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海底ゲーム世界  作者: 時計座
5/23

stage1-3 怪盗団KETOS


 セーブデータをロードしますか?


 ▶️YES

   NO


 プレイヤーを選んでください。


  氷狩映

  逢沢雅影

  渇川ツバメ

  油藤智歌

 ▶️九野涙


 『九野涙』でゲームを始めますか?


 ▶️YES

   NO


 ※ ※ ※

 Loading… Loading…

 ※ ※ ※


 まるで雲の中にいるかのような、ふわふわとした感触が身体を包み込んでいる。

 制服のまま潜り込んだベッドはマットレスも掛け布団もかなりの上等ものらしく、横たえた身体はどこまでも深く深く沈んでいきそうだ。しかしそんな寝心地のよさとは裏腹に、涙の意識はいつまでたっても微睡みへ落っこちてはくれない。

 一度寝て、そして起きればこれが現実かどうか分かると思っていたが、それ以前の問題だった。睡眠を阻んでいるのは現状への混乱か、はたまた彼らへの警戒心か。涙は両目をぱっちり開くと、布団に埋めていた頭をそっと枕元へ出した。

 視界に広がるのは油藤智歌に案内された、やや広めの寝室だ。天井付近に浮遊する土星の輪っかのような照明は完全消灯モードで、部屋の光源は窓からわずかに差し込む月明かりと、壁際でほの青く発光する【21:14】のデジタル表記のみ。ベッドの脇のナイトテーブルには灯籠にも似たスタンドライトが設えられており、涙は布団から出した左腕をそっとそちらへ伸ばした。

 指先が灯籠の角に触れる。その瞬間、指と灯籠の隙間にホロウィンドウが出現し、左手がびくっと引っ込んだ。

 ホワイトの枠に縁取られた長方形の窓は、部屋の薄暗さを考慮してか控えめに発光していた。左側には【RED】【BLUE】【GREEN】など発光色を選ぶボタンが列をなし、右側には出力調節用らしきバーがある。現在の設定は【WHITE】、出力は0%だ。

 身体を転がしてうつ伏せになると、涙は右手の人差し指を恐る恐るバーに置いた。ゆっくり上昇させると灯籠から白い光が徐々に漏れ出す。

 全体の五分の一くらいまでバーを上げてから、右上の×印に触れる。ホロウィンドウが空気に溶けるように消えるのを見てから、涙はベッドから足を出して絨毯の上に置いた。

 灯籠が放つほのかな光が寝室を照らし出す。広さのわりに物は多くなく、整頓された室内からは主の性格がある程度読みとれるようだ。

 涙はベッドから立ち上がると、真正面の壁に備え付けられたクローゼット扉をにらんだ。薄い茶色をした、木製の両開きの扉だ。

 数歩あるいて扉の前に立つと、左右の取っ手に指をひっかけてそっと引く。他人のクローゼットを勝手に開けることへの罪悪感はまるでなかった。なぜなら涙は、この先に一着も衣服が並んでいないことを知っているから。

 折り畳まれるようにして開いた扉の向こう側は、狭い踊り場となっていた。やや長方形気味な部屋の奥の床に丸い穴が穿たれており、そこから下へと伸びる鉄製の螺旋階段。

 涙はそっと、底無し沼を覗きこむような心象で螺旋階段の底を見た。三メートルほど下った先に広がっているのは、むき出しのコンクリートの床と壁──怪しげな黄金の十字架オブジェと、そこから謎のコードが繋がった蓋つきベッド、そして粗末なキャスター椅子だけが置かれた冷たい空間。ほんの一時間半ほど前、涙が目を覚ました部屋だ。

 その瞬間のことを思い出せば、容易に混乱が涙を闇の中へ手招きしてくる。至近距離でこちらを覗きこんでいた赤い鳥型マスク、ヘラヘラした態度のモノクロタキシード、宙に開く謎のメニュー、誘拐、メイド──

 涙は頭を左右に振って螺旋階段から離れた。これ以上混乱を掘り返せばどうにかなってしまいそうだった。クローゼットから出て扉を閉めると、そこに背中を凭れる。

 この世界はゲームなのだと、一応の説明は受けた。名古屋にあるゲームタワーなる建物が電脳空間の研究をしていることは前から知っていた。だが肝心の涙自身はゲームにさして興味はなかったし、そもそも居住は北海道だ。遠く離れた名古屋までわざわざバイトをしにいくというのも、いささか腑に落ちない。

 それほどまでに魅力的な給料だったのか──などと納得できる理由を探していると、不意にドアの外から声が聞こえた。

「──どういうつもりだ?」

 油藤智歌の声だった。明らかに苛立ちのこもった声色に一瞬身が縮こまるが、その矛先は自分にあるわけではないようだった。続けて声がする。

「どういうつもりって?」

 今度は氷狩映の声だ。どうやらすぐ近くの廊下で話しているらしい。

 涙は足音を殺してドアまで近づくと、右耳を静かにくっつけた。それと同時に智歌の粗暴な声がより鮮明に鼓膜に届く。

「とぼけるな! なぜわざわざゲームタワーを引き合いに出した?」

「あー、あれ? 嘘には少しだけ真実を混ぜた方がバレにくくなると思って」

 ──嘘?

 にやけを含んで放たれた映の一言が、涙に強い衝撃をもたらした。彼らが食卓でしてくれた説明が脳内でリフレインしそうになるが、それを智歌の言葉が遮った。

「余計なお世話だ。粗い嘘でも、あの瞬間だけ納得させられればそれでいい。どうせ今日の記憶はすべて消える」

「きおくが……きえる……?」

 ポツリと呟いたのは涙だ。なぜそんなことを簡単に言えるのか、そして彼女たちは自分に何を隠しているのか。目が回りそうになるのを懸命にこらえ、会話の続きを盗み聞くため右耳に全神経を集中させる。

「簡単に言うけどさ智歌、あの十字架ちゃんと使えるの?」

「複雑すぎて無理だ。だから沖丸が帰ってくるまで待つ」

「それまでにナナちゃんが逃げちゃったら?」

「その心配はない」

 きっぱりと言い切った直後、足音がこちらへ向かってくる。涙は大きく目を見開くと、脊髄反射のようにベッドへ潜り込んだ。大急ぎで灯籠を消したあと、ドア側へ背中を向けて猫みたいに丸くなる。

 ドアが開く音がして、二つの気配が入ってくる。加速する鼓動から目をそらし、精一杯に規則正しく寝息を刻む。

「この通りぐっすりだ。こいつの皿には大量の睡眠薬を混ぜておいたからな。明日の朝まで起きることはない」

「なるほどなるほど。つまり寝てるところを襲うわけか」

「妙な言い方はやめろ。地下室に運んで記憶を消すだけだ」

「だいたい一緒じゃんかぁ」

 映の声が降ると同時、ベッドの背中側がぎしっと音を立てた。出かけた悲鳴をギリギリのところで飲み下す。

 気配がすぐそこに来ていた。恐らく、ベッドの空いていた箇所に映が腰を下ろしたのだ。ゆっくり布団がめくられる。涙は全力で無防備な寝顔を晒した。

「……ほー」

 映がこぼしたのはそれだけだった。再び涙の顔に布団がかけられ、背後の気配が立ち上がる。

 まぶたを閉じていたため顔は見れなかったが、映は間違いなく笑みを浮かべていた。何度か見せたあの、犬歯を覗かせるイタズラっぽい笑みを。

「たしかに、この調子じゃしばらく起きそうもないね……っと、もうそろそろ時間だ」

「……さっさと仕事して帰るぞ」

「もーちろん」

 足音と共に気配が去っていく。ドアが閉まる音を聞いてから、涙はゆっくりと上体を起こした。両手でゆっくりと自分のほっぺたを包み込む。

 夕食に睡眠薬を仕込んだと智歌は言っていた。それが本当だとするならば、今ごろ自分は夢の世界だろう。しかし待てど暮らせど睡魔は訪れなかったし、それどころか今の話で意識は完全に覚醒した。

 灯籠を灯すのも忘れ、涙はしばし呆然の限りを尽くした。頬を包んでいた右手を額に動かし、思考を焼き切らんばかりに駆け巡る脳細胞に想いを馳せる。

 そのとき、ドアの外を足音が駆け抜けた。反射的に布団を引き寄せるが、ドアが開く気配はない。

 ベッドを下りた涙は忍び足でドアに寄ると、ノブをひねってほんの少しだけドアを開けた。薄く覗く廊下は明るく、その眩しさがわずかばかり右目に染みる。

 細い視界の右の死角から、長い黒髪を揺らして歩く後ろ姿が左へ通りすぎていった。智歌だ、と思うと同時、続けて現れた映と雅影の後ろ姿も左方向へ消えていく。ならば最初の駆足音はツバメだったのだろう。

 音をたてないように静かにドアをひらいていく。体が通り抜けられるギリギリの隙間を作ると、左右に注意を払いながら廊下へ一歩踏み出す。

 フローリング張りの左右に長い廊下だ。天井に等間隔に並んだサッカーボールほどの球体が周囲を照らしている。右手にいけば先程夕食をいただいた食卓とキッチンがある。左手はいまだ涙には未知の領域だ。

 紺のソックスを滑らせるように廊下を左に進む。窓はないが代わりにいくつかの絵画が飾られており、どれもが味のある風景画である。美術的価値観のほとんどない涙には、それらがどれほどの値打ち物なのかは分からないが、フローリングと壁だけの空間に花を添えているのは間違いなかった。

 かすかに届く四つの足音は、遠方でドアが閉じる音にかき消された。廊下に立ち並ぶ扉の類をすべて無視し、慎重にフローリングを駆ける。

 突き当たりを右に曲がるとすぐ目の前にひらけた空間が広がっていた。壁際に背の低いテーブルと、それを挟み込むように配置された二つのソファー。その頭上には大きな額縁に入れられた金銀の抽象画が飾られており、空間中央の上底で静かにたたずむ小型シャンデリアを経由して視線を真反対側へ向けると、真っ白い片開き扉があった。

