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第五話  美しい人

 きのう春樹に会った直後は、気が動転していてまともな状態ではなった。家に着くまでの記憶がほとんど抜け落ちている。それでも、家にたどりつく少し前、パンを売る店があったことだけは覚えていた。焼きたてのパンが放つ香りは、わたしを0.3秒だけ幸せな気持ちにしてくれた。

「あの店でパンを買いたい」

 朝空腹を感じた時、わたしは真っ先にそう思った。昨日鼻先をかすめて行った幸せを、今度はゆっくりあじわいたかった。

 朝の坂道は昨日と比べてずいぶん冷たい風が吹いていた。薄着で家を出たわたしは思わず肩をすぼませた。急いで日向を見つけ、そこを選んで歩く。うまく光の下に入り込むと、温かさと一緒に視界がきらきらした。昼間とは違って、光は白くしっとりとしていて、優しく包み込むようだった。

 店の近くまで降りて行くと、ちょうど店の扉が開くのが見えた。中から出てきたのは黒いカフェエプロンをつけた細身の女性だ。彼女は両手に看板用の黒板を抱えていた。そこに描かれているはずの文字は、こちらからは見えない。

 この時間に店を開けるのだろうか。わたしは急に不安になった。家を出る時に壁の時計を見たが、確か八時二十分くらいだった。

 住宅街にあるパン屋さんが何時に開くものなのか、わたしにはわからなかった。でも、まだ開いていない可能性の方が高くはないだろうか。

「あの……」

 わたしは女の人に向かって、おそるおそる声を掛けた。店は何時から開くのか、聞いてみよう。もし早過ぎたのなら、一度帰らなければならない。

 わたしの声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。そしてその顔にじわじわと笑みが浮かぶのがわかった。

「あれ…もしかして麻奈ちゃん?」

「え……」

 驚いたことに、彼女はわたしの名前を呼んだ。わたしは焦って彼女を見つめる。そう言われれば、微笑む彼女の顔をどこかで見たことがあるような気がした。わたしは懸命に記憶を掘り起こしたが、少しずれているらしいピントは中々うまく合わなかった。

「…えーと…」

「わたしよ、わたし」

 彼女は親指と人差し指で何かをつまむ動作をすると、それを左右に揺らしてみせた。ふいに、大胆な筆遣いをする彼女の面影が浮かんだ。わたしは思わず「あっ」と声を上げた。

「七瀬先輩!」

「正解。思い出してくれてよかった」

「すみませんっ」

「いいのよ。あの頃のわたしとは、ずいぶんと印象が違うでしょう?」

 弾むような口調は変わらない。学年が二つ上で、美術部元部長の田村七瀬だ。でも、見た目が変わった。かなりふくよかで、あだなはゆきだるまの『ゆきちゃん』だった七瀬先輩が、都会的でスレンダーな美人に変貌していた。

「それにしても、ほんとに久しぶりね。こっちに戻ってきたの?」

 まだ戸惑っているわたしに、七瀬は昔と同じように話しかけた。

「あ、いえ。しばらくこっちにいるだけで……。おばあちゃんが人に貸してた家が、このちょっと上にあるんです。いま空いてるらしいんで、ちょっとだけ使わせてもらってます」

「もしかして、赤い屋根の家?」

「はい」

「じゃあ、杉田さんが住んでた所ね。引っ越す前はうちのお得意さんだったのよ」

「お得意さん……」

 その言葉で、わたしは自分がここに立っている理由を思い出した。

「わたし、ここにパンを買いに来たんです。まさか先輩がバイトしてるなんて知らなくて」

「そうね。誰にも教えてないもの。ちなみに麻奈ちゃん。わたしはこの店でバイトしてるわけじゃないのよ。この店はわたしのお城。何と言っても、この店のオーナーはわたしだから。まあ、働いてるのもわたし一人なんだけどね」

「ええっ!」

 わたしの驚きはさらに倍増した。わたしとは二つしか年の違わない先輩が、まさか店を経営しているとは思わなかった。そんなわたしを見て七瀬はくすくすと笑った。

「気持ちいいくらいに驚いてくれるのねえ、麻奈ちゃんは。ほんとに可愛い後輩だわあ」

「どうして誰にも言ってないんですか?理沙だって、知ってたら顔を出してたと思いますよ」

「そうでしょうね。後輩ちゃん達はみんないい子ばっかりだから。あの子たちに『パン屋やります』なんて話したら、無理してでも毎日来てくれそう。でも、そういう情に頼ってちゃだめだって思ったのよ。商売を始めるなら、実力で稼ぐようにならなくちゃね」

