KYになろうと思う
私が精神安寧上やめた方がいいと知りながら、なかなかやめられないことが一つある。それは、他人の言葉の裏を読もうとすることである。この国の悪習の一つである、いわゆる空気を読むということだ。
何故それがよろしくないかというと、まず第一に、空気を呼んだ側は基本的に得をしない。場合によっては、諍いや面倒事を避けられることもあるが、大概は損害を黙って引き受けることを空気を読むと言っているのである。
第二に、他人の心の中を正確に推し量ることなどできない。場合によっては、思っているその本人すら正確に分かっていないことさえある。それを、表に出されて明示されているわけでもないのに推し量ろうというのは徒労である。後出しじゃんけんにしたり、推し量られたことそのものに腹を立てるものもいる。となれば、そんなものは知らぬ存ぜぬをして、出されたものだけで考えた方がいいのだ。
大体において、空気を読むことを強いられる相手というのは、己にとって共に過ごすことで快くない相手である。であれば、そんな相手に頭を悩ませ、心を痛めるのは馬鹿馬鹿しいことである。配慮してやることを快く感じない相手ならおそらく、相手もこちらの配慮を当然のこととして感謝しないような者であろう。ますます馬鹿らしい話である。
勿論、人間社会で暮らす上で、他者への配慮を欠いていいという意味ではない。空気を読む方が良い時もあるだろうし、空気を読まないことで問題にぶつかることもあるだろう。だが、この問題というのも、空気を読まれる側が無配慮だったことに由来すると考えられる場合がある。つまり、お互い様ということだ。大体配慮が欲しいのであれば、自分で言葉にして言えばいい。ああしてほしい、こうしてほしいと。言葉にせずやってもらうことが目的に入ってしまえばもうだめだが、きちんと口に出す以上に正確に望みをかなえてもらう方法はないのである。
そうはいっても、この国の常識一般が空気を読めという。口に出して望みを言うなんてはしたない。口に出していないことをくみ取って配慮してやるのが美しい、なんて了見がまかり通っている。私自身も、なんだか口に出してはっきり望みを言うのがやらしくて、遠回しに言ってくみ取ってもらおうとしてしまう。よくないことだ。まあ、くみ取ってもらえることともらえないことでは、後者の方が多いのだが。それが、読み取ってもらえなかったからか、分かった上で黙殺されているのかは、それこそはっきり聞かねばわからないことではある。聞いたところで得をする気はしないので、これからも聞かないだろう。
そういう、他者の考えをくみ取るということについて、頭がいい人の方が損である。口に出されなくても自然とわかってしまう。わかってしまうと、それに配慮しないことは不義理や不人情のように思えてしまう。
しかし、はっきりと口に出されていないのならば、それははっきりしないことである。どんなに明白なことに見えても、箱の中の猫と同じだ。きっとこの猫は生きているだろうと思っても、箱を開けるまでは死んでいてもおかしくないのだ。
口にしないで望みを叶えようなんてのは、本当はずるこいことだ。卑怯で、逃げ道を確保した詐欺みたいなことだ。それがよろしくないことだった時に、あちらが勝手にやったことだなんて、自分の望みを叶えてもらっておいて言うのは、本当にずるいことだ。叶える側にも思惑があったにしろ、それは非誠実なことだと思う。
勿論、空気を呼んで配慮をしたつもりが、頓狂なことをしていたという場合もありうる。空気を読んだ結果迷惑をかけるということもあり得ないわけではない。普通、人間に他者の心の内を正確に読み取ることなんてできないからである。
だから、空気なんて読まない方がいいし、読ませようとしない方がいいのである。はっきり言葉にしたこと以外、お互い気にしないのがいいのである。相手の心の内を勝手に推し量ってはいけないのである。己がそんな高尚な存在だと思わない方がいいのである。
それに大概、周りに気を遣う人は、その人が周りに気を使っているほどには周囲の人に気を使ってもらえないものである。自分から貧乏くじを引きに行っているようなものだ。別に本当に好きでやっているのならば好きにすればいいが、嫌々やっているのであれば、すっぱりやめてしまった方が良い。大体の人間は自分が困るまで、問題があること、それを黙って引き受けていた人のいたことには気付かない。気付かないから感謝をしないし、不都合の時に文句を言う。馬鹿らしい話だ。
全部ひっくるめて、簡単に言うのならば、お互いに空気を読まず、それをよしとするのがよろしいということである。空気を読まないことを標榜するのであれば、当然、空気を読まれないことをよしとしなければならない。それが誠実な対応というものである。