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第三話  花

 国道をひとしきり歩いてから、駄菓子屋の先を左に曲がる。そこから先はゆるい坂になっていた。いつだったか、美術部のみんなで春樹の家に行った時、この辺で散々犬に吠えられた。でも今日は静かだ。坂の下を走る車のエンジン音と遠くではしゃぐ子供の声がぼんやりと滲むように聞こえてくるだけで。

 わたしはいつのまにか、目を細めなくても歩けるようになっていた。この陽光に目が慣れてしまった。でもわたしは、意識的に目を細めて歩いた。もうすぐ春樹が住んでいた家があるのだ。

無論、彼は今ここにはいない。それはわかっている。春樹は東京の芸大に通っていて、今頃は向こうで絵を描いているはずだ。でも、春樹の家に近づくにつれて、わたしは妙に息が苦しくなった。『中野春樹』の存在感が、わたしの中で勝手に膨れ上がる。それがつらかった。

 やがて坂はカーブに差し掛かった。そこに建つ古い大きな家を、わたしはほんの一瞬だけ見た。春樹の部屋は二階の一番手前で、道に面しているはずだ。いや、それも三年前のことだが。わたしは目を伏せ、この場所を足早に通り過ぎようとした。

 その時、頭上でがらがらと引き戸の開く音が聞こえた。わたしは思わず立ち止まり、音の方に顔を向けた。

「あ……」

 雲ひとつない青空が、いつの間にか四角く切り取られていた。白く四角い障害物。それはわたしの頭上をかすめ、向かいの家のブロック塀にぶつかって地面に落ちた。

 風に煽られているそれは、わたしもよく知っているものだった。スケッチブックから破り取られた紙だ。わたしは紙が再び飛ばされてしまう前に慌てて拾い上げ、それから引き寄せられるようにもう一度顔を上げた。

―……春樹…。

 開けられた小窓の向こうに春樹がいた。黒く柔らかそうな髪も、逆三角形の顔形も変わらない。でも彼の大きな目は、わたしを見てさらに見開かれていた。それは驚いていると言うよりもどこか怯えているように見えた。

「はる……」

 わたしはなけなしの勇気を振り絞って春樹の名前を呼ぼうとした。しかし、その声は春樹に届かなかった。窓を乱暴に閉める音が、わたしの声をかき消してしまった。わたしは茫然と立ちすくんだまま、春樹のいない窓を見つめていた。



 台所の椅子にすわり、わたしはその絵を手に取った。描かれているのは多分、アマリリスだ。木炭で書かれたデッサンなのに、まるで本物の花を見ているような気がしてくる。

 これは、春樹が窓から放り出した絵だ。きっと、本人に返すのが一番いいのだろう。直接会う勇気がないのなら、ポストにでも入れておけばいい。でも……。

 絵には、黒い墨で大きくばつ印が書かれていた。彼はこの絵にだめを出して放りだしたのだ。それをわざわざ返すのは、喧嘩を売るのと同じかもしれない。

 結局わたしは絵を持ちかえり、魂でも抜かれたようにぼんやりと見つめている。きれいな絵だ。でも、昔の春樹ならこんな絵を描いたりしなかった。



 あの頃のわたしは、いつも花の絵ばかり描いていた。花びらのふんわりとした形を再現し、リアルな色合いを模索した。

「また花を描いてるの?」

 美術室でキャンバスに向かっていると、春樹はよくそう言って絵を覗き込んできた。絵に近づくということは、わたしにも十分に近づき過ぎているわけだが、彼にはそんな意識は微塵もないようだった。

「…別にいいでしょ。わたしは花を描くのが好きなんだから」

 それは、半分は本当だが半分は嘘だ。花を描くのは好きだが、いつもそれだけを描いていたいわけじゃない。わたしだって、人や動物を見れば絵にしたいと思う。でも、描くことができない理由があった。

「春樹はどうするの。前の絵はもう仕上がったんでしょ」

「うーん。まだ決めてないんだよね。でも、人をモデルにすることは確実かな。僕は動かない『花』よりも、動く『人』を描きたいんだ」

 わたしは、春樹が描いた何枚かの絵を思い出していた。シュートを決めたバスケットボール選手、広場でダンスをする少年、フリスビーに跳びつく犬……。春樹の手に掛れば、躍動的瞬間そのものが紙の上に再現された。その鼓動や息使いまで伝わってくるようだった。

 春樹と出会うまでは、わたしも自分の才能に少しは自信があった。人も動物も、周りが感心するくらいには描けていた。でも、そんなもの春樹の絵と比べたら、子どものお絵かきだった。わたしが描く人や動物は、春樹が描くものほど生き生きしていない。どこか人形じみている。そう思えて仕方がなかった。

 それからわたしは、花しか描けなくなった。花はわたしにとって、動かずにその美しさだけを放つ存在だった。ただ美しく描けばいい。わたしはその分野で細々と生きて行くことに決めたのだ。だからそれを、春樹にだけはどうこう言われたくなかった。

「じゃあ、今度は麻奈を描こうかな」

 わたしはぎょっとして顔を上げた。春樹は両手の人差し指と親指で四角をつくり、そこにわたしの顔を当てはめた。

 春樹がわたしを描く。

 わたしの一瞬が、春樹の手によって捕まえられる。春樹は、わたしをどこまで再現してしまうのだろう。

そう考えただけで、胸の内側が燃えるように熱くなった。

「だめだよ。わたしは描く方がいいの」

 わたしがそう言うと、春樹は肩をすくめてから「残念」とつぶやいた。嘘ばっかり。残念なんて、これっぽっちも思っていないくせに。

 わたしはもう一度花を描き始めた。けれどもその花は、さっきよりも少し色が褪せたような気がした。

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