」
「良いかい恭介君。コーヒーに砂糖を入れるから美味しいんだよ。コーヒーに砂糖を入れることによってコーヒーの苦味が砂糖の甘味を際立たせて、砂糖の甘さだけでは表現できない未知の甘味に到達するんだよ!」
「お、おお、そうかもな」
若干引きぎみに返すと、望月は目を閉じるとゆっくり首を左右に振った。
「その顔……まだ分かっていないね?」
「え?」
「だから教えてあげるよ。コーヒーの、本当の飲み方ってやつをさ」
コーヒーが苦いとか言ってた奴にコーヒーの何を語るというのか。
望月は口の端を吊り上げると、コーヒーカップを持って立ち上がる。
そこで俺はとてつもない嫌な予感に襲われた。
今まで培ってきた危機回避の本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。
俺は腰を少し浮かせ、厨房の方へと逃げる体勢をとりながら望月の様子を伺う。
「お、おい……まさかとは思うが、それを飲ませようってんじゃないだろうな?」
俺がそう言うとピタリと空中にコーヒーカップを持ち上げる動作が止まると、
「そう……そのまさかだよ!」
「…………ッ!」
コーヒーカップを思い切り俺の口元へと振り上げた。
俺は追いかけてくるとばかり予想していたため、身体が反応せず、コーヒーカップは吸い込まれるように俺の口の中へとコーヒーを流し込む。
「うっ……!?」
口の中にはドロドロとしたとてつもなく甘い液体が一瞬で広がり、思わず呻き声をあげる。
吐き出そうにもずっとコーヒーカップを押し当てられており、上手く吐き出せずに自然と喉の奥へと流れていく。
すると、少しもしないうちに胸焼けがし、胃のなかが掻き回されるような気持ちの悪い感覚に陥る。
そのとき確信した。
これは人が飲むものではない。
そしてこれが飲める望月は人じゃないと。
「っとと……このくらいかな」
そう言うと望月はコーヒーカップを離した。
「どう? 分かってくれた?」
「…………」
「あ、れ……? もしもーし」
望月は俺から返事が返ってこないと、不思議そうな顔をして肩を揺すった。
それでも俺は返事を返すことなく、天井を見上げて放心した。
もう駄目かもしれない。
何故なら『わぁ、間接キスだ』とかお茶目なことを考えている余裕すらない。
少しでも意識を現実世界に戻そうとすれば、またあの気持ちの悪い感覚が俺を襲うだろう。
だが、このままこうしていても状況は何も好転しない。
口の中だけならまだしも、飲んでしまったものを出すのは無理だ。
もしかして……俺は……。
「こんなところで死ぬのか……? まだ俺には、やらなきゃならないことが――」
「勝手に人のモノローグ語るのやめろ! つか、なんつーもん飲ませんだ!」
「美味しかったでしょ?」
「そんなわけ、あるか!」
「いいい、痛い痛い、頭ぐりぐりしないでよ!」
望月は半泣きになりながら俺の頭ぐりぐり攻撃から逃れると、中腰になっていた腰を下ろした。
「恭介君、痛いよ! 女の子に暴力を振るうなんて最低!」
「仕方ないだろ。マジで不味かったんだからよ。ほんと、お前は昔からバカ舌だよな……」
「え?」
そう言うと望月は、驚いたような顔をして固まった。
「どうした?」
「う、ううん。その、恭介君が変なこと言うから……」
「変なこと?」
俺は先程の発言を思い返す。
特におかしな発言はなかった、はず……。
「…………」
俺は力が抜けたように椅子に深く座り込む。
何で俺は望月が昔からバカ舌だと思ったんだ?
いや、違うな。何で昔からだと知っていたんだ?