 その扉が玄関であることは、上がり框と脇に設えられた木製の靴箱が証明していた。涙は玄関へ数歩近づいてから、カーテンが閉まった窓がすぐ横にあることに気がついた。

 ベールのような薄い緑色のカーテンをそっとめくる。窓枠の隅から頭を半分だけ出すようにして外を覗くと、四人の姿が見えた。

 目を凝らすと、みな一様にメニューを開いていた。わざわざ路上に出て何を──と涙が首を傾げたとき、四人の体が微細な光に包まれ、その服装が変化する。

 涙は大きく目を見開いた。今さら刹那の早着替えに驚いたわけではない。着替えたあとの姿が、涙が目を覚ましたときに彼らがしていた服装だったからだ。

 ある者は袴、またある者はタキシードなど、衣装に統一性はまるでない。ただひとつ、全員が目元にマスクをつけているということだけが共通しており、変身の瞬間を見ていなければ、涙には彼らの正体が判別できなかっただろう。

 しかし、涙の驚愕はそこで終わらなかった。町を歩けばたちまち注目の的になるであろう奇抜な格好の彼らは、十五メートルはあろう隣の建物の屋上へ、文字通り一足飛びに飛び上がったのだ。

「うそっ……」

 そんな声が漏れたときにはすでに、左手が玄関扉のノブをつかんでいた。半ば自動的に動いていく体が、たちまちのうち路上へ躍り出る。

 瞬間、温かい外気が全身を撫でた。十二月の夜なのだから氷点下でもおかしくないのだが、電脳世界の気温設定はかなり適当なのか、寒くないどころかむしろ少し暑くもある。

 しかしそんな違和感は一瞬で意識の片隅に追いやられる。涙は目の前にそびえ立つ建物を、首が折れるんじゃないかというほどの角度で見上げた。

 月明かりの逆光に佇む四つの影。どこか遠方を眺めながら何かを話している。涙は必死に耳をそばだてたが、聞こえたのはツバメらしき声が発した、明らかに言い慣れていない「ゲンジューケーカイ」という単語だけだった。

 と、そのとき、屋上に新たな光源が出現する。宙に浮かぶ長方形は、今までさんざん目にしてきたメニュー画面に違いなかった。白色の発光が、メニューを呼び出した人物の顔を照らし出す。右目の縁だけが赤く染められた白マスク──映だ。

 彼はメニュー操作してから、それを他の三人に見せるような動きをした。また何かしらの会話を交わしたが涙の耳には届かない。やがて映はメニューを閉じると、助走をつけてさらに隣の建物の屋根に飛び移った。他の三人もそれに続いていく。

 もはや驚きの感覚が麻痺してきたことを自覚しながら、涙は彼らの行方を追いかけた。転ぶことなど考えず、上を眺めたまま走る。映たちは次から次へとパルクールのように建物を飛び越えて、ひとつの方角へと向かっているようだった。

 しかしどれだけ懸命に駆けようと、彼らとの距離はみるみる開いていく。それに焦って加速したのが災いしたのだろう。なにかが不意に涙の足をすくい、勢いそのまま頭から道路にダイブした。

「いったぁぁぁ~……」

 泣きそうな声を漏らして起き上がる。腕でごしごしと顔をこするが、幸いにも血が出ている様子はない。米粒ほどの安堵を抱え、涙は自分の足元を見やった。

 不躾にも涙を転倒いたらしめたのは、なんてことはないただの段差だった。高さはあるがそのぶん気づきやすく、こんなものに転けてしまったのは涙自身の不注意ほかならない。

 恥ずかしさで顔が真っ赤に染まりそうになる。辺りに人がいなかったのは不幸中の幸いだろう。涙はすくっと立ち上がり、スカートの裾をはたいたところでハッとして周囲を仰ぎ回した。

 視線を走らせるのは建物の屋根や屋上。しかしいくら探そうと、宵闇に浮かぶ星の輝きがあるだけで、あの四人の姿はどこにも見当たらなかった。

 懲りずに突き当たりまで走るが、どこまで遠くを眺め渡しても奇抜な衣装をとらえることはできない。

「見失った……」

 T字路の中心で立ち尽くし、激しく肩を上下させた。額に浮かんだ汗を制服の袖口でぬぐい、辺りを見回す。迷い込んだのは住宅街らしく、家屋やアパートがずらりと建ち並んでいる。少し遠くにはビルの類が屹立しており、窓から漏れる淡く白い光がちらほらと確認できる。

 もはや彼らがどこへ向かったかなど知る術はない。右も左もわからぬ世界に一人取り残された涙は、今ここが高気温の熱帯夜であることさえ忘れ、全身に鳥肌を走らせた。

 唐突に孤独を自覚した途端、熱中症にも似た目眩が涙を襲った。コンクリートの上で二、三歩よろめき、レンガの壁に体重を預ける。暑さと寒さが混濁した気持ち悪さに、自分の身を抱くように両腕を強くこすった。

 土地勘もなければ帰り道も覚えていない。それ以前に、あの場所へ帰ってしまっていいものか。絶望的な八方塞がりは、溺れるような息苦しさとなって涙にのし掛かる。

 そのとき、水面に──あるいは遠く向こうのビル郡の隙間に、わずかな光が見えた。淡い白の光ではない。強く明滅する、網膜に突き刺さる鋭い赤。信号機かとも思ったがどうも様子が違う。

「パトカー……?」

 呟いてから、涙は記憶の片隅に残っていたツバメの言葉を見つける。

 ──ゲンジューケーカイ。

 厳重警戒。脳内にリフレインするその声と、遠くで光るパトランプが繋がった瞬間、涙は勢いよく背中を壁から離していた。

 希望の糸としてはあまりにも細く、危険でもある。しかし涙がすがることができるのは、あの真っ赤な光点だけだ。

 すでに目眩は消えている。迷うことなく涙は駆け出した。彼らがあの場所にいる、一縷の可能性にかけて。

 住宅地を抜けると高層ビルがぐっと近くなった。淡く白い光が視界に入ることは少なくなり、代わりに人の姿がちらほらと目立つようになる。遠くで明滅する赤色だけは見失わないようにしながら、涙はすれ違う通行人について思考を巡らせた。

 メニューが開いたりするあたり、ここが電脳空間であることは疑いようのない事実だ。ならばすれ違う彼らは何者か。涙と同じ被験者か、もしくはコンピュータが制御するただのキャラクターなのか……?

 それに映が言っていた『嘘』というのも気になる。夕食時に話してくれたことの、いったいどこからどこまでが偽りなのか。智歌はゲームタワーの話をしたことを怒っていたが、実験というのは真実なのか?

 分からないことが多すぎる。こんがらがった思考回路をリセットするように頭を振ると、少し先に大きな人だかりができていることに気がついた。明滅する赤い光はその向こうから届いている。

 老若男女が集まっていたのは高いフェンスの前だった。どうにか人混みを掻き分けて最前列までたどり着くと、強烈な赤い光が涙の顔を撫でた。

 予想通り、光の正体はパトランプだった。幾台ものパトカーが乱雑に停車しており、そばには制服警官の姿もいくつか確認できる。

 続けて涙は、奥に建つ巨大な建物を見上げた。茶色の壁に斜縞模様を走らせた、変わったデザインの建物だ。形状は饅頭型のようだが、天辺だけがカットされたかのように平らになっている。しかしそこを加味しても、全体的に丸みを帯びた造りをしていた。

「あの、すいません」

 自分と同じ被験者であることを願いながら、涙は隣の男に声をかけた。フェンスを両手で握っていた若い男はこちらへ顔を向ける。

「ん?」

「ここでなにか起こるんですか?」

 すると男はぎょっと目を剥き、涙へぐっと顔を近づけた。

「お前知らないの!?」

「はっ、はい!?」

 反射的に退いたせいで後ろの誰かに体重を預ける形になってしまう。しかしそんなことなどどうでもよさそうに、男はさらに距離を詰めてくる。

「ケトスだよケトス! やつらが現れるんだよ!」

「け、けとす……?」

「怪盗団ケトス! 今夜、この美術館に展示されている特殊財産を頂くって、犯行予告があったんだ!!」

 熱がこもった男が鼻息を荒くする。背中の誰かが強く押し返してくるのを、心の中で必死に謝罪しながら懸命に抵抗する。

「そ、そうなんですか。ありがとうございました!」

 早口のお礼を言い終わらないうちに、涙は重心をずらして滑るように右後方に逃げた。転げそうになりながら人混みを掻き分け、やっとの思いで這い出た瞬間、重力に抗わぬまま地面にうつ伏せに倒れる。

 大きな呼吸を一つ。それから後方を振り返る。人混みは男に感化されたかのように今まで以上の熱気を帯び、怪盗団の登場を今か今かと待ち構えている。

「けとす……」

 涙はポツリと呟いてみた。まるで聞き覚えのないそれが怪盗団の──すなわち、恐らく映たちの名前なのだろう。

 彼らは何を盗むつもりなのか。男は特殊財産と言っていたが、それだけではなんのことなのかさっぱりである。そもそも盗みと実験がどう関係してくるのか──

 気温も相まって頭がオーバーヒートしそうになる。全身から力を抜いて、大きなため息を吐き出しかけた、そのときだ。

 遠く前方から、わずかに喧騒が届いた。

「おい、現れたんじゃないか!?」

 人だかりの誰かが叫んだ。それとほぼ同時、フェンスの向こうで大勢の警官が鬼気迫る表情でどこかへ走っていった。パトカーの見張り番をしていたらしい警官たちも、彼らに混ざってどこかへ消える。

「ケトスだ!! ケトスが出たぞー!!」

 誰かの声を皮切りに人だかりが動き出した。巨人が大地を踏み鳴らすような轟音が涙の背後から迫ってくる。

「え、あ、わ……!!」

 うつ伏せの状態からすぐに動けるわけもなく、涙は亀のように丸くなった。両手で頭を守りながら、左右を抜けていく大量の足音をひたすら耐える。

 体感的に一分ほど経ったころ、足音は遠くへ消え去った。怯えながら頭を出して周囲を探る。入念に見回してみるが、あるのはフェンスの向こうから届くパトライトの赤い光だけだ。

