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海底ゲーム世界  作者: 時計座
6/23

stage1-4 ゲームの名はReal


 セーブデータをロードしますか?


 ▶️YES

   NO


 プレイヤーを選んでください。


  氷狩映

  逢沢雅影

  渇川ツバメ

  油藤智歌

 ▶️九野涙


 『九野涙』でゲームを始めますか?


 ▶️YES

   NO


 ※ ※ ※

 Loading… Loading…

 ※ ※ ※


 両瞳を真っ赤に染める大号泣と、副次的に現れたひゃっくりが完全に収まったのは、怪盗姿の五人がビルの屋上に着地して少し経った頃だった。

 深呼吸を二、三度ほど繰り返して顔を上げる。すぐ目の前で穏やかな表情を見せる雅影に、涙はゆっくり頷きかけた。

「もう大丈夫です。ありがとうございます」

「よかった……ごめんね、怖い思いさせちゃって」

「いえ……勝手に皆さんを追いかけた私が悪いんです。おとなしく家で待っていれば……」

 そこまで口にしてから涙は、自分が彼らを追跡した当初の理由を思い出した。

 目を見開き智歌を見やる。魔法のロッドを無造作にぶら下げ、腰ほどの高さの落下防止フェンスに寄りかかる和服美人は、こちらを一瞥ともしないままぶっきらぼうに告げた。

「ジロジロ見るな。不愉快だ」

「……ごめん、なさい……」

「智歌、そんな言い方はないだろ」

「うるさい」

 雅影の叱責を一言で退けた彼女は、メニューを開き手短に操作した。目元のマスクと和服が光の粒子となって夜に溶け、その下から長袖シャツにジーンズという出発前の服装が現れる。

 気だるげに左肩を回すと、彼女は屋上にポツンと佇む塔屋へとまっすぐ歩き始めた。直後、真っ赤なチャイナドレスが涙の横を通り過ぎる。

「待ってよ智歌ちゃん~」

 智歌以上に素早い手捌きでメニューを操作したツバメのチャイナドレスが光粒子になって散る。ブレザータイプの制服に装いを戻したツバメが智歌を追いかけていく。

 背に追いつく少女のことなど気にも留めずに塔屋に消える美しい黒髪を、涙は難しい顔で眺めた。

 彼女が、油藤智歌こそが、涙が大人しく寝室に留まれなかった最大の原因である。

 涙が寝静まっているものだと信じて疑わなかった彼女は、寝室に入ってきて確かに言った。涙の皿に睡眠薬を盛ったと。そして寝ている間に記憶をすべて消すと。そんな暴露をされて、なお寝室で寝入ろうとする度胸など涙にあるはずもなかった。

 出掛けていく四人を追いかけたのも、あの場所にいたくなかったからというのが理由の半分を占める。もう半分は勢いと、彼らが何者かを知りたかったから。結果、自分まで警察に追われる目に遭うとは思いもしなかったが。

「ナナちゃんお顔が怖いよ~?」

 不意に左頬に走った痛みが思考を強引に断ち切った。

「きゃあ!?」

 口から悲鳴が飛び出す。女子高生の柔肌を躊躇なくつねる無礼極まる手を払いのけ、甲高く怒鳴りつける。

「なっ、何するんですか!?」

「ゴメンゴメン。泣いたり怒ったり忙しい子だなぁ」

 誰のせいで、という反論は煮えたぎるはらわたの中へ落ちていった。怒りの感情だけが視線に溶け出す。

 全く悪びれる様子のない怪盗ゼロ──否、ピクセル柄のシャツに上着を羽織った青年、氷狩映は、トレードマークの白いメッシュを揺らして(きびす)を返した。

「さ、早く行こうよ。智歌のやつ短気だから、待たせると何言われっか分かんないし」

 そう言い残し、映は塔屋の中へ消えていった。彼の背中を見送ると、胸の奥に蓄積していたフラストレーションが大きなため息となってこぼれ出た。

 それを見て、雅影が申し訳なさそうに眼を伏せる。

「……本当にごめん」

「い、いえ! 雅影さんが謝ることじゃないですから」

 慌てて両手を振って否定するが、雅影はかぶりを振ってそれをさらに否定する。

「ううん。もとはと言えば、涙ちゃんを盗みに巻き込んでしまったのがきっかけだ。KETOSの一員として、俺にも責任はある」

 雅影は自身のメニュー画面を開くと、一手一手厳かな手つきで操作した。やがて雅影の煌びやかな貴族服一式が消え、家にいたときと同じグレーのジャケット姿が現れた。ハットも紺から焦茶色に戻っている。

 その焦茶のハットを右手で取ると、雅影は深々と頭を下げた。

「君に怪盗をさせてしまったこと、本当に申し訳ない」

 その姿に、涙はしばらく声をかけることができなかった。

 涙の左手には、美術館から盗み出してきたスカーフがある。今もノイズが明滅しているこの謎アイテムの正体も、それを盗む理由も涙には分からない。だがきっと、やむにやまれぬ事情があるのだと、頭を上げない雅影を見ていて切に感じた。

「……雅影さん」

 か細い声に、雅影はゆっくりと顔を上げた。憂いを帯びたその瞳をまっすぐ見据える。

「教えてください。どうして皆さんは、怪盗をしているんですか?」

「…………」

 雅影は押し黙った。物憂げな視線が屋上のコンクリートに落ちる。

 吹き抜ける風の音だけが二人を包む。涙の夜空色のドレスの裾がハタハタとなびく。

「……この世界が、ただのゲームじゃないからですか?」

 ハッと雅影が視線を上げた。開いた瞳孔が、なぜ、と問いかけている。

「ゲームタワーの実験って話が嘘なのはもう知ってます。それに……」

 涙は周囲に広がる夜景に一瞬だけ目をくべると、呟くような声で続けた。

「……それにこのゲーム、リアルすぎます。まるで本当に現実みたいで……」

「現実みたいじゃなくて、現実なんだって」

 不意に陽気な声が屋上を貫いた。

 振り向いた瞬間、とても嫌な顔をしたのを涙は自覚した。塔屋に寄りかかるようにして映が立っていたのだ。

「そんな顔しないでよ。さすがの俺も傷つく。というかいつまでその格好でいるのさ? 装備解除しないの?」

 ヘラヘラした態度で歩み寄ろうとした映の前に、雅影が立ち塞がった。

「ん? どったの雅兄?」

「その話を涙ちゃんにするのは……」

「そんなこと言ったって。どっちにしてもいつか知らなきゃいけないことだよ? だったら俺たちの口から言った方がいいと思うけど」

「それはそうだけど……」

「ていうかナナちゃん、自力で半分答えにたどり着いてるし」

 ねーっ、と、雅影の肩越しに映が笑顔を向けてくる。

「……このゲームが現実みたいって話ですか」

「そう、それ。君の知りたがってる真実は、全部その一点に集約されている」

 ビシッ、と人差し指が向けられる。

「どう? 真実を知る覚悟はあるかな?」

「涙ちゃん……」

 雅影が心配そうな面持ちを向けてくる。無理をする必要はない、とその瞳が告げていた。

 涙は右手を動かしてメニュー画面を開いた。【Equipment(エキップメント)】から【SET-UP】ディスプレイを表示させ、そこにある唯一の項目【ウィザードドレス】をタップする。

