第十五話 君に星が降りますように
春樹はスマホを床に置こうとしている。行動を起こすなら今だ。
わたしは、自分のすぐそばに落ちているナイフを拾って走った。閉まっていたカーテンを押しのけ、窓を開ける。このままナイフを投げ捨ててしまえば、少しは時間が稼げるはずだ。
しかしもう少しというところで、わたしは春樹に捕まった。
「麻奈!だめだよ、そんなことさせない……」
春樹が後ろからわたしの腕をつかむ。ナイフの柄を握るわたしの手は少しずつ握力をなくしていった。そして……。
突然小さな塊が飛び込んできて、わたしたちは意表をつかれた。思わず目で追うと、ちょうど雲の切れ間から月が光を落として、窓辺に色を与えた。
―……リリィ……。
リリィは春樹の足元に近寄って、その小さな背中をこすりつける。ふわふわの毛が、天使の羽のように優しく揺れた。
「……どうした?……おなかすいたのか」
春樹の優しい声が響く。
それに答えるように、リリィが鳴いた。
「にゃあ」
その時わたしは、リリィから春樹に差し込む白い光の線を見た。その光は春樹の闇に届いて、小さな灯りをともした。
―リリィは春樹のことが大好きなんだ……。その想いが、光になった……。
そしてその光の線は、わたしの頭の中で一つの絵と重なった。
―……キャンターの『幻想Ⅱ』。
あの絵には、黒い背景にたくさんの真っ白な線が描かれていた。その線がすべてキャンターへの想いなら、キャンターの抱えた闇にはたくさんの灯がともる。やがて闇そのものさえ消えていったことだろう。
―だったら……わたしの想いだってきっと……春樹の闇を消す光になる。
わたしはナイフを窓から放り投げ、春樹のほうに手を伸ばした。
「……麻奈……?」
わたしの手が春樹の頬に届く。冷たい頬が、わたしの手で少しずつ温かくなっていいくのがわかった。
―もう、一人で苦しまないで。
「春樹。わたしは春樹のことが好きだった。高校に入学して初めて春樹に会った時から、ずっと……。春樹に告白したって、相手にされないと思ってた。だからずっと黙ってたんだ。でも、もうそんなことどうだっていい。春樹がどう思おうと、わたしが春樹のことを好きだって気持ちは変わらないんだから……」
春樹はかすかに唇を震わせ、仰天したような顔でわたしを見た。その瞬間、わたしは自分の胸から春樹に注ぐ白い光を見た。その一筋は、また少しだけ春樹の闇を薄くした。
「春樹、鈍感だねえ。ぜんぜん気づいてなかったの?」
いつから扉が開いていたのかわからなかった。でもその声は、廊下から飛び込んできた。やがて薄暗い部屋の中に、理沙のシルエットが浮かぶ。わたしは驚いて、思わず声を上げた。
「理沙!バイトは……」
「店長に、『もう、来なくていい』って言われちゃった。でも、かえってよかったよ。友達の大事な時に間に合ったんだから」
理沙は小さく肩をすくめてから、もう一度春樹の方に向き直った。
「わたしはね、春樹。春樹のその自信たっぷりな王子様気質、嫌いじゃなかったよ。毎日口げんかしてたけど、あれ実は楽しんでたって、知ってた?」
光の筋がまた一本、春樹に流れ込む。
理沙が春樹のそばに来ると、その後ろから孝太が現れた。
「俺はずっと、春樹とクラスが同じだっただろ。漫研と美術部の締め切りに追われてへろひろだった俺を、春樹が影で助けてくれたってこと、俺は知ってるよ。大学の願書だって、全部お前がもらってくれたしな……」
「えっ、そうなの!?わたしが言わなくてもちゃんとやってる!と思って感動したのに、損しちゃったよ」
突っ込みを入れてきた理沙に、孝太は苦笑した。
「春樹は優しいんだよ。でも、本人は絶対に認めたがらない。俺よりさらに照れ屋だからな」
孝太から流れ込む光もまた、真っ白な輝きを帯びている。そしていつの間にか、孝太の後ろに友也が立っていた。
「春樹」
友也は孝太の脇をすり抜けて春樹の前に立った。そしていきなり、春樹の襟首をつかんだ。
「僕はいますごく腹を立ててるよ。麻奈をこんな目に会わせて……」
「……友…也……」
春樹ののどの奥から、かすれた声が漏れた。それでも友也は、手を離したりはしなかった。
「お前はいつものびのびしていて、自信にあふれていた。なによりみんなに優しかったよね。絶対にこんなことをする奴じゃなかった。……頼むから、自分を壊すほど追い詰めるな。お前がお前でいるために、もっと早く僕たちに手を伸ばせばよかったんだ。……僕たちがお前の手を振りほどくとでも思ってたのか?そんなわけないだろ?もっと早く気づけよ」
「……友也……ほんとにごめん……」
春樹が声を上げて泣き始めた。友也は襟首をつかんでいた手をはずし、春樹の頭をこつんとたたいた。
「……ばかだな。泣くのが遅すぎるって……」
友也から差し込む光が、春樹を照らす。そのきれいな光がまた闇を薄くした。でも、まだだ。まだ足りない。
わたしは窓を全開にして、空を見上げた。
「ねえ、春樹。こっちに来て。空、晴れてきた。星が見えるよ」
「ほら、春樹」
友也が春樹の背を押してくれた。わたしは隣に立った春樹の前で、人差し指を空に向けた。
「修学旅行の夜、春樹はエアデッサンしてたよね。無数に見える星を空中に描いてた。わたしも星が好きだよ、春樹。星は太陽よりもずっと優しい光だから、見つめ返すことができる。その光を絵に写すことだってできる」