「こ、怖かった……」

 大きく数回深呼吸する。オーバーワークしている心臓とついでに、オーバーヒート寸前だった頭を落ち着かせてから、フェンスにつかまりながら震える両足で立ち上がる。

 パトライトに照らされながら、涙はフェンスから手を離す。なんとか一人で立てることにホッとしたのも束の間、今度は喧騒とは反対方向から微かな悲鳴が届いた。

「うおっ、なんだっ!?」

 続けて耳に届くのは何かが弾ける音。それを聞いた途端、涙の全身は反射を起こしたように駆け出していた。

 しばらく走るとフェンスが途切れている箇所があった。警官がいないことを確認し、そこから敷地内に入る。周囲への警戒を怠らずに少し進んだところで、涙は決定的な場面に出くわす。

 倒れ伏せる数人の警官。その向こうで、鉄製の扉をゆっくりと閉めていく白黒タキシードの男──氷狩映の姿を見たのだ。

「ま……待って!」

 涙は咄嗟に地面を蹴った。また転ぶかもなんて思考は頭のすみに追いやり、限界速で直線距離を疾駆する。しかし距離の半ばにも到着しないうちに映は建物の中へ消えていってしまった。

 閉ざされた扉に両腕を突く。手のひらで感じる鉄の感触が、熱くなった体を徐々に冷やしていく。

 涙は一つ深呼吸をすると、左手をそっとノブにかけた。手首を捻ってみればノブは意外なほど簡単に回る。幸いなことに、内側から鍵はかけられなかったらしい。

 涙はごくりと喉を鳴らした。音をたてないようにゆっくりと扉を開け、生まれたわずかな隙間に自分の体を滑り込ませる。

 侵入して早々、涙は悲鳴を上げそうになった。足元に二人の警官が倒れていたからだ。

 呼吸音が聞こえるのだから眠らされているだけだろうが、さすがに心臓に悪い。涙は左胸に手をやりながら、あきれるほど白い館内を見回した。

 廊下の右奥方向に人影が消えていくのが見えた。迷うことなくそれを尾行する。迷路のように曲がりくねった廊下は、追跡をするのにとても都合がよかった。

「こんなときくらい片せばいいのに……」

 ふと声がして、涙は姿勢を低くした。曲がり角からそっと覗くと、少し先に映たち四人の姿を見つけることができた。

 今の声は雅影のものらしい。壁に飾られている絵画を眺める彼に映が同調した。

「だよねー。俺らが盗むかもとか考えなかったのかなぁ?」

「それは俺が許さないよゼロ」

「ジョーダンだって」

 へらっとした返事をして、ゼロと呼ばれた映は先を歩いていく。他の三人も前進したのを見て、涙もこっそりと後をつけた。坪らしきなにかを乗せた台座の陰に身を潜める。

「余計なものを盗んでる暇はないからねぇ。ちゃっちゃとお目当て盗って帰りますか」

「おー!」

 ──お目当て、特殊財産……それはいったいどんなもの?

 少しだけ身を乗り出す。そのときに、肘が台座に当たって上の坪がわずかにぐらいついた。

 刹那、向けられる和傘の切っ先。

「誰だ!?」

「ひゃあっ!?」

 涙は今度こそ甲高い悲鳴を上げて尻餅をついた。その瞬間、自分に集う四つの視線。

 冷や汗が首の後ろから吹き出した。頭が真っ白に染まる。そんな涙を、真っ赤なチャイナ服姿のツバメが指差してきた。

「あ、ルイルイだ。やっほー!」

 手を振って駆け寄りかけた彼女は、襟首を映に引っ張られ「うぇっ」とつぶれたカエルのような声を出した。

「能天気かお前は」

 デコピンがツバメを打つ。それから映はこちらに向き直ると、口元に笑みを浮かべながら歩いてきた。動けない涙のそばで膝を折る。

「よくついてこれたねぇ。大変じゃなかった?」

 ──この人は、私が追ってくることを予測していた。

 彼の微笑みを見た瞬間、涙はそう確信した。根拠はない。だが、目の前の男は間違いなくこの展開を予期していた。それだけは断言できる。

 今までわなわな震えるだけだった唇が、おぼつかない動きで動き出す。

「あ、あの……皆さんはいったい何を──」

「貴様!!」

 突然の怒号に言葉が止まる。怯んで身が縮こまった次の瞬間、智歌が映を突き飛ばし、涙の胸ぐらをつかみ上げてきた。

「貴様、なぜここにいる!?」

 マスクの奥の瞳は大きく見開かれていた。映とは対照的に、智歌にとってこの状況は想定外だったらしい。彼女の手に力が込められ、涙の首を急激に締め上げていく。

「く……くるし、いです……」

 なおも智歌は何かを怒鳴っているが、もはや涙の耳は言葉を判別できない。視界がくらみ、両腕ががくりと落ちかけた、そのときだ。

「やめろ智歌!!」

 雅影のその声だけがやけにハッキリと聞こえた。それと同時に首を締めていた拳がほどけ、体が床の上に落とされる。

 落下の痛みを感じる余裕もなく、すぐに大きく噎せ返った。広がった気管支が、酸素を寄越せとがなり立てる。真っ白な床に何度も唾を吐き散らしながら、涙は過剰なほどに呼吸を繰り返した。

 どれほどそうしていたのか、涙自身には分からない。一分も経っていないかもしれないし、十分以上経っているような気もする。ともあれ、心身ともに落ち着きを取り戻した涙は、改めて目の前の謎の人物たちを見上げた。

「大丈夫、ルイルイ?」

 鳥型マスクの向こうの双眸が心配げに瞬いた。涙はツバメに向かってこくりと頷く。

「うん……ちょっとビックリしちゃっただけだから」

「よかったぁ……もう! 何してるの智歌ちゃん!」

 よく通る幼い声は、壁際で難しい顔をしている智歌を叱りつけた。

「いきなり首絞めるなんて……ルイルイかわいそうじゃん!」

「……お前こそ、なんでそんな呑気な感想が言える?」

「のんき?」

 智歌の鋭利な眼光がツバメと、続いて涙を突き刺した。全身に鳥肌が走り、呼吸が一瞬止まる。

「こいつは私たちの正体を知った。いや、それ以前に……」

 彼女が奥歯を噛む音が確かに聞こえた。それ以上の言葉は投げられず、気味悪そうにしながらそっぽを向かれてしまう。

 醸し出される不機嫌が、重い空気に最悪のミックスを果たす。その重苦しさを払うように、雅影が口を開いた。

「……問題はこの後どうするかだよ。まさか、涙ちゃんに一人で帰れって言うわけにもいかないし」

「というかナナちゃん、帰り道わかる?」

 少し間をおいたあと、そっと首を振る。映はどこまでも涙の考えを読んできており、それでいて映自身はこちらに心を読ませない。涙は彼の笑顔が少しばかり怖く思えた。

「弱ったなぁ……」

 雅影がハットのつばを傾ける。マスクと相まって目元はほとんど見えないが、口元は困ったように波打っていた。

「いたぞ!!」

 刹那、なんの前触れもなく張りつめた声が轟いた。背後を振り向くと、廊下の遠いところに警官の姿があった。

「チッ!」

 大きな舌打ちをした智歌が和傘を構えた。柄の部分に施されたトリガーを人差し指で引くと、先端から火花が散る。弾丸が発射されたのだと涙が気づいたのは、それが警官の足元で弾けたときだった。

「こっち向け!」

 映の声に反射的に顔を戻すと、強引に腕を引かれた。つんのめるようにして立ち上がりと駆け出しを同時に行う。

 足がついていかず何度も転びそうになりながら、右に左にくねる廊下を引っ張られるがままに駆け抜ける。

 もう巻いただろうか。気になって後ろを盗み見ようとしたところを、並走する雅影に止められた。

「振り向かないで! 顔を見られたら危ない!」

「は、はい!」

 しばらくすると廊下の右側に階段が見えた。まず先頭を走るツバメがそこへ駆け込み、続けて涙たちも駆け込む。

 ツバメは踊り場を折り返してすぐの場所で止まっていた。確かにここなら一階からも二階からも死角になる。

 しかし状況は涙に一瞬の休息すら与えなかった。息をひとつ吐き出す間すらなく、頭上からけたたましい警報音が鳴り響く。甲高く唸りを上げるアラームは、無限に不安を増長させるような不快感を纏っている。

 聞けば聞くほど気分が悪くなりそうだ。音を無視するように涙が隣に目を向けると、智歌がメニューを開いて何かしていた。

「あの……」

「お前も開け」

 視線すらくれずに、ぶっきらぼうにそれだけ告げる。涙は戸惑いつつも、宙に五指を広げるようにして自分のメニュー画面を開いた。上底部に大きく【MAIN MENU】の文字が記され、横短冊形のメニューアイコンが六つ、二列三段になって並んでいる。

「エキップ」

「え、えきっぷ……?」

装備項目(エキップメント)。左下」

 智歌の言う通りの位置を見てみれば、簡略化した洋服のマークと【Equipment】の表記がされたメニューアイコンがある。指先で軽く触れると、メニュー画面に重なるように新たなディスプレイが現れた。メインメニュー同様、上底部に【Equipment】のタイトルを掲げたそれは、右半分のスペースを堂々と使って涙の立ち姿を写し出していた。

「な、なんですかこれ!?」

 写真ではない。恐らくはCGか何かで創られたモデルだろうが、問題はその完成度だ。今の服装はもちろん、顔の細かい造形や髪型、はたまた体型までをもリアルすぎるほどリアルに再現してある。