 現れたのは【装備解除】と【やめる】の二つの選択肢だった。雅影が先ほどそうしたように、そして映が言っていたように【装備解除】に触れる。次の瞬間、涙を包んでいた夜空色のドレスと魔女帽、そしてオレンジのマスクは散り消え、慣れ親しんだ濃紺の制服に戻った。

 ディスプレイを消し、視線を上向ける。雅影を、そして映をしっかり見据えてから、小さく吸い込んだ息に声を乗せて吐き出した。

「教えてください。私は自分に何が起きたのか知りたい」

「いい返事だ」

 パチンと指を鳴らすと映は踵を返した。再び塔屋に入っていく。

 涙も追って塔屋に入る。雅影とすれ違い様、何か言わねばと思ったが、言葉が出てこなかった。雅影も、涙と同じ顔をしていた。

 塔屋の中は薄暗く、ほんの少し埃っぽかった。割れた小窓から差し込む月明かりが内部の一部を照らしている。いわゆる、廃ビルだ。

 先頭で階段を下る映が人差し指を立てた。

「それじゃあ早速、結論から」

 声が反響する。映は階段の真ん中辺りで足を止めると、振り向いてこちらを見上げた。

「ナナちゃんが睨んだ通り、ここは現実世界です。森羅万象あらゆるものにステータスが設定されてるけど、間違いなく現実なのです」

「じゃあどうして──」

 と口を開いた涙に、映は人差し指を向けて言葉を遮った。

「じゃあどうしてそんなことになったのか。それこそゲームタワーのせいだ」

「……どういうことですか?」

「ゲームタワーの正式名称、知ってる?」

「え……」

 急に問われ、涙はつい沈黙してしまった。

 ゲームタワーそのものはもちろん知っている。その名前が通称だということもどこかで聞いたことがある。しかし涙の持つ知識は一般常識程度で、正式名称などいきなり答えられるはずもない。

「実体電脳化研究所」

 答えを口にしたのは、涙の後ろから階段を下ってきていた雅影だった。

「世界最大手のゲーム会社『エンリル・コーポレーション』がフルダイブゲームの進化を目的として設立した研究施設だよ」

 フルダイブゲーム、とは涙も聞いたことがある。人の五感を仮想空間に接続し、それをもってアバターを動かすゲームのことをそう呼ぶ。コントローラーはなく、完全にゲームの世界に潜り込んだようで臨場感が違う──とは中学時代のゲーム好きの友人の言葉だ。

 なるほど確かに臨場感は凄い……と、妙なところで共感しながら、涙は気になったことを口にした。

「実体電脳化ってなんですか?」

「簡単に言えば、人の意識だけじゃなくて、実体のあるもの──有機物でも無機物でも──をゲームの中に送り込んだり、逆にゲームの中のものを現実に引っ張り出したり……そういう実験のことだよ」

「その実験に使われてたのが電脳変換波っていう電波。電波っていってもレーザーみたいなもんなんだけどさ、これでスキャンした物体はデータ化されて、ゲームの中に送れるようになるってワケ」

 雅影から言葉を継いだ映はそこまで言い終えると、再び階段を下り始めた。涙もそれを追う。

「で、その電脳変換波が世界をこんなにしちゃった諸悪の根元」

「諸悪の根元……って、まさか」

「お、気付いた? 察しのいい子は好きだよ」

 ニヤリと笑った映は、埃まみれの『4F』ブロックの前で振り返る。月にかぶっていた雲が晴れ、月明かりがスポットライトのように彼の姿を照らし出した。

「2242年12月25日、午後7時25分。ゲームタワーの頂点から最大出力の電脳変換波、通称『ウェイブ』が放出された。ウェイブはたちまち地球上のすべてをスキャンし、何もかもをデータ化させた…………」

「地球上の、すべてを……」

 愕然、という言葉すら、涙の心情を表すのには適切ではなかった。スケールの大きすぎる話についていけない反面、自分の身体もデータ化したと考えれば身近すぎる話にも感じられる。

「…………とまあ、こんな感じでご理解いただけた?」

「……いや、無理ですよ。頭では理解できても……いや、頭でもまだ完全には理解できてないっていうか……」

「知りたいって言ったのナナちゃんじゃん。『ワタシハジブンニ、ナニガオキタノカシリタイ』って……プフッ」

 全く似てない物真似に涙の怒りが着火する。

「バカにしてますか?」

「全然? 似てたでしょ?」

「似てないですよ。というか自分で吹き出してたし」

「そうカッカしないで。まだ話は終わってないのに、そうやってナナちゃんはすぐ怒る……」

「誰のせいですか!」

 発露させた怒りは廃ビル内に反射して消えていく。それが一切聞こえなかったかのように、映は次の階段を下り始めた。

 後ろを振り返ると雅影が両手を合わせていた。

「本当にごめん……性格以外は悪いやつじゃないんだ」

「……あんなやつのおもちゃになってたまるもんですか」

 息巻くと、涙は早足で映を追いかけた。

「それで? 話の続きがあるんですよね?」

「そうそう。第二章ね」

 映の声は楽しそうだ。それがますます涙の神経を逆撫でする。このまま飛び蹴りでもかましてやろうか、でもかわされるかも、などと考えているうちに、映が話し始めた。

「ウェイブはゲームタワーの暴走が原因でさ、あらゆるものをデータ化するだけじゃ終わらなかった」

「他にもなにか起きたんですか?」

「スキャンされた一部の人間にゲームデータが混入して、モンスターにコンバートしちゃったんだ。そりゃもう世の中大混乱だよね。いきなりゲームの世界になったと思ったら、今度は人がモンスターになって暴れてるんだもん」

