第四話 リリィという猫
あの春樹が、どうして花を描いたりするんだろう。そして春樹がわたしに向けた、怯えたような顔も気になる。わたしは、春樹が怯えるようなことなんて、一度もしたことがない。なのにどうして……。
わたしの頭の中で、何度も同じ問いが繰り返される。そしてわたしは、一度も答えることができなかった。考えるだけ、無力な自分を確認しているようなものだ。わたしは頭を抱えた。
突然着信音が鳴りだして、わたしの思考は中断された。慌てて時計を見ると、驚いたことにもう八時を二十分も過ぎていた。
「麻奈、遅い」
理沙の第一声はそれだった。
「ごめん、いつの間にか時間たってて……」
ほかに言い訳のしようもなく、わたしはそう言って謝った。その途端、電話の向こうからはじけるような笑い声が聞こえた。
「ああ、やっぱり麻奈だよ。懐かしいな、その天然っぷり」
「……なによ、それ……」
「麻奈が変わってなくてうれしいってことだよ。まあ、わたしも、相変わらずどじばっかりやってるけどね。そう言えば、今日大学の講義で寝てて………」
理沙は相変わらず話し上手で、理沙の身の回りに起こったことや知っていることを面白く話して聞かせてくれた。わたしは、世の中には明るくて楽しいことがたくさんあるのだ、と言うことを思い出した。
「……ねえ、理沙。さっきここに来る途中で…春樹を見かけたよ。あいつ、こっちに帰ってきてるんだね」
会話が途切れた時、わたしは何気ない風を装って春樹の話を振った。理沙なら、もっと詳しい春樹の情報を持っているかもしれない。そんな期待があった。
「えっ、うそっ」
しかし理沙は、驚いたのか甲高い声を上げた。
「春樹、東京に行って二年ぐらいたった頃から、急にこっちの友達と連絡取らなくなっちゃったんだよね。電話番号もメアドも全部変えたみたい。『あいつはもう、東京の人間なんだよ。花宮のことなんか忘れたいんだ』なんて言う人もいるくらいでね。こっちの家だって、普段は誰も住んでないんでしょ。なのにこっちに帰ってきてるなんてびっくり……。もしかして麻奈、夢でも見たんじゃないの。今、寝起きだったりして」
「違うよ。ちゃんと見たんだから」
あれが夢ならよかったのかもしれない。でもわたしは、さっき見た春樹の顔をはっきりと覚えている。そしてなにより、目の前には春樹の描いた花の絵があった。
「じゃあ、話とかした?」
「話はしてないよ。……そんな雰囲気じゃなかった」
春樹はわたしをはっきりと拒絶した。わたしの頭の中で、窓の閉まる『ガシャン』という音が、もう一度聞こえた気がした。
「そっか……。何かあってこっちに戻ってきたのかなあ。こっちにいるなら、誰かに連絡すればいいのに。家にいても一人だろうし、淋しくないのかな」
春樹の父親は、もともと花宮で画廊を営んでいた。それが今では、全国放送のワイドショーに出てコメンテーターをしたりしている。妻とは早くに死別していて、こちらに帰ってくることはめったにないようだった。
そんな理由もあって、春樹は高校の頃からほぼ一人暮らしをしているようなものだった。でも今のように、人目を避けて生活している感じではなかった。春樹の家にはいつもたくさんの友達が出入りしていて、明るい社交場のようになっていた。
「ちょっと孝太に聞いてみるよ。春樹と仲良かったし、なんか知ってるかもしれない。あと友也にも声掛けてみるね。あいつは顔が広いから」
「……うん」
孝太も友也も、高校の美術部で一緒に過ごした同級生だった。今は理沙と同じ地元の大学に通っている。あの頃、理沙は孝太と付き合っていたが、今もきっと仲良くやっているのだろう。そして友也は……。わたしは彼と、少しだけ付き合ったことがあった。いつも優しい人で、わたしにはもったいなさすぎた。
「それで麻奈、いつまでこっちにいるの」
「……まだ……決めてない……」
大学には休学の届を出して来た。ここにいるのが一週間なのか、半年なのか、自分でもわからなかった。
理沙も、わたしの口調に引っかかるものを感じたかもしれない。でも、それを口にしたりはしなかった。
「じゃあ、麻奈がこっちにいる間にいっぱい会おうよ。ご飯食べに行ったり、遊びに行ったりさ」
「うん」
「じゃあ、また連絡するね」
電話を切ってから、わたしは軽くめまいを感じた。なんだかとても疲れてしまった。この町に着いてから、わたしの心はあの頃と今を何度も行ったり来たりした気がする。覚悟していたはずなのに、それは常に痛みを伴っていた。
◇◇
朝ベッドから降りると、思いがけず柔らかいものに足が触れた。
「きゃっ」
わたしは思わず声を上げたが、それと同時に足元からも「にゃっ」と抗議の声が聞こえた。
床の上で警戒態勢を取っているのは、首にピンクのリボンをつけた真っ白な猫だ。鍵はちゃんと閉めていたはずなのに、どこから入ってきたのだろう。
しかし、ドアを調べるとすぐに理由がわかった。裏口とこの部屋のドアにだけ、小さな猫ドアが取りつけられていた。
―ここのうちの猫かな……。
前ここに住んでいた人がどんな人でどこに行ったのか、わたしはまるで知らなかった。まさか、飼っていた猫を置いて行ったのだろうか。いや、何軒もの家を渡り歩く猫もいるという。ほかに家があって、ここには出入りしていただけなのかもしれない。
「もしかして……」
わたしは台所に行って棚を開けた。
引っ越したにも関わらず、前の住人はたくさんのものを残したままにしていた。さすがに冷蔵庫は空だったが、棚にはカップラーメンや小麦粉、そして思った通り猫の餌も入っていた。
わたしは、同じく棚に放りこまれていた皿を取りだした。白い皿には、黒マジックで小さく『リリィ用』と書かれていた。
「君がリリィってわけだね」
わたしは皿に餌を入れ、それをリリィの前に置いた。さっきあんなに警戒していたにも関わらず、リリィは飛んできて皿に顔を突っ込んだ。踏ん張っている四本の足も、丸くなった背中も、小さく上下する頭も、全身が食事のために使われている。あまりにも無心で、それがむしろ神々しいほどだった。
見ているうちに、わたしの胃もぐうと情けない音を立てた。考えてみれば、昨日の夜はほとんど食べていない。
わたしは部屋に戻って簡単に身支度を整えると、また台所に戻ってきた。皿の横に寝そべっていたリリィは、わたしを見てのっそりと顔を上げた。
「ちょっと行ってくるね」
わたしの声に、リリィはぴくりと片耳を動かして、また寝てしまった。わたしはリリィをそのままにして家を出た。なんだかリリィの方が、この家の主みたいだった。