 恥ずかしさで頬が真っ赤に染まる。あわあわしながら右上のバツ印──クローズボタンらしきものに触れようとするが、その手を右側から智歌につかまれた。

「閉じるな」

「はっ、離して……」

「……言うこと聞けっ!」

 強く手首を引っ張られる。その瞬間、無理のある方向に手首がねじれ、右腕に鋭い痛みが走った。

「いたっ!」

 思わず悲鳴が漏れる。その声で振り向いた雅影が、マスクの上からでもわかるほど険しい表情で智歌を見た。

「カグヤ」

 低い声でそれだけ言う。智歌は一瞬の沈黙の後、放り捨てるように涙の右手を離した。

 左手で右手首をさする。可動域内は問題なく動くことを確認し、視線だけをゆっくり右へ向ける。涙の手首を捻った張本人は、自分のディスプレイの操作に忙しそうだった。少しだけ……いや、かなりの嫌悪を覚えながらも、涙も開きっぱなしだった自分のディスプレイに目を落とした。

 右半分に自分がいるそれを改めて見やる。相変わらず恥ずかしいことに変わりはないが、痛みを挟んだせいか少しだけ冷静に見れているのも確かだった。左側にはいくつかの丸型アイコンが縦に並び、その横の欄に【長袖ワイシャツ】だの【盟涼(めいりょう)高校指定ブレザー】だの、涙の身につけているものが事細かに記されている。

 いったいこのページは何なのだろう、と考え出したとき、涙のディスプレイの真横に別のディスプレイが宙を滑ってきた。開かれているのは同じく【Equipment】で、右半分に写し出されているのは袴姿の大和撫子──智歌だ。

 一瞬身構える。が、智歌は自分のディスプレイの一番下のアイコンに触れ、また新たなディスプレイを出現させた。今までのディスプレイと比べて約半分ほどの大きさで、タイトルは【SET-UP】。あるのは【灰満月】と【ウィザードドレス】という謎の項目二つだけだ。

 智歌は【ウィザードドレス】の項目に人差し指で触れ、そのまま一秒間固定した。指先の接触点から薄緑色の波紋が広がり、項目を同じ色に染める。和服美人が右手を引くと、まるで指先にくっついてしまったかのように、【ウィザードドレス】が画面から浮き離れた。

 指先に項目をぶら下げながら、智歌は仮面の奥の冷たい瞳を涙に向けた。それから涙の【Equipment】ディスプレイを──正確にはその画面の一番下のアイコンを一瞥し、再び涙に視線を戻す。

 もはや口で説明する気もないらしい。涙は彼女の目の示す通り、アイコンに触れて【SET-UP】のディスプレイを呼び出す。智歌のそれと違い、涙の画面には項目はひとつもない。

 その空っぽのディスプレイに、智歌は指先の【ウィザードドレス】を押しつけた。画面が水面のように揺れ、薄緑色のそれをすんなりと呑み込む。何もなかったその場所にしっかりと【ウィザードドレス】の項目が出現した。

「それを着てろ」

「き、きる……?」

 いったいどうやって……という涙の疑問をきれいにシカトし、自分のディスプレイをバツ印で閉じると、智歌はそっぽを向いてしまった。

 眉をハの字に寄せながらも、涙はとりあえず画面にある唯一の項目をタップした。ディスプレイに小さく【装備する】【やめる】の二つの選択肢が出現する。

 一瞬躊躇ってから、涙は【装備する】に人差し指を押しつけた。

 【SET-UP】のディスプレイが消えた。と思うやいなや、涙の体を微細な光が包み込んだ。それは四人が装いを変えたときとまったく同じ現象で、蛍のように集う光が次第に新たな服装を形成していく。

 発光が収まると同時に涙は自分の姿を見下ろした。今日一日着ていた高校の制服はどこかへ消え、代わりに肩を出す豪奢なドレスが華奢な体を包み込んでいた。

 夜を写したような黒をベースに、星空を思わせるきらめきがそこかしこに散らばっている。両手にはめられたグローブは肘までを覆い隠し、甲には一等星のごとく真っ赤な輝き。頭の上にはよれた魔女帽子が乗っかっている。そして目元には、例に漏れずオレンジ色のマスク。

 【Equipment】画面右半分に映る自分の姿を見て、涙はしばらく言葉を失った。こんな格好、中学や高校の文化祭でもしたことはない。マスクと帽子で顔は判別されにくいとは言え、その顔から火が出そうなほど恥ずかしい。この姿で人前に出るなど、考えただけで意識が脱走しそうだった。

 そこで涙はハッとし、振り返る。キラキラした眼差しを注ぎ込んでいたツバメが、両手の一等星も霞むほどの笑顔を浮かべた。

「うん! とっても似合うよルイルイ!」

「むっ……ムリムリ! 絶対無理!!」

 帽子が落ちそうなほどかぶりを振る。【Equipment】には写らないが、涙の顔は火どころかマグマを噴き出しそうなほど真っ赤に染まっている。

「こんなかっこ……恥ずかしくて無理です! 私やっぱり制服のままで──」

「それはダーメ」

 ディスプレイに伸ばした人差し指が、人差し指と中指に挟まれた。顔を上げると、すぐそこに映の悪戯っぽい笑みがあった。

「なんで俺たちがこんな格好してるか、想像できない?」

「それは……」

 涙の人差し指を絡めとり、映がぐっと顔を近づけた。赤く縁取られた右目の奥が、奈落の底のような黒色を映した。

「顔が割れたらゲームオーバーだからだよ。ナナちゃんは、訳がわからないまま消されたいのかい?」

 消される──その言葉の意味するところは、あまり考えたくなかった。思考から逃れるように映の顔を隅々まで凝視する。目の前の青年の表情は爽やかで、しかしその何倍もおぞましく、不気味だった。

 自分の腕が小刻みに震えていると気づいたのは、どれほど経った頃だろうか。震えを止めようとしても、腕を押さえようとしても、自分の体じゃないかのように言うことを聞かない。温度感覚が遠ざかる中、涙の視線は眼前の化物(バケモノ)から離れられなくなっていた。

「来たよ!!」

 鋭い叫び声が涙を呼び戻す。全身がおびただしい熱を帯びていることに驚愕し、続けて鼓膜に不快な警報音が再来する。

 声を上げたのは、階下を盗みうかがっていたツバメだった。こちらに向ける表情はどこか楽しげで、隠しきれない感情が口元に現れている。

 似たような三日月を唇に描き、映が笑う。

「よぅし。それじゃいきますか」

「涙ちゃんはどうするんだ?」

 神妙な面持ちで雅影が呟く。

 映はふっふっふと鼻で笑うと、自分の左手と涙の右手をがっしり握り合わせた。

「俺がちゃんとエスコートするから、ご心配なく」

「え……!?」

 もはや驚きの声もまともに出ていなかった。自分のより一回り大きい彼の左手は、罪人を繋ぎ止めるための拘束具にしか見えない。

「……任せていいんだな?」

 智歌の冷たい視線が映を突き刺す。一瞬の間をおいたあとで、彼は口端に犬歯を覗かせた。

「当然。オフコ~ス」

「あのっ、私──」

 掠れきっていた涙の声はけたたましい警報音と、突如響いた発砲音によってかき消された。踊り場の壁に火花が散り、ツバメが階段を駆け上がってくる。

 踊り場に上がってきたのは険しい顔をした警官隊だった。きれいな隊列を崩さぬまま、十数名が一斉にこちらに拳銃を向けてくる。

 過去に感じたことのない、足元から脳天までを突き抜ける稲妻のような悪寒が涙を襲った。呼吸が一瞬止まるのが自覚できた。その感覚に『恐怖』という名前が貼られるよりほんの少し早く、目の前に袴の後ろ姿が立つ。

 幾重もの銃声が轟くのと、智歌が和傘を開くのはほぼ同時だった。深紅の和紙で形作られている和傘は、軽そうな見た目とは裏腹に、襲いかかる鉛の弾をすべて弾き返してみせた。

「こっち!!」

 涙の右手が強く引っ張られる。階段に転びそうになりながらも懸命に持ち直し、映に先導されるまま二階の通路へ飛び出す。

 二階も一階同様、くねるような構造の廊下が伸びていた。あちこちで枝分かれしながらどこまでも続く純白の壁に、途切れることない警報音が割れんばかりに反響している。

 奥へ奥へと駆け抜ける彼らに身を任せるしか、涙にできることはなかった。飾られている絵画を眺める余裕なんてなく、次から次へと後ろに流れて去っていく。酔いそうなスピード感の中で、ふと智歌の姿が見えないことに気がつく。

 もう一度見回しても、やはり彼女の姿はない。アラームが響く廊下を駆けているのは、映とツバメと雅影と涙の四人だけだ。

「……あのっ」

 智歌さんは、と聞きかけた瞬間、映が急ブレーキをかけて停止した。勢い余った涙の身体は前方へ放り出されそうになるが、繋がれた映の左手がそれを引き戻す。ガクンッという衝撃を受けながら、涙は彼に抱きかかえられる形でようやく停止した。

 何が起きたのか、涙は即座に理解できなかった。自分を包む二本の腕は外見よりもずっとしっかりしていて、胸板も──などと戸惑う涙の思考は、甲高い破裂音によって吹き飛ばされた。

 ぐらりと平衡感覚が揺れる。映が自分を抱えたまま屈んだのだと直感が告げるのと、耳元を空気が突き抜ける音が過ぎていくのはほぼ同時だった。はるか後方で鉛弾が弾ける音がした。

 映の肩越しに廊下の先を見やる。総勢二十名ほどの警官隊が、退路を塞ぐように廊下の横幅いっぱいに広がっていた。構えられた拳銃のうち、いくつかからは硝煙がゆらゆらと立ち上っている。