「人がモンスターに……」

「警察とか自衛隊総出で暴動鎮圧までに一ヶ月。まあ全部は倒しきれなくて、逃げられたのもいたみたいだけど。今も人のよりつかない場所にたまにモンスターいるし」

「モンスターになった人たちは……どうなったんですか?」

 階段を下る背中に恐る恐る問いかける。しかし返ってきたのは存外、あっけらかんとした声だった。

「普通に生きてるよ? というかナナちゃんだって生きてるじゃん」

「私?」

「君だってモンスターだったんだよ? エレドラゴンって飛竜。あんま強くなかったけど」

「私が……モンスターに……?」

 正直、そう言われても涙にはピンとこなかった。なにせドラゴンになっていた間の記憶がないのだ。どの程度の時間ドラゴンになっていて、その間何をしていたのかを想像するのも難しい。

「モンスター倒すとアイテム落とすからさ、それがあれば元データから人間復元できんの。俺たちは『レリックアイテム』って呼んでるんだけど」

「レリックアイテム……もしかしてこれも?」

 涙は左手に握ったスカーフを掲げた。それを映が一瞥する。

「そ。例の暴動んときに大半のレリックアイテムが政府に持ってかれたから、俺たちはそれを奪い返して、人間に戻してるってわけ」

 三階を通り越す瞬間、涙はそっと後ろに目配せした。目が合った雅影が頷き返してくる。

「全部事実だよ。俺たちはゲームモンスター化した人々を救うために、政府を相手取って盗みを働いてる。たまに狩り残しのモンスターを倒しにいくこともあるけど、全部誰かを救うために必要なことなんだ」

「あの……政府はレリックアイテムに人のデータが入ってることは……」

「もちろん知ってる。知った上で、その事実を世間に隠してる。レリックアイテムは世間じゃ『特殊財産』って呼ばれてて、一般人は保有することも許されない。そのことを定めた法律さえ作ってしまうくらいだから、徹底した隠しぶりだよ」

「どうしてそこまでして……」

「そりゃあ、ウェイブが事故ってことを隠すためだよ」

 二階の手すりに積もった埃をフッと吹き飛ばしてから、映は語る。

「そもそもウェイブはゲームタワーの暴走で起きた事故。その事故で世界がゲームになるだけにとどまらず、罪なき市民までモンスターになったなんて知れたら、世界中のお偉いさんが切腹してもまだ足りないよ。だからウェイブは予定調和ってことにしたんだ。世界のエネルギー問題の解決のために行った、とかなんとか適当な理由つけて。そのために、レリックアイテムの真実を知られるわけにはいかなかった……ってわけ。あんだーすたん?」

「え、ええと……政府は大半のレリックアイテムを保持してるんですよね? そこから人を復元しようとは思わないんですか?」

「思わないだろうね。復元した人間──ウェイブから時間を越えてきたって意味で『トラベラー』って呼ばれてるんだけど、彼らの存在は政府にとって面白くないだろうから。なんたって、レリックアイテムの秘密がバレるかもしれないんだから」

「復元した人……トラベラーの人全員に毎回こんな説明を?」

「まっさか。ナナちゃんは目が覚めるのが特別早かっただけ。普通なら復元から二時間は起きないから、その間に適当な場所に放ってるよ。KETOSとトラベラーの関係が疑われても嫌だしね。まあ政府は薄々感づいてるだろうけど」

「放ってるって……」

「大丈夫、ちゃんとすぐ見つかって保護される場所を選んでるから」

 雅影のフォローが入ったが、それでもやや釈然とはしない。人を放る、という感覚が涙にないからだろうか。

 そうこうしているうちに三人は一階に到着した。汚れに汚れたガラス扉を開けると、すぐ目の前に彼らの家が見えた。

 少し躊躇したものの、映と雅影に流されるように涙も玄関を潜った。それと同時に響く、怒気を孕んだ低い女声。

「遅い。何をしていた」

 窓際のテーブルに腰かけた智歌がこちらをにらんだ。

 萎縮しかける涙とは裏腹に、映は伸びをしながら答える。

「別に~? 大したことはしてないよ。ただ、ナナちゃんに色々と説明をね」

「……なに?」

 鋭い眼光が、明らかに涙一人をロックオンした。

 全身を鳥肌が駆け抜けるのを感じながら、それでも涙は勇気を振り絞る。

「だ……だって! 私だって知りたかったんです! この世界のこととか、皆さんが怪盗してる理由とか……」

「……映。そこまで話したのか?」

「ん~?」

 緊張感、という言葉を知らないかのように呑気な返事を返した映は、さも当たり前歌のように言う。

「だってこれから一緒に怪盗する仲間だもん。何も教えない選択肢はないでしょ?」

「ふざけるな!!」

 ガンッ!! と拳がテーブルを叩いた。立ち上がった智歌が映に詰め寄る。

「仲間だと? 何を寝ぼけたこと言っている。こいつは私たちの正体を知ったんだぞ!」

「だからこそじゃんか。引き入れちゃえば何の問題もないよ」

「怪盗をする動機がない。こいつが裏切らない保証はない……!」

「あ、あのっ!」

 今にも爆発しそうな智歌を前に、涙はつい声を上げていた。

 智歌の鋭い瞳がこちらを向く。気圧されそうになりながらも、涙は肩の小さな震えを抑え、続きを告げた。

「わ、私……裏切ったりしません。みなさんのこと口外もしません」

「…………」

 智歌はしばらく黙っていた。やがて涙のもとまで歩いてくると、小さく唇を動かした。

「口ではなんとでも言える」

 涙の制服の襟首が乱暴に掴まれた。いたっ、と小さく声が漏れる。

「来い。やはりお前の記憶は消しておくべきだ」

 その細い身体のどこに、と思うほど、智歌の力は強かった。振りほどこうとしても振りほどけない。涙はなされるがまま引きずられていく。

 その動線上に立ち塞がったのは、またしても映だった。

「……どけ、映」

「強引なのはお前の悪い癖だな。そもそもまだ沖丸帰ってきてないし、どうやって記憶消そうってのさ」

「あんな機械、適当にいじっていればどうにかなるだろ。そこをどけ」

「断る。ナナちゃんはもう怪盗なんだ。貴重な戦力を削ぐ行為は認められない」

「こいつのどこが戦力だ……!」

「今に分かる……さ!」

 力を込めた語尾と同時に、映の左手が智歌の右手を払いのけた。よろけるようにして涙の身体が自由を取り戻す。後ろに転びそうになったところを、雅影が支えて助けてくれる。

 しかし涙はお礼を言うのも忘れ、すぐに視線を前方に向けた。智歌と映の間に張り詰めていた緊張が、破裂する音が聞こえたのだ。

「貴様っ……!」

 智歌は半秒ほどでメニューを開き、和傘を構えた。それとほぼ同時に、映も紫色の銃を右手に構える。

 両者の銃口が火を吹いたのも同時だった。和傘から飛び出した弾丸は映を掠めることもなく背後の壁へ。映の銃が撃ち出した光弾は、飾ってあった金銀の抽象画のど真ん中に命中し、焦げた黒色を追加させた。