もしかして望月は俺のことを知っていて……。
「恭介君?」
心配するように望月は顔を覗き込んでくる。
俺はそれに目を逸らした。
「悪い望月……。ちょっと体調が悪くなってきたからさ、今日はこの辺にしないか?」
「えっ! だ、大丈夫? もしかして、さっきの……」
「あ、ああ、いや……。否定はしないけど、まあ寝てれば治るから」
「否定しないんだ……それじゃあ帰るね」
そう言って望月は力なく笑うと、立ち上がる。
俺も喫茶店の外までは見送ろうと俺もカウンターからでると、望月と外に出た。
「また何かあったら連絡してね。……あと、ごめん。まさかそんなんになるとは思わなかったから」
「気にすんな。だからまあ、気をつけて帰れよ」
「うん」
曖昧に返事をすると、望月は背を向けて歩き出す。
体調が悪いのはまた別の理由な訳だが、今は伏せた方が都合が良さそうだ。
俺は望月の姿が消えるのを確認すると、喫茶店の中に入る。
そしてそのままドアにもたれ、ずるずると座り込んだ。
「……望月、お前は一体何なんだよ……」
そうして誰にともなく呟いた。
問いは虚しく響き、答えが返ってくることはなかった。
望月はきっと俺を知っている。それも、俺が知る出会いよりも前……俺が記憶を失う前の俺を。
そして、彼女があの日、喫茶店の前に居たのは偶然なんかじゃなく、確認しに来たのだ。
そのときに確認したかったのは、俺の記憶がどれだけ戻ったかだ。
だが、俺の記憶は欠片も戻ってはおらず、今まで気づくことができなかった。
思い返せば、望月の話した彼氏の事故死。あの内容は俺に聞かされた事故と似ていたのだ。
俺が本当に望月の彼氏だったかは分からない。
そもそも、何で知り合いなのを黙っているのかも分からない。
そして、何故今なのかも。
三年の時間があったにも関わらず、何故一度も姿を現さずにこのタイミングで出てきたのか。
考えれば考えるほど頭の中を、もやもやとした気持ちの悪い感覚がぐるぐると回っていく。
そんなときだった。
「川島君?」
頭上から声が聞こえた。
その声は少し動揺した、聞き覚えのある声だった。
俺ははっとして顔を上げると、椎名の姿がそこにあった。
「どうしたの、そんなところで?」
「先、輩?」
心配そうな顔でかがむと、俺の顔を覗き込んだ。
それに対して俺は反射的に顔を逸らした。きっと今の俺は酷い顔をしているのだろう。それは視界の端に映る、椎名の表情を見ればすぐに分かった。
俺は誤魔化すようにして、適当な理由を考える。
「あー、すみません。さっき変なもの飲まされまして、少し体調が悪いんです」
「変なものって……なに飲んだの?」
「ん? コーヒーですよ。それも、飛びっきり甘いやつ」
そう言って先程まで望月が座っていた席を指した。
「気になるなら飲んでみたらどうです? 意外と口に合うかもしれませんよ」
「そんな状態になってるのに、よく人に勧められるね……飲まないよ」
「先輩にだけは、常識でものを言われたくないですね」
俺の言葉にムッとする椎名の反応を尻目に、ゆっくりと立ち上がると体を伸ばした。
「それじゃ、俺は部屋に戻りますね。なんか今日は疲れましたし」
「そっか……」
椎名は何か言いたそうに目を伏せる。
今までに見たことのない表情だ。
その表情を見るに、誤魔化しきることは出来なかったのだろう。
喋ってもどうにかなる問題でもないとはいえ、何だか彼女を信用していないようで……というか信用はできないのだが、それでも若干の罪悪感が胸の奥でチクリと刺さった。
別に話したくないわけではない。ただ、可哀想な人を見る目を、椎名には……ここで出会った人たちには向けてほしくなかった。
でも、それは俺の事情で、彼女たちに知る由はない。
そんな罪悪感からだろうか。部屋に戻る足を止め、フロアのドアに手をかけたときに、こんな質問をしてしまったのは……。
「あの、先輩……。急にこんなことを聞くのは変かもしれないんですけど……」
「どうしたの?」
珍しく話をちゃんと聞こうとする椎名に少し驚きながらも、俺は話始めた。
「もし記憶喪失になったとき、先輩は一体どんな気持ちになると思います?」
「え?」
唐突な質問に椎名は僅かに動揺する。だが俺はそれを無視して話を続けた。
「ある日目を開けたら、全く見覚えのない場所で、自分の周りを囲む人達もやっぱり見覚えがなくて……それって、かなり怖いことだと思わないですか?」
「…………」
椎名から返事はない。ただ、何かを考えるような気配だけは感じた。
「よく本とかドラマとかの物語では、主人公が挫折しながらも必死で記憶を求めて、そして最後にはハッピーエンドを迎えますよね? たとえそれまでの過程でどれだけ傷付いても、最後には笑ってるんです……」
現実とフィクションは違う。
漫画や小説のなかの主人公が、過程でどれだけ苦しんでも笑っていられるのは、最後にハッピーエンドになるのが分かっているからだ。
誰だってハッピーエンドは好きだ。
そもそも、漫画や小説は作者の願望の塊と言ってもいい。
自分がそう思っていなくても、無意識のうちに主人公と自分を重ねてしまう。
もしこんな人と出会えたら。
もしこんな場所で過ごせたら。
もしこんな日常が送れたら。
その願望の集合体がフィクションだ。
だからフィクションは、ハッピーエンドとなるものが多い。
だが現実は違う。平気で人を真っ暗闇に突き落とす。
どうあがいても不幸になる人はなるし、何もしなくても幸せになる人だっている。
なら、俺はどうだろうか?