 涙がごくりと息を飲み込む。しかし、すぐ横の映の表情は、今まで通り愉快げな笑みを宿していた。

「第二陣のお目見えか」

「思ったより登場早くない?」

 こちらも余裕そうな調子でツバメが呟く。猛禽類を象ったマスクの奥には一抹の疑問があるだけで、そこに恐怖は欠片も存在していなかった。

 映は回していた両腕をほどくと、涙をかばうように立ち上がった。

「それだけ殺る気満々ってことでしょ。これは誠心誠意お相手して差し上げなきゃねぇ、ファルコ?」

「わかった! 任せて!」

 握り拳を作ると、ツバメは自分の平らな胸に叩きつけた。自信に満ち満ちた表情に、不安げな声を返したのは雅影だった。

「……誠心誠意とかいいから、危なくなったら逃げるんだよ」

 その言葉が言い終わるかどうかという時、再び銃声が轟いた。右端から三番目の警官が構えた銃口が火花を散らし、その直線上にはこちらを向くツバメの背中──。

 あぶない、と叫ぶには遅すぎた。涙がただ目を見開くしかできなかったその刹那に、真っ赤なチャイナドレスの少女は身をひねり、背後に迫った弾丸を回し蹴りで叩き落としていた。

 カランカランと、銀色の弾が大理石の上で音を立てる。一瞬の間をおいて、それらは微細な光の粒子となって蒸発するように消えた。

 優美にピルエットを決めたツバメは得意気に鼻を擦ると、腰を落として左掌を前へ突き出した。

「ホアチャ~!」

 手首を返し、挑発するように掌を動かす。それにあてられたのか、警官隊の顔つきが一層険しくなった。拳銃を握り直す、カチャリという音がいくつも重なる。

 直後に複数の銃声が響いた。涙は思わずまぶたをきつく閉じてしまったが、一瞬の後に開いたとき、弾丸はすでに大理石の床の上で転がっていた。それらもすぐに光の粒子と散る。

 唖然とする他なかった。わずか十五、六ほどの少女が、人間離れした速度で銃弾を蹴り落とすなど。目の前で二拍子のステップを踏む彼女の背は、あからさまなほどに余裕を持て余していた。

「さ、ここはあいつに任せて、俺たちは先に行くよ」

 映が涙の手を取った。一切の迷いもなく奥へ進もうとする彼に抗えぬまま、それでも後ろ髪を引かれる思いで遠ざかるチャイナドレスを眺める。発砲音が聞こえるたびに肝が冷えるが、ツバメは倒れる気配すら感じさせなかった。

 智歌がいなくなり、ツバメが置いていかれ、残るは映と涙と雅影の三人だけとなった。前の二人同様、彼らも只者ではないことは嫌というほど察してはいるが、人数の減少は涙の不安を否応なく刺激した。鳴り響く警報音も、気のせいか今まで以上に刺々しく聞こえる。

 最後には自分一人になるんじゃないか。恐怖にも似た不安を胸中に押し込めながら、繋がった映の左手をぎゅっと握る。わずかに手汗が滲んでいたことには気づかなかった。

 ふと、映が足を止めた。彼の背中に額をぶつけてから前方を見やると、純白の内装には似つかわしくない、金属質のグレーの扉が壁に張りついていた。

 『関係者以外立入禁止』の表記を無視して映は扉を開ける。涙はそこへ踏み込むことを一瞬ためらったが、そんな心配をしても今さらだ。ごくんと唾を飲み込んでから、映に続いて扉を潜る。

 扉の向こう側は、純白とは真逆の空間だった。先ほどまでの廊下とは打って変わり、壁や天井は黒っぽく、一切の飾り気も見当たらない。左右に伸びる通路が直線だったり、曲がり角が垂直だったりするのも、湾曲が多かった純白の廊下と比べるとまるで正反対だ。唯一、けたたましい警報音だけは変わっていない。

「こんな風になってるんだ……」

 感慨深そうにそう漏らした雅影は、学者然とした眼差しで漆黒の空間を眺め渡した。

 延々と伸びる漆黒の壁には、メタリックグレーの扉が等間隔にいくつも並んでいた。あちら側から見れば浮いた色合いの扉だったが、全体的に黒で統一されたこちら側にある分には違和感はない。

「言っとくけど、見学してる余裕はないからね」

 雅影にそう告げると、映はまた涙の手を引っ張って走り始めた。名残惜しそうな足音がすぐ後ろをついてくる。

 十数メートル離れたところにあったメタリックグレーの扉を開け放ち、硬質な通路を駆け抜ける。右に左に何度か曲がり、何度目かの十字路に差し掛かったとき、映は靴音を殺して立ち止まった。

 彼の背中に額をぶつけて涙も停止する。顔をあげると、映がちょうど右手でメニューを開くところだった。

 映はなにやら二つ目のディスプレイを出現させると、ある一点に人差し指を触れ、一秒ほど停止。そして先程智歌がやってみせたように、腕を引いて何かの項目を画面から抜き出した。

 自分もメニューを開くべきかと涙は一瞬考えたが、その迷いは完全に見当違いのものだった。映は項目を涙に差し出すようなことはせず、自身の肩の高さまで持ち上げる。そこで、ピンと伸ばしたままの人差し指を曲げた。

 すると、それまで接着されていたかのように指先にくっついていた項目が宙に切り離された。指から置き去りにされた項目は微細な光をまとい、形状を変えていく。横に長い長方形だったそれは、一秒もたたずして一辺15センチほどの正方形の束になった。

 映が右手に収めたそれを、涙は瞬きすら忘れたまなこでじっと見つめた。カードかとも思ったが、それにしては透明で柄もない。どちらかと言えば、限界まで薄くしたガラスの板といった印象だ。何十枚という束になっているから見えるものの、もしこれが一枚だけだったなら涙には発見できる自信がない。

「それ、なんですか?」

 ついそう聞いていた。映はお得意の悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「裏技、かな」

「うらわざ?」

 おうむ返しする涙にもう一度笑いかけると、映は右手に握ったそれをジャケットのポケットに突っ込み、十字路から右の通路へ飛び出した。

「ひゃあっ!?」

 唐突な出発に悲鳴を漏らす。今度はどこまで走るのかと胸の奥で憂いの種が芽生えるが、映の足は意外なほどすぐに止まった。

 走ったというより、本当にただ飛び出しただけのようだ。十字路はすぐ後ろにあり、目の前に伸びる通路には両開きの漆黒の扉が設えられている。そしてそこを警備していたであろう二人の警官が、目を剥いてこちらを見てきていた。

「お勤めゴクローサマでーす」

 壁に触れた右手に体重を預け、映が挑発的に言った。意図的にこの場所に姿を見せたのだと涙が察するのと、警官が腰から拳銃を引き抜くのはほぼ同時だった。

 映の左腕を抱き寄せながら彼の背中に引っ込む。直後、もはや聞きなれつつある破裂音が二つ続けて響いた。

 身を縮めてから、とっさに盾にしてしまった映を見上げる。刹那の間に罪悪感と心配と保身とがごちゃまぜになった瞳は、二つの血飛沫を上げる男の後ろ姿を予知した。

 まぶたを閉じることもできない。しかしそのおかげで、見逃すことはなかった──すぐ横を抜けて前へ躍り出る、紺色の貴族服を。

 弾丸が誰かを貫く音はしなかった。代わりに、金属がひしゃげるような音が二つ続けて鳴る。

 二等分された鉛の弾が二組、四つの破片が軽い音をたてて床に落ちた。一瞬の後、四つの破片は二つずつ同時に光粒子化して消滅した。

 二つの銃弾を両断したのは、一振りの漆黒の剣だった。宝石のような光沢を湛えた長剣を振り上げ、雅影は体の前に垂直に構える。

「さすがクラウン、ナイス剣さばき」

 その様子を、高みの見物とばかりに見守っていた映が声を上げた。半身になった雅影がほんの少しだけこちらへ顔を向ける。

「人任せにもほどがある。俺が出なかったらどうするつもりだったの?」

「出るでしょ、クラウンなら。ましてやこの子もいるんだし」

 背中にへばりついている涙に映は視線を向けてきた。ねー、と同意を求められても、涙はただ瞬きを繰り返すことしかできなかった。

 雅影はしばらく沈黙したあと、視線を前に戻して呟いた。

「……本当、卑怯なやつだよ」

「要領がいい、って言ってほしいな」

 二人の軽口を、再びの銃声が遮った。瞬時に閃いた漆黒の剣が弾丸を斬り落とし、雅影がこちらへ叫びかける。

「早く行け! ……彼女を守ることを最優先にね」

「……トーゼンッ」

 一言そう呟くと同時に映は踵を返し、涙の右手を握り直して疾駆した。十字路を真っ直ぐ突き抜け、涙が顔だけ後ろを振り向くと、二人の警官を引き付けた雅影が左の通路へ消えていくところだった。

 後ろを見ていた涙は、不意に体にのし掛かる遠心力に慌てて注意を前方へ戻した。碁盤の目のような通路で右左折を繰り返し、狭い階段を駆け上がる。自分が三階に来たことは辛うじて理解できたが、三階のどの辺りにいるのかは、もはや見当のつけようすらなくなっている。

 三階の通路も二階と変わったところはなかった。無機質な明かりに照らされた真っ黒い道が、網目のように張り巡らされている。どこを走ろうと変化のない光景に、さすがに飽き飽きし始めたその頃だ。

 黒い壁に張りついていた一枚の金属扉を、唐突に映が蹴破った。その向こう側から差し込んだ強烈な光に、涙は思わずマスクの上から両目をおおう。

 目が慣れるよりも早く、映に手を引かれて光の中へ飛び込んだ。まぶたの奥に染みる眩しさを懸命にこらえて目を開くと、そこは美術品が並ぶ大理石の廊下だった。

 どうやら『関係者以外立入禁止』区域を出たらしい。ようやく変化した景色を細目で眺めていると、右手がゆっくりと引かれた。映が歩き出したのだ。走るのではなく。

 その余裕が逆に不安だった。警報音は依然として鳴り響いているし、扉も蹴破ったのだから今すぐに警察官が押し寄せてきてもおかしくない。だというのに、我が辞書に焦るという文字はないと言わんばかりに、映の歩調はあくまで静的だった。

 円を描くようにカーブした廊下を少し進むと、円の内側──左側の壁にやけに豪奢な一枚扉が現れた。やけに大きな社と、それを拝み(ひざまず)く二人の男がレリーフとして刻み込まれている。