 一発目を互いに外した二人だったが、そもそもこの玄関スペースは広くない。次の瞬間には二人ともに互いの額に銃口を突きつけていた。

 これ以上続けたらどちらかが死ぬ。そう思った涙は声を張り上げようとした。

 しかしそれを遮ったのは、玄関扉が開く音だった。

「やれやれ、いったい何の騒ぎだい? あまりうちでドンパチはしないでほしいんだけどね」

 声に振り向いた涙は目を見開いた。そして反射的に雅影の背中に身を隠した。

 そこにいたのは見覚えのある男だったのだ。いや、見覚えがあって当然だ。つい一時間ほど前、涙はその男に追い詰められたのだから。

 真っ白いトレンチコートに全身を包み、片手をポケットに入れたキザな出で立ちは、間違えようもなく東雲探偵だった。

 なぜここに。まさか尾行されたのか。一瞬のうちに様々な思考が涙の頭を駆け巡ったが、それを誰に言うより先に映が口を開いた。

「おかえり沖丸。思ったより早かったね。反省会とかなかったわけ?」

「そんな暑苦しいもの、僕が出席すると思うかい?」

「それもそうだ」

「それと智歌くん。映くんに喧嘩を売るのはやめておきたまえ。勝てる道理がないだろう?」

 そう言われ、智歌は舌打ちとともに和傘を下ろした。それに続いて映も銃口を下ろす。

「ところで……」

 東雲の目が涙を見た。肩がびくっと跳ねる。

「君はどこのお嬢さんだい? 怪盗が増えるなんて話、僕は聞いていないよ」

「あ、えと……その……」

 名乗っていいのかすら、涙には判断つかなかった。怪盗であることはバレているが、妙に敵意はない。

 迷う涙に声をかけたのは雅影だった。背中越しに優しい声が降りかかる。

「大丈夫。この人は味方だから」

「……本当に?」

 半信半疑で東雲を見上げる。東雲は長い前髪を指先でいじりながら答えた。

「本当さ。誰のお陰で君たちがレリックアイテムを盗み出せたと思っているんだい? 美術館の間取りを教えた僕のお陰だろう」

「ま、確かに。そのおかげでレーザー監獄突破できたしね」

 銃をくるくると回しながら映が言った。どういうこと、と瞳で問いかけると、映は犬歯を覗かせた。

「これな~んだ?」

 ポケットから取り出されたのは、美術館の中で見た、透明な板の束だった。映がこれを裏技と呼んでいたのを覚えている。

「これ、リフレクトシートっていってね。弾丸を反射させる特殊な板なんだ。これを美術館中の壁に貼りまくった。するとどうなると思う?」

「え、ええと……」

 涙はパニクる頭で精一杯考えた。しかし答えが出るより先に、映が自ら答えを告げた。

「遠く離れた死角にあるものを狙撃できる。具体的には、レーザー監獄の中から制御室の制御装置とか……ね?」

「あっ……」

 一発。扉に跳ね返り廊下へ消えていった弾丸があったことを涙は思い出した。それが廊下で反射を繰り返し、制御室を狙撃したというのか。

「そんな、バカな……」

「って思うじゃん? それが可能なんだよね。沖丸がくれた間取り図があれば。あ、あと巡回のお巡りさんを弾道から引き離してくれた囮トリオも大事か」

 ねー、智歌、と映が笑顔を向ける。しかし智歌は相変わらずの仏頂面をしていた。

「そんな話はどうでもいい。沖丸。さっさとこいつの記憶を消せ」

「相変わらずの上から目線だね。まあ、それも君らしくて素敵だけど」

「うざい。下らないこと言ってる暇があれば早くやることやれ」

「だーかーら、ダメって言ってるでしょ? せっかくエレドラゴン倒して復元した、五人目の怪盗なんだから」

「エレドラゴン……なるほど」

 そう東雲が小さく呟いたのを涙は聞き逃さなかった。

「智歌くん。悪いが君の頼みは聞けそうにない。諦めたまえ」

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味さ。彼女の記憶は消せない」

 そのまましばらく、智歌と東雲は睨みあっていた。涙は雅影の背中でその様子を固唾を飲んで見守り、映は面白半分といった様子だ。

 両者の均衡を破ったのは、奥から現れた無邪気な声だった。

「宿題終わった~!! エックスとかワイとかダイニューとか、なんとかなったよ雅兄!」

 ツバメだ。嬉しそうな足音を響かせて現れた彼女は、現場の異様な雰囲気を察して首をかしげた。

「……あれ? みんなどうしたの?」

 すると、今までで一番大きな舌打ちをして智歌が玄関を乱暴に押し開けた。

「智歌ちゃん? もう帰るの?」

 ツバメの問いかけを無視して、玄関扉は閉められた。

「……どうしたんだろう?」

「気にしなくていいよー、ワガママ通らなくて拗ねちゃっただけだから」

「ふーん?」

 小首をかしげながらツバメはチェアに腰かけた。

「あ、沖丸も帰ってたんだ。おかえり~」

「ただいま。そこは僕の椅子なんだがね」

 まあいいけど、と呟きながら、東雲は再び涙に視線を向けた。

「はじめまして、でいいのかな。僕は東雲沖丸。表の顔は私立探偵、裏の顔はKETOSの影の立役者さ。よろしく、ガール」

「…………」

 涙は差し出された右手を握るかどうかためらった。彼が本当に味方かどうかで悩んでいるのではない。キザな振る舞いが単純に苦手なのだ。

「……九野涙ですよろしくお願いします」

 結局涙は彼の手を取らず、雅影の背中で控えめにお辞儀をするだけにとどめた。

 探偵は空の右手を引っ込めると、その手で長い前髪をファサッとかいた。アニメや漫画の中でしか見たことない動作だった。

「ところで、涙くんは今日この後どうするんだい?」

「できれば家に帰ろうかと……」

「涙くんの住所は?」

「北海道の旭川ってところなんですけど……」

「ねえねえ映、アサヒカワってどこ?」

 ツバメが映に訊ねた。

 映は先程まで智歌がいたテーブルに腰かけると、天井を指差した。

「ここよりずっと北の方。今でいう花切(はなきり)とか雨井(あまい)とか、あそこらへん」

「あ~、あっちか~。遠いねルイルイ」

 ツバメが同情するような瞳で涙を見た。

「遠いって、そんなに遠いの?」

「うん。だってここ東京だもん」

「とっ……!?」

 嘘、と心の中で叫んだ。涙の身を乗っ取ったエレドラゴンという龍は、涙の知らないうちに北海道から東京まで飛行していたらしい。なんと迷惑な話だろうか。

「しかしこれは困ったね。花切は一晩のうちに帰れる距離じゃない」

 わざとらしく部屋を縦断した沖丸は、芝居がかった仕草で振り返って告げた。

「仕方ない。今夜は僕の家に泊まりたまえ。心配はいらない。この家には僕しか住んでいないからね」

 心配大有りである。どうして数分前に名前を知ったばかりの男女が、一つ屋根の下で一晩過ごさなければならないのか。

「沖丸……さすがにそれは許可できないよ」

 すかさず雅影が拒否する。涙にとってはこれ以上ない味方だが、沖丸にとっては面白くなかったらしい。智歌にも負けない仏頂面で雅影を見た。

「どうして君の許可がいるんだい? 決めるのは涙くんだ。君は関係ないだろう」

「これだけお前のこと警戒してるのに、はい泊まります、なんて涙ちゃんが言うわけないだろう?」

 ここぞとばかりに猛烈に首を縦に振る。ここに泊まりたくない意思を懸命に示すと、沖丸は両手を肩の位置まで上げてため息をこぼした。

「わかったよ。涙くんが嫌がるのなら無理強いはしないさ。ただ、今晩はどうするんだい?」

「大丈夫、あてはある。映、ツバメ」

「ん?」

「なぁに?」

「涙ちゃんをそっちに任せてもいいかな?」

 そっち、が意味するものは涙にはわからなかったが、映とツバメには伝わったらしい。

「そういうことなら」

「私たちに任せて!」

 二人は顔を見合わせて笑うと、同時に親指を立ててみせた。


 ※ ※ ※

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 ※ ※ ※


 夜は更け、時刻は二十三時を回ろうとしていた。

 沖丸を家に残し、雅影とも道中で別れた後、映とツバメに連れられた涙はとある施設の前に立っていた。

 やけに広い庭と、そこにある数々の遊具が特徴的だ。一部まだ明かりがついている建物は二階建てで、左右にかなり幅がある。ベージュの外壁の端っこに流れ星のようなマークが描かれているのが、暗い中でもよく見えた。

「幼稚園……いや、孤児院?」

「せいか~い。ま、ここ読めばわかるか」

 映は手で塀に書いてある文字を示した。『児童養護施設ほしくず園』と刻まれている。

 その隣にある引き門扉を映は躊躇いなく開けた。カラカラと車輪が回る音が響く。

 映とツバメに続き涙も校庭に足を踏み入れた。

──まさかとは思うけど、盗みに来たわけじゃないよね?