春樹が小さくうなずくのが見えた。わたしもうなずいて先を続ける。
「人の気持ちも星とおんなじだよ、きっと。太陽みたいにまぶしくないから、よく見えない。でも、確かにそこにある光なんだ。わたしたちの気持ちも、ずっと前からそこにあったのに、春樹には見えてなかったでしょ?」
「うん……僕は、何も見えてなかった……」
春樹はつぶやくようにそう言って、麻奈を見つめた。その視線に今までとは違う色を感じて、麻奈はあわてて目をそらした。
「……わたしたちだけじゃないよ……。春樹のおとうさんも、七瀬先輩も、それから春樹が知り合ったたくさんの人たちも、みんな春樹に向かって光を送り続けていたんだよ。もちろん、春樹との関わり方によって、光の強さは違うと思う。ちょっと言葉を交わしただけの人なら、六等星よりもずっと暗い光だよね。中には春樹に否定的な人だっているだろうし。でも、たくさんの人が光を送ってくれてることに変わりはないから。……だから春樹。その光を心で感じて」
「……光を……心で……」
「そう。……ねえ、春樹。この空の星が、全部春樹に降り注ぐ。そんな場面を思い描いて。みんなの思いは、今も春樹に向かって降り注いでる。その優しい光で、春樹の心をいっぱいにしてくれるよ」
春樹はおずおずと腕を伸ばし、それを窓の外に差し出した。その時、わたしの目には、春樹へと降り注ぐ無数の白い光が見えた。やがて春樹の中にあったはずの闇は、痕跡すら残さずに消えていた。
◇ ◇
夜の海に来たのは久しぶりだった。
花宮から三十分ほど電車に乗って、わたしたち五人は砂浜に来ていた。
『海の絵を描こう』と言い出したのは誰だったか、今となっては思い出せない。たぶんみんなが描きたかったのだろう。花宮の風に混じるかすかな塩分は、わたしたちの頭の隅に、海の幻影を見せている。ふと気がつくと、海を描きたくなっているのだ。
「やっとついたぁ」
声を上げて駆け出した理沙に、春樹が苦笑しながら声を掛ける。
「理沙、なんだか小学生みたいだよ」
「なによ、それ。わたしは、海に感動する純粋な心を持ってるのよ」
「そっか、ごめん、ごめん」
「春樹、心から謝ってない!」
「まあ、まあ二人とも。海に来てまでけんかしなくても」
結局友也が仲裁に入る、という流れも、三年前と変わらない。懐かしさに胸を熱くしながら、わたしは持ってきたスケッチブックを取り出した。
夜の海は明かりが少ないが、今日は大きな月が出ている。目が慣れてしまえば十分に絵が描けるレベルだ。
「あっ、インスピレーション来たっ」
隣に立っていた孝太が、突然鉛筆を走らせ始めた。もしかしたら、今、すごい傑作が生まれているところかもしれない。
「ねえ、麻奈、理沙」
構図を考えていたわたしは、友也の声に顔を上げた。少し前のほうで海を見ていた理沙も後ろを振り向く。
「ちょっとあの辺で、線香花火とかしてくれないかな」
「え?花火は、絵を描き終わってからみんなでやるんでしょ」
わたしがそう言うと、友也は突然顔の前で手を合わせた。
「頼むよ。二、三本だけでいいから。海で線香花火をしてる女の子って、情緒があるだろ?すごく描きたいんだ」
「情緒あるかな……」
わたしが少し渋っていると、春樹の声が聞こえた。
「二人ともやってよ。僕も描きたい」
わたしは、春樹の『描きたい』という言葉を胸いっぱいに吸い込んだ。
「麻奈。しょうがないから描かせてやろうか」
理沙は麻奈にだけすばやくウインクをしてみせ、もう線香花火を手に取っている。
「そうだね」
わたしも花火を手に取る。その瞬間、春樹と目が合って、心臓がどくんと跳ね上がった。
わたしと理沙は、三人から少し離れた場所で線香花火を始めた。火をつけると、小さくてきれいな光が目の前でぱちぱちとはぜた。
「ねえ、麻奈」
花火を見つめながら、理沙がささやくように話しかける。
「あの日、見えたよね。春樹に注ぐ白い光」
「うん」
「たぶんみんなにも見えてた。キャンターも、わたしたちと同じようなことをして救われたんだろうね」
「うん。わたしもそう思う」
花火が消えた瞬間、わたしは空を仰いだ。月が明るいせいで、星は少ししか見えない。でも本当は、ここにたくさんの星がある。明るい光にまぎれこんでいても、光を放っていることに変わりはない。
―互いのことを想い合う、たくさんの光と同じだ。
わたしも春樹と同じように道を見失っていた。でも今は、自分を支えてくれるたくさんの光の存在を知っている。だからもっと自信を持って、強く生きていける気がするのだ。
「麻奈、もう一本どうぞ」
理沙が渡してくれた線香花火に、わたしはそっと火をつける。そのひそやかな美しい光に、わたしはもう一度心を弾ませた。
読んで頂いた皆様、本当にありがとうございました。
連載の苦しさを味わいつつも、とても楽しく書けました。
登場人物は全員好きなんですが、特に友也くん、かっこよかった……。なのになかなか幸せになれません。誰か友也くんを幸せにしてくれないだろうか……と強く思います。(自分がしろよ、って話ですが……)
これで『君に星が降りますように』の連載は終了しましたが、まだほかの作品も投稿していますし、新たな作品も書いていきたいと思っています。少しでも上達できるよう、皆さんから評価等を頂ければと思っております。ぜひよろしくお願いします。
ではまた、次回作でお会いできればうれしいです。