 そう言って七瀬は力強いウインクをしてみせる。強気な感じがすがすがしい。

「まあ、最近ではお得意様もいっぱいできたから、君たちに教えてもいいかなって思ってたところなのよ。さあ、入って。焼きたてのパンをごちそうするわ」

「わたし、ちゃんとお客として買いますよ」

「なに言ってるのよ。久しぶりなんだから、ちょっとは先輩らしいことをさせてちょうだい。わたしのお店、『ハロルド』へようこそ」

 七瀬は片手を胸に当て、もう片方の手で店のドアを開けた。ドアは木製で、外壁と同じ白に塗られている。上の方には小さなベルが取りつけられていて、開けるとチリチリと可愛い音を鳴らした。



「九時の開店に合わせて準備してるから、まだこれしか焼きあがってないのよ」

 七瀬が運んできてくれたトレーには、温かそうなクロワッサンとデニッシュ。そして湯気を立てているコーヒーが並んでいた。わたしはそのトレーを受け取って、まだ人のいないレジ前に座った。

「……ものすごくおいしそうです」

「まあね。味は保証するわよ。どうぞ、召し上がれ」

「いただきます」

 わたしはパンを夢中でほおばった。ほかほかで柔らかい。おいしさが体中に染み込んでいくようだ。今度はコーヒーに手を伸ばす。その時わたしは、レジの影に置かれている写真に気づいた。その写真は、淡いミントカラーの縁がある小さな写真立てに飾られていた。写真に写っているのは二人の女性で、一人は七瀬。そしてもう一人は……。

―美月先輩……。

 栗原美月。

 彼女のことはよく覚えている。彼女は七瀬と同じ学年で美術部の副部長をしていた。物静かだが頭の回転が速くて、部長の七瀬をよく支えていた。そしてなにより、びっくりするほどきれいな人だった。

 そして、春樹は美月に惹かれていた。そのことをわたしは知っている。春樹は卒業すると、美月の後を追うように東京の同じ大学に入った。その後はどうなったのだろう。知りたい気もするし、知りたくない気もする。でも二人は、『美しさ』という点において見事につり合いが取れていた。並んで写真を撮ったら、きっと雑誌の表紙のようになるはずだ。

「美月先輩、もう美大を卒業されてますよね。今は何をなさってるんですか」

 わたしの言葉を聞いて、七瀬の表情が一瞬凍りつくのがわかった。

「麻奈ちゃんは知らないのね……」

七瀬はゆっくりとその目を伏せた。

「美月はもういないのよ。あれからちょうど一年になるわね。突然心臓が止まってしまって、それっきりだった」

 衝撃だけが先に来て、息が止まりそうになった。脳は後から働き始め、じわじわと事を理解していく。わたしは乾いた口を開き、何とか言葉を絞り出した。

「……そんな…こと……信じられない……」

「そうね……。突然の事だったから、わたしも受け入れるのに時間が掛った。ううん。まだ受け入れきれてないのかもしれないわね。こうやって美月の写真を見つめていると、あの子がまた戻ってくる気がするもの」

「……春樹は……?」

 わたしの唇から、いつの間にかその名前が零れ落ちた。七瀬は少し目を細めて、わたしの顔をじっと見つめた。

「どうして春樹くんのことを聞くの」

「春樹は…美月先輩のことを好きでした。だから……」

「そう……。そうだったのね……可愛そうなことをしたわ」

「えっ?」

「あの日、春樹くんは美月と一緒にいた。美月が倒れて、救急車を呼んだのも春樹くんだった。わたしね、病院で春樹くんに聞いたの。『美月とつきあってたのか』って。もしそうなら、家族として美月のそばにいて欲しいと思った。でも春樹くんは、『違います』って言ったの。真っ青な顔をしてたけど、それはただびっくりしたからだろうと、そう思ってしまった……。『つきあってたのか』なんて聞き方、しなきゃよかった。『好きだったのか』って聞くべきだったよね。好きだったのならきっと、そばにいたかっただろうに……。あの後しばらくして、春樹くんは学校をやめたらしいの。学校が合わなかったのかと思ってたけど、それだって美月を失ったせいかもしれないのね」

 混乱した頭の中で、わたしはまた三年前のことを思い出していた。その時わたしは、春樹が美月に惹かれていることを初めて知った。

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