 心の中でそんなことを祈っていると、建物から一人の女性が駆けるようにして外に出てきた。

 中肉中背の中年女性だ。中年とはいえ髪は白髪まじりで縮れており、高年手前であることが窺える。

 女性はこちらを視認すると、大きな声で二人の名を呼んだ。

「映、ツバメ!」

「ただいまー園長先生」

「たっだいま~!」

 元気に跳び跳ねるツバメを見て女性は丸い顔を綻ばせた。

「もう、どこ行っていたの? こんな時間よ?」

「あれ? 言ってなかったっけ。雅兄んところだけど」

「聞いてないわよ。ちゃんと言ってちょうだい。それとあんまり雅影にも迷惑かけちゃダメよ。……ところで、その子は?」

 女性は涙を見ながら映に問いかけた。

「ん? この子は家出少女、その名もナナちゃん!」

「違いますっ!」

 と、反射的に否定してから考える。名前はともかく、ここは家出少女ということにしておいた方がいいのではないか。まさか復元されましたとは言えない。

「……九野涙です。私、家に帰れなくて、行くところに困ってて……」

 嘘ではない程度にごまかす。女性は涙を見てにっこり微笑んだ。

「それでうちに来たのね。いいわよ、好きなだけ泊まっていきなさい」

「好きなだけって……そんなわけには……」

「いいの。うちは私立の孤児院だからね。騒がしいのさえ嫌じゃなければいくらでもいて。私は園長の好原(よしはら)美星(みほし)。よろしくね涙ちゃん」

「は、はい。よろしくお願いします」

 差し出された右手を握る。少し皺っぽく、それでいて暖かい手だった。

 それから涙は好原に案内され、ほしくず園の中へ入った。泊まるのはツバメの部屋ということになった。

 好原と別れ、ツバメの案内で二階へ。好原の足音が遠くに聞こえなくなったのを確認してから、涙は二人に小声で問いかけた。

「あの……KETOSのこと、園長先生は……」

「知らないよ。怪盗の正体を知ってるのは沖丸くらいのもんさ」

「絶対秘密だからね」

 しーっ、とツバメが口元に指を立てる。涙はうなずく代わりに彼女と同じ動作を繰り返した。

「……どうにか智歌さんにも分かってもらいたいんだけど……」

「あいつは頑固なところあるからねぇ。ま、なるようになるよ」

「あ、ここだよ私の部屋」

 並ぶ扉の一つを指差してツバメが言った。扉を開けるのと同時に、映が右手を軽く上げる。

「そんじゃ、また明日」

「あ、ちょっと」

 去ろうとする映を涙は呼び止めた。

「どしたの?」

「KETOSはモンスター化した人々を助けるために盗みを働いてるんですよね」

「そうだけど?」

「……こんな大変でリスキーなこと、どうしてやろうと思ったんですか?」

「………………さあ。どうしてだったかな。忘れちゃったよ」

 それだけ言い、映は去っていってしまった。

「……ねえ、ツバメちゃんは──」

 と聞こうとして振り返ると、ツバメは眠たそうに目蓋を擦っていた。

「うん……? なにルイルイ……?」

「ううん、なんでもないよ。寝よっか」

「寝る……」

 ふわぁと大きなあくびをするツバメに聞く気にはなれない。涙はうとうとするツバメを介護するようにして部屋に入ると、彼女をベッドに寝かせた。

 そこから布団を探そうとしたが、慣れない世界での探し物はうまくいかない。そのうち眠気が襲いかかり、諦めた涙はツバメの隣に寝転がり目蓋を閉じた。


 ※ ※ ※

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 ※ ※ ※


「おねえちゃんこっち~!」

「ねえみて、おねえちゃん!」

 引く手数多。引っ張り凧。その言葉の意味を涙は今、身をもって体感していた。

 右に子供、左に子供。小学生に満たない小さな子供たちが涙を取り囲んで、あれこれ話しかけている。それほど涙が珍しいのだろうか。

「ごめんね涙ちゃん。お客さんなんて滅多にないから……」

 申し訳なさそうに告げる好原園長も、さらに小さな子供の相手で忙しそうにしている。

「いえ。手伝いたいって言ったのは私ですから」

「無理はしなくていいからね。その子たちやんちゃだから」

「だ、大丈夫ですよ。たぶん……」

 昨日の美術館侵入に比べたら、子供たちの相手なんて文字通り可愛いものだ。

「ルイルイ人気者だね。羨ましいな~」

 トーストをかじりながらツバメが言う。着ているのは昨日と同じブレザーの制服で、トーストがよく似合う。

「そんなことよりツバメちゃん、時間は大丈夫なの?」

「時間? ……あっ!」

 部屋の時計──壁にかかった丸時計だ──を確認したツバメは、残りのトーストを一気に口に押し込むと勢いよく立ち上がった。

「やばい遅刻する! いってきます!」

「気をつけてねー」

 好原の声を背中に受けながら、ツバメが人間離れした速度で飛び出していく。ツバメの高校の場所は知らないが、あのスピードなら遅刻は免れるのではないか。なんとなく涙はそんなことを思った。

「ツバメは毎朝慌ただしいね~」

 反面、映は呑気にモーニングコーヒーを啜っていた。その周囲に子供はいない。

「……映さんはいいんですか、行かなくて」

「昨日から思ってたんだけど、さん付けやめてくんないかな? むず痒い」

「……じゃあ映くん。あなた優雅にコーヒー飲んでますけど、学校とか仕事はいいんですか?」

「大丈夫大丈夫。俺一応ここの職員だから。手伝いだけど」

「……じゃあ子供たちの相手くらいしてくださいよ」