「ここが目的の部屋、ホウジョウの間」

 右側の壁に右手を添えながら映が言った。

 ホウジョウの間……と心の中で反芻する。よく観察すればレリーフの各所には果実や稲穂のような造作が見てとれ、つまり豊穣(ほうじょう)の地──実り豊かな空間を表現しているらしい。

 豊作を刻み込んだ扉の向こう側に、いったい何があるのか。まさか本物の森に繋がっているなんてことはないだろうが、現実らしからぬこの世界ならその可能性も否定しきれない。

 あれこれ予想を巡らせて肩を強張らせる涙の手を引き、映が扉の前に立った。ちらと一度だけこちらに視線を向けてから、伸ばした右手でノブをつかみ、躊躇いなく引き開ける。

 踏み込んだ扉の先は、土色の空間だった。といっても本当に屋外に出たのではない。正方形の部屋を囲む四方の壁が、地層を思わせる土色のグラデーションをしていたのだ。

 天井は四メートルほど頭上で青空のような水色を輝かせている。かなりの高さを誇っているにも関わらずいまいち驚きを感じないのは、それ以上に部屋の床面積に驚嘆しているからだろう。壁の一辺がおよそ三十メートル強ほどもある。芝生の緑を映しただだっ広い床は、中央に地下からせり出した岩石のような台座がある以外に物はない。

 今にも風が通り抜けそうな錯覚さえ覚える。色彩は屋外のそれなのに、空間の仕切りたる壁や天井は垂直もしくは水平で、ここが正方形の部屋だということを忘れさせない。中と外がごちゃまぜにされたような、不思議な感覚。

「ここ……建物の中ですよね……?」

「さあどうだろう? エリア接続がバグった可能性もあるんじゃない?」

 意味のわからない用語を交えて返事をした映は、地層の壁に触れていた右手を離し、部屋の中央へ向けて歩き出した。中央に近づくほどに、廊下で響く警報音が薄くなり遠ざかっていく。

 岩石の台座にたどり着いた頃には、もう警報音はほとんど聞こえなくなっていた。意識の外に出ていくそれと入れ替わるように、目の前の台座に鎮座するありふれた、それでいて異様な物が涙の注意を独占する。

 それは、水色のスカーフだった。もう一回り薄い水色とのストライプ柄で、輪っかを作るように端と端が結ばれている。かなり上質な布を使っているようで、滑らかな表面は眺めているだけで心地よさを与えてくれる────異質なノイズさえ走っていなければ。

 ジリッと小さな音とともに現れては消滅する、横薙ぎの歪み。今まで見たこともないそれは、興味とも畏怖とも違う、表現のしようがない感情を涙の胸の奥底に芽生えさせた。

 ──まるで、眠り続ける誰かを憂うような。

「これが今日のお目当て、マッハスカーフ。身につけるとスピード値がぐんと上昇する、らしいよ」

 涙の奇妙な感情など知る由もなく、映の左手がノイズまみれのスカーフを躊躇いなく取り上げた。

 さわり心地を確かめるように、片手でストライプ柄の生地を軽くこねる。その間も絶えず歪みは走り、ジリッという砂嵐のような不快音が連なる。

 そのノイズに、妙な懐かしさを感じたのは錯覚とは思えなかった。例えるならば、産まれる前に母親の胎内で聞いていた心拍。長い間ずっと聞き続けていたような懐古感が、涙の深い記憶をノックする。

 無意識のうちに右手が動き出していた。映の手の中で迸るノイズに吸い寄せられるように、静かに腕を伸ばしていく。

 突然、視界が暴力的な赤に照らされた。

 爆発したような警報音が流れ込んでくる。激しく明滅する赤色のサイレンと共に、忘れていた不安感を乱暴に煽り立てる。青空のような天井は夕焼け色に染まり、床の緑は燃えるようにたなびいた。

「な、なに……!?」

 慣れないヒールで数歩後ずさる。その足元に小さな穴が等間隔にいくつも開き、そこからいくつもの黄色いレーザー光が真っ直ぐ伸び上がった。

 レーザー光は涙たちを台座ごとぐるりと取り囲むように現れ、天井に突き刺さると左右のレーザー光と格子を組む。瞬きすら許さぬ一瞬の間に、レーザー光は光の牢屋へとその姿を変えた。

 閉じ込められた──その事実を反射的に認識すると同時、開けっぱなしだった入り口から大量の靴音を響かせ、三十名ほどの警官がなだれ込んできた。

 ずらりと並ぶ濃紺の制服を真っ赤なサイレンが舐める。その中でただ一人スーツを着た短髪の男が、警報音すら掻き消すほどの声を張り上げた。

「全員、包囲!!」

 その令を合図に、警官たちが牢屋を一斉に取り囲んだ。三百六十度を等間隔に並んだ彼らは、一糸乱れぬ動きで三十あまりの銃口をこちらへ突きつけた。涙は小さな悲鳴を漏らし、映の右腕にしがみつく。

「ありゃあ、囲まれちゃったか」

「そ、そんなのんきなこと言ってる場合ですか!?」

 ここに至るまでに何度も銃口は向けられた。そのたびに心臓が握りつぶされるほどの恐怖を覚えてきたが、今度のは段違いだ。逃げ場のない檻の中で、全方位から狙われている。

 拳銃を右手に構えたまま、スーツの男はジャケットの襟元につけていた五角盾型のバッジに左手で触れた。するとバッジが淡い緑色に発光し、前方に縦長のウインドウを映し出す。

「警察だ!! 怪盗団KETOS(ケトス)、特殊財産窃盗の容疑で逮捕する!!」

 ビリビリと空気を震わす大声が部屋に響く。バッジから投影されたウインドウには男の顔写真と『警部補 坂渕(さかぶち)風太郎(ふうたろう)』の名、そしてバッジと同じ、角ばったP字を記した五角盾の紋章が大きく表示されていた。

 男はもう一度バッジに触れてウインドウを消すと、拳銃を両手で構え直した。カチャリという音が、張り詰めた緊張の泉に溶けて消える。

 しかしそんなことはまるで意に介さず、映は溜め息混じりに口を開いた。

「……刑事さんさぁ、毎回毎回それ言ってて飽きない? 俺は聞き飽きてるんだけど」

「挑発のつもりか? 残念だが前回のようにはいかないぞ。お前が何をしようと、この包囲は崩れない!」

「諦めたまえ。これが詰みというやつさ」

 聞き覚えのない声が、ブーツの音と共に割って入った。涙は顔を上げて声の方向に視線を向ける。坂渕という刑事の肩越しに、入り口から悠然と歩いてくる長身の男の姿が見えた。

 真っ白いトレンチコートに身を包んだ若い男だ。両手をポケットに突っ込んだ歩き方や、長い前髪がキザな印象を与える。やがて優雅なウォーキングを終えた男は、右足に体重をかける立ち方で足を止めた。

 隣に立ち止まった男を見て、坂渕という刑事は両目を見開いた。

東雲(しののめ)探偵、なぜここに……!?」

「怪盗逮捕の瞬間を見逃すのは勿体ないだろう? それに、むさ苦しい男共と指令室に閉じ込められているのはどうにも我慢ならない」

「さ……左様でございましたか」

 恨めしそうに苦い顔をする東雲という青年に、坂渕はどこか恐縮している様子だった。年齢で言えば明らかに坂渕の方が上だが、東雲もこれが当然かのように、一瞬たりとも視線を隣に向けようとはしない。

 東雲はポケットから革手袋をはめた右手を引き出すと、暑苦しさを逃がすように前髪をふわりとかき上げた。

「やあ怪盗くん。久しぶりだね。どうだい? 君のために用意した特製のレーザー監獄の居心地は」

 風体違わず、いかにもキザな言い回しで東雲は告げた。白人と見紛うほどの美白顔に勝ち誇った表情が浮かぶ。

 映は首を回して監獄をぐるりと見回すと、うーーんと唸りながらタキシードの襟元をまさぐった。

「……あまり快適とは言えないかな。ちょっと暑いし。そうだ、トロピカルジュースとかないの?」

「生憎だが、ドリンクのサービスは行っていなくてね。……それより」

 東雲の水晶のような瞳が動き、映の脇で萎縮していた涙を捉えた。

「そこのお嬢さんはどなたかな? 僕の記憶が正しければ、君の仲間にそんな()はいなかったはずだけれど……」

「よくぞ聞いてくれました!」

 しっかりホールドしていたはずの右腕がするりと抜け、涙の頭を魔女帽子の上からわしゃっと撫でた。目深くなった鍔越しに、彼の口元にお得意の笑みが浮かぶのを見て、涙の脊髄を嫌な予感が駆け上った。

「紹介するよ探偵さん。我が怪盗団、期待の新人。その名も──セブンちゃんっ!」

「は……はぁぁぁぁ!?」

 嫌な予感は絶叫へと姿を変え、部屋に霧散した。

 両手両足がわななく。視線の先の映の横顔は得意気で、こちらをわずかに見ると、マスクの赤い縁取りの奥で右目をパチッとウインクさせた。

「セブンって私……!? いやそれ以前に、期待の新人ってどういうことですか映さ──」

「シッ!」

 というウィスパーボイスとともに、映の人差し指が涙の唇に押しつけられた。ドキッとする間もなく、彼の唇が涙の耳元に急接近する。

「ここでは俺のことは『ゼロ』って呼んで。まだ死にたくないでしょ、セブンちゃん?」

 妖艶な声音は、涙の恐怖心の深淵へ(ぬめ)るように入り込んだ。内側からしびれるような感覚に支配され、唯一難なく動く両瞳で、ゼロ距離に浮かぶ微笑を見つめる。

「大丈夫。いい子にしてたら絶対死なせないから。てわけでこれ持ってて」

 彼は涙の左手を取ると件のスカーフを握らせた。柔らかな布の感触と、見た目にそぐわないやや重めの重量が手のひらに伝わる。

「その手でしっかり握っててよ? 間違ってもホルダーに入れようとか思わないように」

 そもそもホルダーってなんですか──などという質問は、脆いシャボン玉のように刹那に弾け消えた。映は、いやゼロはメインメニューを開くと、右上、【Item holder】というメニューアイコンに触れた。現れたディスプレイには縦一列に項目がずらりと並んでおり、ゼロは二回ほどスクロールした後、【BA・CUNE】という項目に指を押しつけディスプレイから抜き出した。

