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第九話  師匠

「あっ……」

 アパートの前まで来た時、わたしは二階のベランダに理沙を見つけた。夜風にさらされて、髪もブラウスの袖も揺れている。その姿はひどく頼りなくて、消える寸前のろうそくのようだった。

「理沙」 

 わたしはベランダの下まで駆けて行くと、真下からその名前を呼んだ。理沙はわたしを見つけて弱々しくほほえんだ。

「……来てくれたんだ……ごめんね」

「いいよ、そんなの。今からそっちに行ってもいい?」

 わたしがそう言うと、理沙は困ったような顔で首を横に振った。

「わたしパニックになって、いろんなもの投げたりしちゃった。今、足の踏み場がないんだ。わたしが下に行く。ちょっと待ってて」

 理沙が部屋に入って行く。理沙がいなくなったベランダにも風が吹き抜けていき、洗濯ものの干されていないハンガーを揺らした。

「麻奈……。さっきのこと、怒ってるよね」

 突然後ろから友也の声がした。わたしは、振り向くことができずそのまま立ちすくんだ。

「ごめん。三年前、僕は『麻奈が春樹のことを好きだっていう気持ちも、まるごと全部受け止める』って言ったよね。その覚悟は今も変わらない。なのに僕は、春樹に嫉妬した。あんなにあからさまに……。自分で自分が情けないよ。もう二度とあんなことはしない。だから麻奈。僕を嫌いにならないで」

 わたしは、胸の痛みで泣きそうだった。悪いのはわたしの方だ。しかし、振り向こうとしたわたしの耳に、階段を降りるサンダルの音が聞こえてきた。やがて入口から理沙が出てきた。さっきラーメン屋にいた時と同じ恰好なのに、まるで別人のように見えた。

「ねえ、理沙」

 わたしよりも前に、友也が理沙に声を掛けた。

「孝太のこと、僕に少し心当たりがあるから、そっちを当たってみる。理沙も麻奈と二人の方が、いろいろ話しやすいだろ」

「……うん……お願い……」

 理沙はそう言ったが、あまり気持ちが入っていないように聞こえた。きっと心の焦点が合っていない。今の理沙は、孝太のことで一杯になっている。

「じゃあ、行ってくる。理沙をよろしくね」

 その声に、わたしは慌てて友也の方に視線を向けた。友也は静かに微笑んで、ゆっくりとうなずいた。わたしは何も言うことができず、ただ友也の背中を見送った。

「……あそこに座っていいかな……」 

 立っているのがつらいのか、理沙はアパートの前にある植え込みのブロックに腰かけた。わたしも隣に腰掛ける。風が吹くと、緑のにおいが強く香った。夜闇の中で、嗅覚が鋭くなっているのかもしれなかった。

「理沙……」

 わたしはなんと言葉を掛けていいのかわからなくて、ただ理沙の背にそっと触れた。理沙はわたしの方に体を傾けて、肩の上に頭を乗せた。理沙の甘いシャンプーの香りが、緑のにおいを忘れさせた。

「わたしね…ずいぶんうぬぼれてたんだなあって…そう思うんだ」

 理沙は低く呟くように話し始めた。

「孝太はわたしが支えてる。わたしがいなくなったら、孝太は何もできない……なんて、勝手に考えてた。でも、違ったみたい。孝太は一人になりたかったんだって。わたしの存在は、孝太にとって邪魔なだけだったのかもしれない」

 理沙が頭を乗せているわたしの肩から、彼女の痛みが伝わってくる。わたしは理沙を思い、そして孝太を思った。高校の頃から付き合っていた二人を、わたしは三年間見て来た。そんなわたしだからこそ、言えることがあるはずだった。

「高三の秋だったかな。わたし、塾帰りにばったり孝太と会ったんだ。わたしの顔を見た途端、孝太は『しまった』って顔をした。孝太って、結構顔に出るタイプだもんね」

 わたしの話に、理沙は明らかに興味を持ったようだった。肩から顔を上げて、理沙はわたしを見た。

「……孝太、なにしてたの?なにか隠すようなことをしてたとか……」

「隠したいものを持ってたのよ。大き過ぎて隠せなかったけど。孝太はね、一抱えもある大きなキャンバスを抱えてたんだ」

「キャンバス……」

「無理矢理覗こうとしたら、『壊れるだろ』って怒られた。でもわたし、孝太の腕の隙間から見ちゃったのよね。それ、理沙を描いた絵だった」

 理沙はゆっくりと空を仰いだ。理沙の肩で切りそろえた髪が、夜風にさらさらと揺れた。

「それ、文化祭で展示した絵だよね。まだ美術倉庫に入ったままだと思ってたのに、持って帰ってたんだ……」

「『理沙だね』ってわたしが言ったら、『そうだよ、悪いか』って言ってむくれてた。『あいつは暗いの嫌いだろ。ずっと倉庫に入れとくのもどうかと思ってさ』だって。わたしが、『部屋に飾っとけば』って言ったら、『ばーか。あいつが遊びに来た時、恥ずかしいだろうが。あいつは一人いれば十分なんだよ。……いなくても困るけどな』なんて言われちゃった。あーあ、話しかけなきゃよかった。ってずいぶん後悔したな。男ののろけなんて、犬も食わないからね』