「そうしたいところなんだけどね、子供の方が俺に寄り付かないんだからしょうがない」

 コーヒーを飲み干すと、映は席を立った。そのまま外へ行こうとする。

「さてと、それじゃ俺もそろそろ行きますかね」

「え、あなたの仕事場はここですよね?」

「野暮用ってやつ。すぐ戻るから」

 そう言って映はどこかへ去っていった。

 野暮用がなんなのかは分からないが、まさかこんな白昼堂々と盗みは働くまい。ただのサボりであることを願いながら、涙は子供たちの相手に専念した。

 しかし、今度は去る者ではなく、訪れる者が現れた。

「涙ちゃん、うちのお手伝い?」

 顔を見せたのは雅影だった。グレーのハットを被り直しながら部屋に入ってくる。

 その瞬間、涙の胸の奥で音が鳴った。

「雅影さん!」

「あら雅影、久しぶりね」

 好原が柔和な笑みを見せる。涙の周りに集まっていた子供たちも、雅影を見つけた途端そちらへ駆けていった。

「まさにぃだ~!」「かっこいい~!」「だっこ~!」

 特に女子の盛り上がり方が激しい。雅影は両手をあげる女児を抱き上げると、画になる笑顔を浮かべた──その笑顔にほんの少し嫉妬したのは、誰にも言えない秘密ではあるが。

「それにしてもどうしたの? 帰ってきてくれるのは嬉しいけど、用もなく来るのは珍しいわよね?」

 好原が問うた。

「うん。ちょっと涙ちゃんの様子が気になってね」

「私?」

「みんなと仲良くしてるか心配でね。でもこの感じなら大丈夫そうだね。子供たちにも好かれてる」

 雅影の笑顔が涙に向けられた。その一瞬だけで、涙は大きく満たされた気分になった。

「園長先生。涙ちゃんちょっと借りてもいいかな?」

「構わないけど、どうしたの?」

「お話があってね、大事な」

「私に話、ですか?」

 雅影は頷くと、抱いていた女児を下ろし、手招きをした。

 雅影についていき部屋を出る。そのまま広い園庭に出ると、彼は隅の方へ向かった。用具倉庫と小さな雑木林しかない、誰も寄り付かなさそうな場所だ。

 使うとすれば告白か。いやまさか、そんなわけはない。昨日知り合ったばかりではないか。

「あの……私にいったい何を……」

 自分の顔がわずかににやけていることに気づかず、涙は問いかけた。返答の代わりに返ってきたのは、一枚の紙切れだった。

 少なくともラブレターではない。涙は雅影にまた問いかけた。

「これは……?」

「明日の新幹線のチケット。これで北海道に帰るんだ」

「え……」

 差し出されたチケットに目を落とす。行き先は東京から花切。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「大丈夫。地名は昔と変わってるけど、旭川付近だから。問題なく帰れると思う」

「そうじゃなくて! 私帰るとは……」

「警察はもう、怪盗セブンの正体について調べ始めてる」

「それ、は……」

 息が詰まる。想像できたことだが、いざ事実として直面すると言葉を失う。

「もちろんそんな簡単に正体は掴めない。でも万が一ってこともある。それに……」

「それに……?」

「最悪の場合……智歌が何をしでかすか分からない」

 涙の脳裏に長い黒髪が浮かぶ。敵意をむき出しにした瞳を想像しただけで、涙の二の腕に鳥肌が立った。

「だから東京にいるより、地元に帰った方が安全だ。十二年の月日が経っているとはいえ、その方がきっと君のためになる」

「十二年……私がモンスターでいた時間は、それだけあるんですね」

「うん……もっと早く助けられなくてごめん」

 特段、驚きはしなかった。朝のワイドショーに出ていた俳優が、涙の記憶よりずっと更けていた。長いこと自分が眠っていたことは、その瞬間察しがついていた。

 黙っていると、雅影は涙の右手にチケットを握らせた。

「……明日の十九時発。見送りはできないけど、ちゃんと帰るんだよ」

 元気でね。そう言い残し、雅影はこちらを振り返ることなくほしくず園を後にした。去っていく背中を呼び止めることは、涙にはできなかった。


 その日一日、涙は他のことを考えられなかった。

 なんとか頑張って子供たちの相手をしようとしても、相手の話は頭に入ってこない。心ここにあらずといった涙に、子供たちの方が心配するほどだった。

「はぁぁぁぁ……」

 ベッドに腰掛けながら、無意識に大きなため息がこぼれた。

 夕食後のデザートと称して板チョコをかじっていたツバメが振り向く。

「どうしたのルイルイ? ため息なんてらしくないよ?」

「あ、ごめん……なんでもないよ」

「ほんとにー?」

 そのとき、部屋の扉が開かれた。遠慮のない声が響く。

「やっほーツバメ、ナナちゃん。元気?」

「映くん……女子の部屋に無断で入るのはどうかと思います」

「だって鍵かけてないじゃん。それに俺とツバメは兄妹みたいなもんだし、気にしてないさ。な、ツバメ」

「ううん、デリカシーないなーってずっと前から思ってた」

「あー、聞こえなーい」

 耳を塞ぎながら映は勝手にベッドに腰かけた。叩いてやりたい衝動に駆られたが、それより一瞬先にツバメが口を開いた。

「で、なんの用? 明日のこと?」

「ビンゴ」

 パチンッと映が指を鳴らす。すると部屋の中央にディスプレイが出現した。そこに映し出されていたのは豪勢なお屋敷だ。

「作戦会議をしようと思ってね。場所は資産家、大濠(おおほり)善一郎(ぜんいちろう)の屋敷。狙うは大濠が裏ルートで入手したレリックアイテム【絶対氷塊】。予告状はもう出してある」