 人差し指を曲げ、【BA・CUNE】を宙に置き去る。十数分前に見たときと同じように、項目は微光を帯びて形を変えていく。現れたのは全身を毒々しいパープルに染めた銃だった。

 片手銃であるのは間違いない。だが、周囲を囲む警官たちが持つ拳銃と比べると顕著なほどにサイズ感が違う。撃鉄はなく、銃身がやや分厚いその銃を掴んだゼロは、躊躇いなく銃口を東雲探偵へと向けた。

「東雲探偵っ!!」

 顔色を変えた坂渕が東雲の前に庇い立ち、周囲の警官たちは包囲円の直径をぐっと縮める。明らかに殺気の濃度が高くなる中、東雲当人はつゆほども危機感を感じさせない声で告げた。

「抵抗するつもりかい? この状況で?」

「このまま大人しく捕まるわけにはいかないんだよね。先輩怪盗として格好がつかない」

「なるほど、君らしい。しかし、悪足掻きこそ格好がつかないというものだろう? 潔く諦める清々しさの方が大切だ」

「……あいにくだけど」

 銃を差し向けるゼロの右腕に、ほんのわずかに力が込められたことを至近距離で見ていた涙は気づいた。続けてトリガーにかける人差し指が動き、最後にはやはり口角が上がった。

「清々しさとか潔さとか、俺らは求めてないんだよね」

 語尾に重なるようにして、紫の銃が一発の咆哮を上げた。放たれた弾丸は紫の尾を引きながら直進し───東雲を押し倒した坂渕の髪の先をこすり、開けっぱなしだった内開き扉にぶつかり、跳ね返って廊下へと消えていった。

「このっ……!」

 東雲にのし掛かった体勢のまま、振り返った坂渕がこちらへ銃を突きつけた。銃口はすぐに火花を散らした。しかしそれと全く同じタイミングで、ゼロの持つ銃も弾丸を射出していた。

 同一の弾道を正反対から突き進む二つの弾丸。わずかなズレもなかったそれらは弾道のちょうど中間点で正面衝突を起こし、一瞬小火(ぼや)を上げてから光の粒子となって消滅した。ゼロと坂渕の間には、何事もなかったかのようにただレーザーの檻だけが立っていた。

 銃口に息を吹きかける仕草をしながら、ゼロは得意そうに笑う。

「甘いって刑事さん。俺に銃で敵うと思ってるの?」

「全員、発砲準備!!」

 怒号にも近い坂渕の声に、警官たちが撃鉄を起こした。きっと次の合図で全方向から銃弾が襲いかかってくる。包囲されるとはそういうことだと、忘れかけていた畏怖が目を覚まして涙をすくませた。

「大丈夫だってセブンちゃん。死なせないって言ったでしょ」

 隣を見れば、ゼロがメニューから【Item holder】を開くところだった。今度は左手で【ZU・CUNE】なる項目を引っ張り出す。現れたのは紫の銃──【BA・CUNE】によく似た造形の、ライトグリーンの銃だった。

「二丁拳銃……?」

 こぼすように涙が呟くのと、坂渕の声が轟くのは同時だった。

「撃て!!」

 そして、発砲音が轟くのと、ゼロに足を掬われた涙が後方に倒れるのも同時だった。

「ふぇっ!?」

 突然の落下感覚の中で涙は見た。両手に紫とライトグリーンの銃を構えたゼロが、一回転しながら弾丸を撃ちまくるのを。

 倒れゆく涙のすぐ頭上で、ライトグリーンの尾を引く弾丸と警官の銃弾が弾け、小火が上がった。と思った次の瞬間には、離れた場所でまた別の小火が弾ける。涙が転倒するまでの数瞬の間に、実に三十以上の小火が弾けては消えていった。

 ────ゴンッ! と後頭部と床が鈍い音を鳴らす。

「痛ぁ……く、ない?」

 しかし予想していた痛みは襲ってこず、不思議に思いながら上体を起こす。ずれた魔女帽を直してから床に触れるも、そこにあるのは硬質な表面だけで、衝撃を吸収するような何かはない。

「もしかして……これ?」

 再びそっと魔女帽に触れる。ずいぶんと柔らかめの布地だが、ただそれだけだ。これが涙の頭を衝撃から守ってくれたというのか。

 フフン、という声に視線を上げると、ゼロがライトグリーンの銃をクルクルと回していた。得意気な顔で坂渕を見下ろす。

「無駄だからやめなよ刑事さん。たとえ百人で囲ったって、俺に弾丸は一発も届かない」

「うるさい!」

 坂渕は顔を真っ赤に染め、右手で銃を突き出して叫ぶ。

「もう一度! 全員、発砲準──」

「いいかげんどきたまえ!」

 怒鳴るような号令をキャンセルしたのは、彼の下敷きになっていた東雲探偵だった。坂渕を乱暴に脇に転がし退け、立ち上がってトレンチコートをパンパンと払う。

「まったく暑苦しい……僕は男に抱かれる趣味はない。覚えておきたまえ」

「も……申し訳ありません!」

「それともう一つ……これ以上の発砲指示は必要ない」

「へぇ~、それはどうして?」

 関心を示したのはゼロだった。粗い格子の向こうで、白服の探偵が両手をポケットに突っ込む。

「怪盗くんの言う通り、確かに銃じゃ君に敵わない。しかし君は、その監獄から逃れる術がない。さしずめ鳥かごの中の鳥といったところさ」

「なるほどね。言われてみればだんだん鳥かごに見えてきたよ」

 天井を振り仰ぎながらゼロが呟く。本当に鳥の気分を味わっているのか、その口許は下向きの三日月を描いて笑っていた。

「でも……」

 ふっ、と三日月が消える。右手の銃を左脇に抱え、素早く開いた【Item holder】画面に二丁の銃を放り込む。東雲にまっすぐ視線を据えると、ゼロは高々と声を張り上げた。

「俺たちはKETOS──クジラだ……! こんなちっぽけな鳥かごで、捕らえられると思うなよ!!」

 その叫びに、ふざけなど一片たりとも含まれてはいなかった。空気がビリビリと震え、警官隊がわずかに後退した次の瞬間。

 バチンッ!! と何かが弾けるような音が涙の耳を殴った。何事かと思考が駆けずり回るより早く、目の前で、檻を形成するレーザー光線が揺らぎ、空気に溶けるように消えた。

「なにっ……!?」

 動揺の色を見せたのは坂渕だった。膝立ちの体勢で両目を見開き、数瞬の後、右手の銃を思い出したように構える。が、すでに時遅し。

「セブンちゃん!」

 涙の腕を掴んでゼロは駆け出していた。レーザー監獄が消えるのを予知していたかのように、絶好のタイミングで床を蹴り、部屋の出口へと一直線につき進む。その動線上に立つ真っ白のトレンチコートなど、まるで見えていないかのように。

「逃がさない……!」

 ポケットから両手を引き抜き、東雲が立ち塞がる。得物はないが、一瞬でも足止めを許せばすぐさま銃弾の餌食になるだろう。

 ゼロの顔を見る。そこにはいつのまにか、いたずらっ子のような無邪気な色が戻ってきていた。

 強い力で腕を引かれる。疾駆の勢いも助けになって涙の身体は浮き上がり、ゼロの両腕に収まった。いわゆるお姫様だっこの格好である。

 これまでとは違う種類の驚きに打たれた涙は、危うく左手のスカーフを取りこぼすところだった。体重はそれなりに気にしてきたつもりだが、いざこのような場面に直面すると重くないか嫌でも気になる。

 しかしそんな心配を他所に、ゼロは右足で強く床を踏み切った。急激な上昇感覚と風を切る音が涙を包む。人一人を抱えたままゼロは跳び上がったのだ。下を見れば、東雲探偵がこちらを見上げてきている。

 東雲の真後ろに優雅な着地を決めたゼロは、涙に微笑みを向けてきた。どんな顔を返せばいいのか分からない涙は、反射的に口を動かしていた。

「私……軽すぎました……?」

 今度は一瞬だけゼロがポカンとした。しかしすぐに微笑みを戻し、

「大丈夫、ツバメよりは重いから」

 と囁いた。直後、そこから弾かれたように駆け出す。一瞬前までゼロがいたその床で銃弾が炸裂した。

 坂渕の叫ぶ声を背中で聞きつつ、涙を抱きかかえたまま部屋を飛び出したゼロは湾曲する廊下を左方向に向かった。依然として警報音は鳴り響いている。

「これだとなんだかセブンちゃんを盗んでるみたい」

 面白そうにゼロが言う。怪盗がお姫様を盗み出す、そんな昔話をいつだか聞いたような気がして、涙は熱くなった額にスカーフを押し当てた。

 涙を抱えているというのに、ゼロの足は減速を知らなかった。徐々にだが後方の怒号や銃声が遠退き、風を切る音が強くなる。加速した勢いにのせて立ち入り制限のロープを飛び越えると、そのまま三段飛ばしで階段を駆け上がった。

 上りきった場所にあったのは十二畳ほどの空間だった。下階の展示スペースと比べてかなり質素な空間で、あるのは薄暗い照明と、夜風に吹かれてキイキイと鳴く半開きの扉のみ。