「そんなの昔話だよ」

 そう言いながら、理沙は少し笑っていた。泣き笑いのような笑顔なのに、わたしは少しほっとした。

「孝太は、いつだって理沙がいなきゃ困るんだよ。理沙に怒られたり厳しい意見を言われたらむっとすることもあるだろうし、見守られたり心配されたりすることがうっとうしい時だってあるかもしれないよ。でも、そんな理沙を孝太はいつも必要としてる。今だってそう。少しだけ理沙から離れることがあってもきっと戻ってくる。だってあいつは、理沙っていう存在が必要なんだから」

「……どうだろう……。麻奈、それちょっと盛り過ぎだよ」

 でも理沙は、声を立てて笑い出した。

「麻奈、ありがとう。結局わたしはわたしでしかいられないんだよね。背伸びしたってこけるのがおちなんだから。そんなわたしを、まだ孝太が好きでいてくれたらいいな。でもそれは孝太の感情が決めることだからね。わたしはただ、祈るしかないんだね」

 麻奈はそう言うと、本当に両手を組み合わせて頭を垂れた。その姿を、わたしはとてもきれいだと思った。



◇◇

「えーっ!!」

 朝の九時前、ハロルドの控室に入ろうとしたわたしは、思わず声を上げた。そこに若い二人の男性が、壁にもたれかかるようにして眠っていたからだ。

「どうして友也と孝太が……」

 二人はわたしの声で微かにみじろいだ。孝太はそのままずるずると滑り、畳の上に横倒しになってしまった。

「麻奈ちゃん、ちょっとこっちに来て」

 肩越しに、七瀬の囁くような声が聞こえた。わたしはよくわからないまま、元通りにドアを閉めて後ろを向いた。

「七瀬先輩、これはどういうことですか」

「昨夜遅く、孝太くんがここに来たのよ。ああ、言っとくけど、妙な誤解はしないでよ。いくら彼氏がいないからって、後輩ちゃんの大事な人を横取りするほど落ちぶれちゃいないからね」

 その時控室のドアがもう一度開いて、中から友也が出てきた。友也はまだ眠そうで、髪がぴんぴん跳ねている。そんな無防備な友也を見るのは初めてで、わたしは思わず笑ってしまった。

「おはようございます、先輩。おはよう、麻奈」

 友也は少し照れくさそうな顔で、わたしたちに挨拶をしてきた。

「おはよう、友也」

 わたしも自然にそう返せた。

「友也くん、まだ寝ててよかったのに」

「ありがとうございます。でも、今日は大学の方で手続きとかいろいろあって、休めないんですよ。……まったく。忙しい時に、あいつが面倒掛けるから」

「あいつって……孝太だよね」

 わたしは、まだ事情が飲み込めないまま口をはさんだ。

「そうだよ。……実はね、孝太はここにいるんじゃないかって、ずっとそう思ってたんだ。七瀬先輩は、孝太の師匠だからね」

「師匠?」

 聞き慣れない単語を聞いて、わたしは昔の記憶を手繰り寄せた。そう言えば、七瀬も美術部と漫画研究会を兼部していたはずだ。ただ、部長の仕事が忙しくて、漫画研究会の方は幽霊部員になっていたようだった。

「麻奈は知らないと思うけど、七瀬先輩は漫研部員の間でカリスマ的存在だったんだ。短編が何度も漫画雑誌に掲載されていたからね。先輩が美術部の部長になったと聞いた時、漫研部員たちの落胆ぶりはすさまじかったそうだよ」

「友也くん、大げさねえ」

 七瀬は笑っているが、友也は話を誇張するタイプの人間ではなかった。わたしはただただ驚いて友也の話を聞いていた。

「孝太もまた、先輩を信仰している信者の一人だったんだ。本人からも聞いたことがある。だから、孝太が漫画的に行き詰ったら、真っ先に先輩の所に行くだろうと思った。でも、理沙はこのことを知らないよ。七瀬先輩への信仰は、漫研の中でひそやかに行われていたからね。孝太も、理沙の誤解が怖くて言いだせなかったんだろう。……しかし孝太も、余程行き詰ってたんだろうな。七瀬先輩は、信仰対象である前に若い女性なんだから、夜中に一人で訪ねて行くなんて……非常識にも程がある」

「ほんと、孝太くんも困った子だわ。よっぽどわたしに女性の魅力が足りないのかなあ」

「そんなことないですよ。十分魅力的です」

「友也くんが言うと、なんかうそっぽいわ」

「そんな……先輩、被害妄想ですよ」

「まあ、いいわ」

 七瀬は肩をすくめて、友也にわざとらしいウインクを送った。

「友也くんが孝太くんと一緒に泊ってくれたおかげで、わたしが理沙ちゃんに刺される確率が減ったものね。ありがとう。さあ、友也くん、早く学校にいかないとまずいんじゃない」

「あっ、すみません。じゃあ行ってきます。帰りにまた寄りますから、それまで孝太をよろしくお願いします」

 友也が店を出て行くと、七瀬が「ああ疲れた」といいながらそのまま壁にもたれかかった。

「今日は仕込みができなかったから、お店は開けられないわね。今日中に孝太くんの原稿を読み終えて、問題点をあぶり出さなきゃならないし……」

「あの……わたしは……」

 店が休みなら、わたしはすることがない。しかし七瀬は、何かたくらんだような顔になるとちっちっと人差し指を振った。

「ちゃんと麻奈ちゃんのお仕事考えてるわよ。美術部出身の……ううん、麻奈ちゃんにしかできないことかもしれない」

 きょとんとしているわたしに手招きしながら、七瀬は店の奥に入って行く。わたしも急いで、七瀬の後を追った。

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