「また盗みに行くんですか」

「もっちろん。もう下見もすませてある」

「昼間の外出はそれですか……」

「いぐざくとりー。作戦開始は十九時だ」

 十九時。その時間は新幹線が出発する時間だった。

 もしかすると雅影は、わざとこの時間のチケットを寄越したのではないか。涙を盗みに参加させないために。見送りできないと言っていたのも、怪盗業があるからだろう。

「これ、私も参加するんですか?」

「なにを当然のことを。ナナちゃんももう立派な怪盗なんだからさ」

 やはり映は知らないらしい。涙を返そうとしたのは完全に雅影の独断ということになる。

「雅影さん……」

「ん? なんか言った?」

「……いえ」

「そう。で、警察による警備はないらしい。まあそりゃ、違法ルートで手に入れたもの守ってくれとは言えないわな。そんなわけで、警察にパイプがある沖丸からの情報も今回はありまっせん。その上で、予想されるトラップなんだけど──」

 女子の部屋でつらつらと語る映。ツバメも真剣な表情でその話を聞いている。

 涙だけがずっと疎外感を感じたまま、夜は更けていった。


 ※ ※ ※

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 朝風呂というものを涙はあまりしたことがなかった。

 風呂というのは一日の終わりに、その日の汚れを悩みもろとも全部流し去るもので、朝に行うのはしっくりこなかった。しかし一晩経っても消えない悩みがあれば、朝風呂もやぶさかではない。

「ふあーー……」

 肩まで湯船に浸かると、身体の奥底から声が漏れた。広い浴室に声が反射する。

 ゲームの世界になっても風呂は気持ちいいもので、人々の文明からは消えていなかった。データの身体ならば汚れもないのではと思うが、どうやらそういうわけでもないらしい。なかなか難しい話であるが、今の涙にその辺の仕組みを考えるだけの思考リソースはない。

「……どうしよう」

 ちゃぽん、と水面が揺れた。

 涙のアイテムホルダーの中には、昨日雅影がくれた新幹線のチケットがある。これを使えば地元に帰ることはできるが、本当にそれでいいのか。

 わからない。

 顔の半分まで湯に浸かる。ぶくぶくと息を吐きだしながら、頭まで沈んでしまおうかと思ったときだ。

 浴室の外から声がした。

「涙ちゃーん?」

「は、はい!?」

 慌てて顔を湯船から出す。振り向くが声の主が入ってくる様子はない。

「大丈夫? ずいぶん長いこと入ってるけど、逆上せてない?」

 声は好原だった。

「大丈夫です。ちょっと考え事してて……」

「お風呂の中で考え事なんて、余計逆上せるわよ?」

 好原の声は笑っていた。涙も笑い返してみるが、自分でもわかるほどに空っぽな笑いだった。

「……なにを考えていたの?」

 好原のその問いかけに、涙は答えるべきか迷ったが、やがてゆっくりと口を開いた。

「……家に、帰るべきか否かを」

「……もしかして、うちに迷惑とか考えてる?」

「それは……」

 言われてから気づく。図星だった。もちろん理由は他にもあるが、ほしくず園の迷惑を気にしているのも事実だ。

「やっぱり。そんなこと気にしなくていいのに」

「でもそういうわけには……」

「あのね、ここはみんなの家なの。ここを必要とする限り、ここはあなたの家なのよ。だからそんなこと気にしなくていいの」

「…………昨日や一昨日は、帰りたくても帰れなかったんです。でも今なら帰ることができる。だけど、帰るのが正解なのかどうかわからなくて……」

「……そう。難しいおうちの事情があるのね……私、思うんだけどね、帰る場所があるって幸せなことだと思うの」

「帰る場所、ですか……」

「私はそれをどんな子にもあげたくて、ほしくず園を作った。でも涙ちゃんにはここの他に帰る場所があるのね。……さっきと言ってることが逆になるかもしれないけど、帰る場所があるなら、そこに帰るのが一番いいと思う。あなたの帰りを待つ誰かが、きっといるはずだから」

 帰りを待つ誰か。涙の脳裏に浮かんだのは、両親の顔だった。二人はもう十二年も娘と離ればなれになっている。そう考えたら不意に悲しく思えてきた。

「……そうですよね。帰れる場所があるなら……」

「まあでも、涙ちゃんいなくなったら少し寂しくなるけどね。逆上せないうちに上がるのよ」

 好原の気配が遠ざかっていく。涙はすくった湯で顔を洗うと、勢いよく立ち上がって湯船から出た。

 脱衣所で──【装備項目(エキップメント)】画面で指先ひとつで衣服を着脱できるこの世界に脱衣所が必要かどうかは謎だが──制服を着て、髪を乾かして出る。

 時刻は昼の十二時半。子供たちの昼食が終わった頃だろう。涙はキッチンに向かうと、つまれた皿と洗剤を手に取って食器洗いを始めた。とはいえこの世界の皿洗いはずいぶんと簡単で、泡はすぐにたつし、水に触れればすぐ消える。それでも一つ一つ丁寧に洗っていると、一人の子供が声をかけてきた。