「屋上……?」

「せいか~い」

 ゼロは足で器用に扉を開け放つと、星々煌めく夜空の下に出た。冷えた空気が涙のむき出しの肩を撫で、一瞬だけ鳥肌を誘う。

「あっ、ゼロ来た!」

 無邪気な声が届く。星明かりと、それ以上に眩しい街明かりをバックに背負ってツバメが大きく手を振っていた。その両隣には雅影と智歌の姿もある。

「いや~、お待たせお待たせ」

 涙を下ろし、ゼロが仲間のもとへ歩いていく。安心と緊張がごちゃ混ぜになった感情を抱く涙に、真っ先に駆け寄ったのは雅影だった。

「涙ちゃん大丈夫? 怪我してない?」

 ハットとマスクに隠れた雅影の表情が、それでも溢れんばかりの優しさを見せてくる。胸の奥でなにかが熱を帯びるのを感じながら、涙はコクりと頷いた。

「よかった……怖い思いしてないかずっと心配で」

「失礼だなぁクラウン。俺がセブンちゃんを危険にさらすとでも?」

 ゼロがわざとらしく両手を広げてみせる。その隣でツバメが小首をかしげた。

「セブンちゃん?」

「そ。ナナちゃんだからセブン。いいネーミングでしょ?」

「下らない」

 ばっさり切り捨てた智歌の声と、こちらを向いた双眸は夜気以上に冷たかった。

「どうせ今日だけだ。そんな奴に名前なんて必要ないだろ」

「さてさて、それはどうでしょう~? ね、セブンちゃん」

 マスクの赤縁に囲まれた右目が涙へウインクを飛ばす。ゼロの余裕に満ちた笑みと智歌の冷眼を一身に受けて、涙はたじろいだ。

「ね、って言われても……」

 そもそも私、ナナじゃないし。そう弁明しようとした涙を、遠方から響いた怒濤の靴音が押しとどめた。

「涙ちゃん、下がって!」

 雅影が涙をかばうように立つ。その直後──

「追い詰めたぞケトス!」

 坂渕を先頭に大量の警察官が屋上へなだれ込んできた。

「観念しろ! もうお前たちに逃げ場はない!!」

 半円状に広がる制服警官。何十もの銃口がこちらを向くと同時に、雅影がその諸手に剣を構える。

 殺気と殺気がぶつかり合う。涙が息を止めて見守る戦況に、場違いに明るい声が通った。

「やっほ~刑事さん。遅かったじゃん」

 恐れを知らない様子でゼロが半円の中心点へ躍り出た。瞬時にすべての銃口が彼を照準する。

 張り詰めた緊張感を顔に表す警官たちをざっと眺め渡すと、ゼロは溜め息とともにわざとらしく肩をすくめた。

「さっきよりも人増えてない? 数に頼る戦法はやめた方がいいよ。人件費もかさむでしょ?」

「余計なお世話だ! お前たちを逮捕するためなら、何人だって動員する!!」

「愚策だな」

 鋭利な声を切り込ませ、智歌がゼロの隣へ進み出た。その右手に握られているのは袴姿に似合う紅蓮の和傘ではなく、和装とはいかにもミスマッチな西洋風のロッドだった。

 全長80センチ程度。青銀色で染め上げられた柄は上にいくほど少しずつ直径を広げ、先端は三日月のように湾曲している。その三日月の内側に空色の水晶が浮かんでいた。

 ファンタジーチックなロッドを肩に担ぎ、智歌は坂渕をきつく睨んだ。

「数さえ増やせば勝てると考えるのは素人の思考だ。他人任せの愚図がいくら群れようと価値はない」

「なんだと……!!」

 坂渕の、白く整った歯並びがギリッと軋む。

 腕が震え、銃口がぶれだす。今にも爆発しそうな怒りを内包する刑事の足元で、一発の弾丸が弾けた。

「落ち着きなよ刑事さん。どうどうどう」

 右手に握った紫銃を、ゼロはゆっくりと坂渕の顔面へ向けた。

「冷静さを欠いたら、できるものもできなくなるよ? リーダーならいつでもクールでいなきゃ」

「……バカにしてるのか」

「まっさかー。俺もあんたと同じ、部下を率いる立場だから助言しただけだよ」

「誰が部下だ」

 隣からの鋭い視線がギロリとリーダーを突き刺す。おお怖っ、と肩をすくませ、ゼロは銃の構えを解いた。

「とにもかくにも、今のあんたらじゃKETOS(俺ら)の逮捕なんて夢のまた夢ってこと。アンダースタンド?」

 もう一度、坂渕の奥歯が軋む。震えかけた肩を深呼吸で落ち着かせると、それでも抑えきれない怒気を孕ませた目でゼロを睨んだ。

「……強がりも大概にしろ。この状況で逃げられると本気で思っているのか?」

「そりゃあね。思ってなかったらこんな悠長にお喋りしてないって」

 笑みを含ませながらゼロが告げる。緩緩とした動作で体の向きを反転させると、背中越しに問いかける。

「逆に聞くけどさぁ刑事さん。俺たちが何の策もなしに屋上(ここ)に来たと本気で思ってる?」

「……どういう意味だ?」

「さあ、どういう意味だろうね。ねえカグヤ?」

 ゼロの視線が隣へ向いた。ロッドを担いだ格好のままじっと動かずにいた智歌は、少し間を空けてからフンッと鼻を鳴らした。

「……レスポンド(応答せよ)

 低い声で智歌が告げた。その囁き声に呼応するように、ロッド先端の水晶が煌めく。

 それを見た坂渕の表情が一気に引きつった。

「まさかっ……!」

「プリーズ・ラトラ」

 流れるような詠唱と共に智歌がロッドを前へつき出す。直後、水晶の煌めきが弾け、爆ぜるような閃光が辺り一帯に広がった。

「うおっ、なんだ!?」

「これは、目眩ましかっ……!」

 警官たちから次々と混乱の声が漏れる。

 光の爆発は夜闇を一瞬にして真昼のように照らし上げた。咄嗟に魔女帽を目深にかぶり、さらに両腕で顔を覆った涙は、しかしそれでも強引に網膜に染み込んでくる圧倒的な光に抗い、両のまぶたを力強くつぶった。

「なっ、なんですかこれ……聞いてない……!」

「るいちゃ──セブンちゃん!」

 自分を呼ぶ声の直後、細くも逞しい腕が涙の身体を正面から抱き寄せた。

 閃光が遮られる。驚いた涙が視線を上げると、すぐそこに、金色のマスクに隠れた雅影の顔があった。

「まッ……!?」

 瞬間、息が止まる。透き通るようなブラックの瞳孔と高く美しい鼻梁。間近で見れば見るほど端正さが際立つ造作に笑みを浮かべ、彼は唇を動かした。

「大丈夫、俺にしっかり掴まってて。──カグヤ!」

 張り詰めた声で背後へ呼び掛ける。数瞬の間をおいて荒れるような明光が遠ざかり、再び謎の単語列が涙の耳を叩く。

「レスポンド。プリーズ・ビュウ」

 かすかに、ロッドが空を切る音がした。続けて、周囲を渦巻く緑色の旋風と、体が浮き上がる感覚。

「ふぇっ──」

 と声を上げた時にはもう両足が完全に屋上から離れていた。思わずしがみついた雅影と共に、ぐんぐん夜の空へと吸い上げられていく。

 涙を含めた五人の怪盗は旋風にその身を包み、あっという間に天高くまで舞い上がった。眼下を望めば小さくなった美術館と、屋上でうごめく警官たちが見える。

 こちらを見上げる坂渕の瞳が大きく見開かれるのが、上空からでもハッキリと視認できた。

「そっ……そんなのありかっ!」

「アリアリ、大アリに決まってるでしょ。エリアは広く使わなきゃ。そんなんだから(ここ)が固いとか言われるんだよ」

 座るようにして旋風に乗っていたゼロが、右手の人差し指で自分のこめかみをつついた。

 カッチーン、と、幻聴が聞こえた気がした。

 顔を真っ赤にした刑事が拳銃を向けてくる。がしかし、発砲の気配はない。撃ったところでゼロに迎撃される──いや、そもそも狙いがつけられないのだろう。涙たちは今この瞬間も緑の旋風に乗って上昇を続けている。

 得意気に(まさ)った顔で、ゼロが両腕を広げた。

「今日のゲームも俺たちの勝ちだね。次に会うまでに刑事さんがどれだけ成長してるか、楽しみにしてるよ~」

「このっ……おのれKETOSぅぅ!!」

 美術館がみるみる小さくなる。遥か上空の空気までをも震わせる絶叫に感嘆しながら、涙は改めて自分を抱き抱える男の顔を覗きこんだ。

 左腕を涙の胴体に回し、右腕は真っ赤な剣を携えている。瞳はしばらく美術館の方向に向いていたが、小さく微笑むと不意に涙を見た。

「もう大丈夫。ビックリさせてごめんね?」

「い、いえ! 私の方こそ守ってもらってばっかりで、えと、その……」

 唐突に目が合ったせいで口が思うように回らない。しどろもどろになりながら、力なく額を彼の胸に預け、呼吸のように囁く。

「……ありがとうございます」

「ううん。涙ちゃんが無事で、本当によかった」

 噛み締めるように呟いた雅影の左手が、涙の頭をそっと撫でた。

 思わず瞳に雫が浮かぶ。一度強くまぶたを瞑って雫を振り落とした涙は、しかし止めどなく溢れてくる液体に少しばかり困惑した。

「……ルイルイ?」

 控えめなツバメの声が呼ぶ。そちらに顔を向けたいのに、両目から溢れる雫は(とど)まるところを知らず、壊れた蛇口のように次から次へと水を流し続ける。

 それがナミダだと自覚できた瞬間、涙の口は勝手に動いていた。

「…………怖かったよぉ」

 両腕を回して雅影を強く抱き寄せる。

 感情を口に出した途端、ナミダはその量を増やした。夏の夜空の中心で、涙は声をあげて泣いた。

「あわわっ、ルイルイどうしたの!?」

「……緊張の糸が解けたんだよ。いきなり怪盗にされて、あれだけ警察に追い回されたんだ。無理もないよ。……ましてやこの世界のこと、何も知らない状態で」

 雅影の左手が、いっそう優しく涙を撫でた。

 彼の胸の中で、涙は大きく嗚咽を漏らす。

「……よく頑張ったな、涙」

 少し離れた場所で呟いたゼロの声は、旋風の唸りと自身の嗚咽にかき消され、涙の耳に届くことはなかった。

 夜空を横断するフライトの間、涙は雅影にしがみついたまま、延々と泣き声を上げ続けた。


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