周りからの気を遣うような視線が嫌で地元から逃げ出して、逃げた先では記憶喪失だということがまるでなかったかのように振る舞う。
必死で自分自身から目を逸らして、ひたすら逃げ続けた。
そして、その行動の結果が『停滞』だ。
幸でも不幸でもない。曖昧な状態。
だが、その停滞した状況が今動き出そうとしている。それも、俺の意思などお構いなしに、だ。
それが幸か不幸、どちらに転ぶかわからない。
ただ一つ言えるのは、俺は物語の主人公のようにはなれないということだ。
進まない物語ほどつまらないものはない。
俺はドアノブを握る手を緩め、だらりと腕を下げた。
「……今さらなんだよな……欲しいときになかったっていうのに、何で今さら……」
もやもやとする感覚をまぎらわすように拳を強く握りしめた。
手がじわじわと熱くなり始めたときだった。固く握りしめた拳を柔らかく包む、冷たい感触が右手を覆った。
「先輩……?」
俺は驚いて後ろを振り返ると、いつもとは違う、真っ直ぐな目がこちらを見つめていた。
瞳に映る俺の顔は酷く、思わず目を逸らす。
そのまま数秒静寂すると、椎名はゆっくりと口を開いた。
「……あたしは、川島君に何があったかはわからないよ。質問の意図もわからない……」
真っ直ぐだった瞳を伏せ、椎名は自分の手元へと視線を落とす。
「でも川島君が困ってるのは、何となくわかるよ……。だから、その……頼りないかもしれないけど、頼って欲しい」
「…………」
思わず黙った。
もしかしたら、心のどこかで彼女を馬鹿にしていたのかもしれない。
何を話したところで、きっと椎名は変に茶化したりするのだろうと。そう思っていた。
だからこうして俺に手を差し伸べる彼女に驚いた。
俺が目を丸くして驚いていると、急に目を逸らす。
「……あ、あたしだけじゃなくてもいいよ。ミッシーや小林くんも、頼ればきっと力になってくれる。だから……」
「そう、ですね……」
付け加えるように早口で言う椎名の言葉を遮るように言った。
俺は急に言葉を遮られてポカンとこちらを見上げる彼女に微笑み、手を握り返した。
前に進む決意をするように。
「先輩の言うとおり、頼ればきっと助けてくれると思います。御島も、小林も、それに九頭だってそうです。ただ俺は、見えてなかったんでしょうね」
「川島君……」
改めて気付かされた。
俺は偽物で、そこから作られる思い出も関係も全部偽物だと思っていた。
でも違った。
たとえ記憶がなくても。なくしたあとに作った思い出も関係も全部本物だ。
ならこの三年間は、偽物なんかじゃない。
だから信じて頼ってみよう。彼ら彼女らを。
「先輩」
俺は真っ直ぐ椎名の顔を見て。
「相談に乗ってもらっても良いですか?」
そう切り出した。