「るいちゃん、なにしてるの?」

「食器洗いだよ」

「どうして? いつもは先生がしてるのに」

「立つ鳥跡を濁さず……ってやつかな」

 子供は不思議そうに首をかしげ、そのままどこかへ行ってしまった。

 涙の心は決まっていた。今夜十九時、新幹線に乗り旭川に帰る。

 食器洗いを終えると、次にツバメの部屋へ向かった。この部屋にもお世話になったのだから、掃除のひとつでもしておかねばならない。

 そうやって涙はほしくず園の中で、できる限りのことをした。映は今夜の準備か姿が見えなかったため、なにかを感づかれる心配はなかった。

 夕方、部屋の主が戻ってきて驚きの声をあげたとき、涙は少しだけ嬉しくなった。

「あれ!? なんかきれいになってる!?」

「あ、わかる? 結構頑張ったんだ~」

 ツバメがピョンピョン跳び跳ねても埃ひとつ散らない。羨望の眼差しが涙を見る。

「すごいよルイルイ! 私掃除苦手だから助かる~! これからもよろしくね!」

「う、うん……そうだね」

 これから、がないことは言えなかった。

 ツバメはいい子だ。心配になるくらい素直で、見ていて元気がもらえる。きっと涙が帰ると言えば悲しい顔をするだろう。それは見たくなかった。

「あ、そろそろ時間だよ。大濠の屋敷に向かわないと」

 時計を見ながらツバメが言った。

「……そうだね。ツバメちゃん、先に行っててくれる?」

「なんで?」

「ちょっとやることがあって。すぐ合流するから」

「わかった。早く来てね~」

 手を振りながらツバメが出掛けていく。その背中を見送ってから、涙は好原を探した。

 好原は園庭にいた。タイヤの遊具に腰かけて空を眺めている。

「園長先生」

「あら、涙ちゃん。今日はあちこち掃除してくれたみたいで、ありがとうね」

「いえ。……最後のご挨拶に来ました」

 そう言うと、好原は少しだけ驚いたように目を開いたが、すぐに微笑み、

「そう……帰るのね」

「はい。待ってる人がいると思うので。三日間、お世話になりました」

 ゆっくり頭を下げる。好原はしばらく黙っていたが、やがて「寂しくなるわね」と小さく告げた。

「でも、それが涙ちゃんの決めたことならなにも言わないわ。たまには顔見せに来てね」

 北海道と東京じゃ無理だろう。そう思ったが涙は口には出さずに「はい」と答えた。

 最後にもう一度だけお辞儀をして、涙はほしくず園を後にした。


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 東京駅に使われているレンガは埼玉県深谷市で作られている、というのはちょっとしたトリビアだ。十二年前の知識なので現在はどうなのか確証はないが、二百年以上前から同じレンガだというのだからきっと今も変わっていないだろう。

 別に駅にもレンガにも思い入れのない涙でも、実物をその目で見たときはちょっとした感動を覚えた。それと同時に、東京駅の人の多さに驚き恐れおののいた。何万、下手すれば何十万人。それだけの人間を一斉にのみ込めてしまうこの建物が、ある種の化け物とさえ思えてくる。

 しかし涙が東京駅を化け物だと思う理由は、もう一つあった。

「乗り場どこ……?」

 方向音痴のつもりはない。しかしこの人の多さと広さである。北道道民の涙に迷うなというほうが無理な話だ。

「そもそもここどこ~?」

 案内板を見ても分からない。新幹線の時間までまだ時間はあるが、そろそろ見つけないと乗り遅れかねない。

 だというのにこんなとき、見つけたくないものを見つけてしまうのはなぜなのか。

「おや、偶然だね。どうしたんだいこんなところで」

 真っ白いコート、長い前髪、洒落た白ブーツ、そして格好つけた声音。おまけにキザな立ち姿。

 回れ右したい衝動をグッとこらえ、涙は可能な限りの笑顔で応じた。

「こ、こんばんは沖丸さん。じゃあ急いでるんで」

「待ちたまえ。僕には君が迷子の子猫に見えたんだけどね」

「うぐっ……」

 子猫かはともかく、迷子なのは間違いない。このままでは涙は一生東京駅をさまよう、生きた亡霊になりかねない。

 背に腹は代えられないと意を決して、涙は沖丸に訊ねた。

「……新幹線乗り場って分かります?」

「ああもちろんさ。僕が案内しようか」

「お……お願いします」

 まさか最後の最後に沖丸に助けを求めるとは夢にも思っていなかった。涙は渋々ながら彼の案内についていく。迷いのない彼の足取りから、場所を把握しているのは本当らしかった。

「ところで君はどうしてここに?」

 歩きながら沖丸が聞いてきた。答えるか迷ってから、どうせ最後だと、自棄ぎみに話す。

「帰ろうと思って。雅影さんが新幹線のチケット取ってくれたんで」

「ほう?」

「東京より北海道──今は花切でしたっけ、そっちの方が安全だって言って」

「ふむ……本当にそうかな」

「どういうことですか」

 雅影の厚意にけちをつけられた気がして、涙はムッとして聞き返した。

「涙くん。復元して社会復帰した人間がどう呼ばれているか知っているかい? 【時間旅行者(トラベラー)】さ。世間から見れば行方不明になった人間が、当時の姿で現れるんだからそう見えるのも無理はない。君がこのまま地元に帰ったら間違いなくトラベラー認定されるだろうね」

「それがどうかしたんですか」

「自力で地元に帰ったトラベラーなんて君がはじめてだろうからね。当然、君のここ数日の行動が洗われる。そうなれば新幹線に乗ったことも、そのチケットを買った人間のことも警察の知るところさ」

 ぞくっ、と、言い様のない嫌な予感が涙の背筋を駆け上がった。

「雅影さん……!」

「トラベラーと雅影くんが繋がれば、そこからKETOSのこともバレるだろうね。当然彼は逮捕……いや、下手すれば裏の人間によって消されかねない」

「そんな……!」

 涙の足が止まる。沖丸も足を止め、二人の周りを忙しない人流が囲む。

「恐らくだが、雅影くんはそれを織り込み済みで君の身の安全を最優先したんだろう。トラベラーのことを自分の口から話さなかったのも、涙くんに気づかれたくなかったから」

「どうして……どうして雅影さんは、こんな……」

「それが、逢沢雅影という人間なんだよ。自分より他人優先。そういうところが彼の人徳で、僕の一番嫌いな箇所さ」

 沖丸は身を翻すと、右前方を指差した。

「あそこが新幹線乗り場さ。帰りたいなら行くといい」

 踵を返した白い背中が、次第に人混みへ溶けていく。

「僕はどちらでもいいけどね。ただ、帰ってから後悔するのは気の毒だと思っただけさ。知った上でどうするかは君の自由だ」

「私は……」

 一人残された涙は、じっと新幹線乗り場を見つめた。あそこを通れば、元の生活に戻れる。ゲームの世界に慣れる必要はあるが、それでも平和で平穏な暮らしが待っている。その犠牲に雅影が十字架にかけられたとしても──────。

「私、は…………」

 ゆっくりと動き出す右足。それは間違いなく、平和な暮らしの方角へと向かっていた。

 その数分後、花切行きの新幹線が東京駅から出発した。


 ※ ※ ※

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 ※ ※ ※


 ここまでの冒険をセーブしますか?


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